村田春海 むらたはるみ 延享三〜文化八(1746-1811) 号:琴後翁(ことじりのおきな)錦織斎(にしごりのやのあるじ)

江戸日本橋小舟町の豪商、干鰯(ほしか)問屋村田屋の次男として生まれる。通称は平四郎、また治兵衛とも。字(あざな)は士観(さちまろ)。本姓は平氏で、先祖は千葉氏の支流、上総の出という。父忠興(のち春道に改名)は歌と学問を好み、賀茂真淵の門弟にして後援者であった。春海も十三歳の時真淵に入門し、歌道・国学を学ぶ。やはり真淵の門弟であった長兄の春郷は病弱であったため(結局三十歳で夭折する)、請われて家督を継ぐが、遊蕩三昧、ついに財産を蕩尽して零落し、浅草・八丁堀と移って歌道の師範と文筆を業とした。晩年には松平定信から扶持を与えられるなどして生活は安定した。文化八年二月十三日、没。六十六歳。
橘千蔭と共に江戸派を代表する歌人。歌文集『琴後集(ことじりしゅう)』に千六百八十余首の歌を収める(有朋堂文庫・和文和歌集上・校注国歌大系十六・新編国歌大観九などに所載)。歌学・国学等の著述も多く、『歌がたり』『和学大概』『五十音辨誤』『假字大意抄』などの著書がある。弟子に清水浜臣・岸本由豆流・高田与清・小林歌城らがいる。墓は東京の本誓寺(江東区清澄)にある。

以下には『琴後集』より十五首を抜萃した。

  3首  3首  2首  2首  2首  3首 計15首

春のはじめに

つくばねの高嶺のみゆき霞みつつ隅田河原に春たちにけり

【通釈】筑波山の頂の雪が霞み霞みして、隅田川の川原に春がやって来たのだ。

【語釈】◇つくばね 常陸国の歌枕、筑波山。東国の名山。江戸からは関東平野の東北の彼方に聳え立つ山として眺められた。

【補記】筑波山・隅田川、いずれも古来の歌枕であるが、遠近の取り合わせとしてこの二つの歌枕を用いるのは近世になってから(参考歌参照)。詠みぶりは王朝和歌の伝統を踏まえつつ、江戸っ子の実感に即した立春歌となっている。

【参考歌】藤原定家「拾遺愚草」
いつしかと都の野べはかすみつつ若菜つむべき春は来にけり
  橘千蔭「うけらが花」
隅田河ゆふこぎ渡りつくばねの端山につづく雪をみるかな

雲雀落

大空はそこはかとなく霞む野に声のみ落つる夕ひばりかな

【通釈】大空は茫漠として霞んでいる野に、声ばかりが落ちる夕雲雀であるよ。

【補記】下記参考歌のように夕霞の中の落ち雲雀を詠むのは常套的な発想であるが、視界を大きくとって渺漠とさせ、聴覚に焦点を絞ったことで印象が深まった。類想歌中では抜きん出た出来。

【参考歌】藤原家隆「壬二集」
若菜つむ荒田のおもの夕霞分くる袂にひばりおつなり

あくまでも花見るたびにうれしきは世にいとなみのなき身なりけり

【通釈】飽きるまで花を見るたびに嬉しく思うのは、この世に勤めを持たない身であるということなのだ。

【語釈】◇いとなみのなき身 「いとなみ」は生活のための仕事、忙しく勤める仕事などの意。作者の春海は、若くして家産を傾けた遊び人であり、零落して後は歌文で身を立てた人である。

【補記】「花」の題にまとめられた十二首の最初。同歌群には述懐色の濃い歌が多く、掲出歌は中でも作者の人となりが窺われ印象に残る。他に「咲き咲かぬほどをあはれと思ふかな春も奧ある花の日数に」「咲き散るをしたふ桜の花ゆゑに夢とすぐさぬ春はなかりき」などがある。

草花先秋

いつしかと秋の千草(ちくさ)の花数もなかば見えゆく夏の野辺かな

【通釈】まだ夏ながら、いつのまにか、秋のさまざまな種類の花も、半ば程は見えるようになってきた野辺であるよ。

【補記】撫子・女郎花・萩など、「秋の千草」と呼ばれる花は、実際には夏の間から咲き始めているものが多い。草花が真っ先に秋を告げるのである。

鵜川

桂人(かつらびと)鵜川たつとや波のうへにみだれてみゆる瀬々の篝火

【通釈】桂の里人が鵜飼をするのか、あちこちの瀬で波のおもてに乱れて見える篝火よ。

【語釈】◇桂人 山城国葛野郡桂の里に住む人。鮎漁などに従事した。◇鵜川 川に放った鵜に鮎を捕らせる漁。鵜飼に同じ。

【補記】鵜川の題で篝火の炎を詠むのはお約束だが、「たつとや」と調べに勢いをつけ、乱れる火影を詠んで精彩ある一首となった。「波のうへ」は「波の表面」の意と見たい。すなわち「みだれてみゆる篝火」は水面に映った影であり、鵜舟の起こす波の乱れが一層炎の乱れを激しくする。

【参考歌】橘千蔭「うけらが花」
桂人鵜川立つらし五月やみ列(つら)らに浮ける篝火のかげ

夕立晴

かくながら月や宿さむ夕立のなごりとどむる玉ざさの露

【通釈】このまま夜になって月の光を宿すのだろう。夕立のなごりをとどめる笹の葉の露よ。

【補記】笹の露と月光の取り合わせは先蹤があるが、一首の眼目は露を「夕立のなごり」と見たところにある。月夜を想えばひときわの涼感が添う。

【参考歌】源師時「堀河百首」
夜もすがらおきゐてぞみる照る月の光にまがふ玉ざさの露

【主な派生歌】
夕立のひとむら過ぐる玉ざさに露もくもらぬ月を見るかな(清水浜臣)

月前風

おのづから月の光となりにけり雲ふきはらふ夜はの秋風

【通釈】自然と空いちめん月の光となったのだ。夜の秋風が雲を吹き払って。

【補記】上句も下句も端的に言い放って爽快。春海の放胆な個性がうかがえ、これは江戸派の歌人として並び称された橘千蔭には見えない詠みぶりである。源経信の新古今歌にも劣らず、作者第一の秀歌と推したい。

【参考歌】源経信「新古今集」
月影のすみわたるかな天のはら雲吹きはらふ夜はの嵐に

長月つごもり、山里をとひて

山里は秋のなごりぞあはれなる落葉まじりに尾花散る頃

【通釈】山里は秋の名残が趣深いのだ。落葉に混じって芒の穂が散る頃――。

【補記】『琴後集』の秋歌としては「刈りすてし山田にのこる藻屑火の煙さびしき秋の夕暮」「暮れぬ間は虫の音うとき浅茅生に月待つ程ぞ秋は寂しき」などが代表作になろうか。しかし彼の趣向を凝らした歌はおおかた作為が透けて見え、心は空虚である。むしろ掲出歌のような即興の作の方が「あはれ」は深い。

【参考歌】清原元輔「後拾遺集」
紅葉ちるころなりけりな山里のことぞともなく袖のぬるるは

暁天千鳥

沖つ風雲居に吹きて有明の月にみだるる村千鳥かな

【通釈】沖の風が空高く吹いて、有明の月のもと乱れ飛ぶ千鳥の群れであるよ。

【補記】上句はあまりに常識的だが、もっぱら鳴く声の寂しさにばかり着目する常套を脱して、華のある艶な千鳥詠とはなった。

【参考歌】松永貞徳「逍遥集」
陰は又すぐろの色とみえにけり月にみだるる野べの小薄

水路新雪

泊り舟(とま)のしづくの音たえて夜半のしぐれぞ雪になりゆく

【通釈】停泊する舟の屋根の苫から落ちる雫――その音がいつの間にか絶えて、気がつけば夜半から降り出した時雨が雪に変わってゆく。

【語釈】◇苫 菅(すげ)や萱(かや)を編んで、覆いとしたもの。和船の屋根にも用いられた。「とまりぶね とま」と頭韻を踏む。

【補記】時雨が雪に変わるという趣向は幾らでも先蹤があるが、「苫のしづくの音」が絶えたことでその変化に気づいたとした。感覚を繊細に働かせ、なめらかな調べで詠み下す、江戸派の典型的な作風である。

【参考歌】慈円「続拾遺集」
志賀の浦やしばし時雨の雲ながら雪に成りゆく山おろしの風
  藤原為家「玉葉集」
ふる雪の雨になりゆく下消えに音こそまされ軒の玉水

詞和不逢恋

つらからぬ言葉ぞつらき中々に思ひこりよと言ひもはなたで

【通釈】あの人の非情でない言葉がかえって辛い。いっそ、思いあきらめよと突き放せばよいのに、そうも言ってくれずに。

【補記】「詞和不逢恋」の題は平安末期ごろから見える。訓み下せば「詞(ことば)は和(なご)やかにして、逢はざる恋」であろう。

【参考歌】源頼光「拾遺集」
中々に言ひもはなたで信濃なる木曽路の橋のかけたるやなぞ

おもひいづ

見し世にはただなほざりの一言も思ひ出づればなつかしきかな

【通釈】恋仲であった頃には気にも留めないような一言であっても、今思い出すと慕わしいよ。

【補記】『琴後集』巻八所載、『古今和歌六帖』の題で詠んだ百二十首のうちの一首。

【参考歌】衣笠家良「新撰和歌六帖」
世にふればただなほざりの言の葉もなさけあるこそ忘れがたけれ

高殿に雪見る人あり

雪ふれば千里もちかし欄干(おばしま)のもとよりつづく不二の柴山

【通釈】雪が降り積もったので千里の遠くも間近に感じられる。欄干の下からそのまま続いているかのような富士の裾野よ。

【語釈】◇欄干(おばしま) 橋や建物の手すり。掲出歌では高楼の欄干。◇不二(ふじ)の柴山(しばやま) 富士山の異称、また富士山の裾山。「柴山」は雑木の生えた山のことであるが、掲出歌では、富士の裾野、もしくは雑木に覆われた裾野の起伏を言うのだろう。根雪には覆われない部分であるが、そこまでも真っ白になった一面の銀世界。距離感も喪失し、「千里もちかし」と言うのである。

【補記】『琴後集』の巻七は「題画歌」を集めている。掲出歌は、《高楼で雪を眺める人》を描いた絵に添えた歌である。「題画歌」すなわち画賛の常として、描かれた絵の内容をそのまま歌にすることは避ける。ここでは「雪見の人」の景から、その人の眺める景へと想を転じているのである。

【参考歌】賀茂真淵「賀茂翁家集」
雪はるる朝けに見れば不二の嶺のふもとなりけり武蔵野の原

浅間の山の絵に

あさま山神のいぶきの霧はれて雲居にたてる夕けぶりかな

【通釈】神の吐いた息のごとき霧が晴れて、浅間山の噴煙が夕空高く立ちのぼっている。

【語釈】◇あさま山 群馬・長野県境の山。現在も活動中の火山。叙景の和歌では煙を詠むのが常套。因みに春海生存中の天明三年(1783)には大噴火が起こり、江戸にも灰が降って昼でも暗夜のようだったという。

【補記】これも題画歌。一首の眼目は「雲居に立てる夕けぶり」よりも「神のいぶきの霧はれて」にあり、これによって山の神々しさが際立った。この歌を得て、絵もさぞ引き立ったことだろう。浅間山を詠んだ歌では、宗良親王の「信濃路や見つつ我が来し浅間山雲は煙のよそめなりけり」(新葉集)と双璧ではないか。

【参考歌】加藤宇万伎「しづのや家集」
いぶき山いぶく朝風吹きたえてあふみは霧の海となりぬる

海量法師のはじめて訪ひ来けるに詠みて贈れる

春の日の のどなる時に ふせ庵の 金戸をひらき 糟湯酒(かすゆざけ) 飲みつつをれば 走り出に くつの音きこゆ 今しはし たれか来ぬると たちむかひ 姿をみれば 霜やたび 置くと見るまで 真白髪(ましらが)を うな根におほし 海松(みる)のごと わわけし髭を むなさかに 長くし垂れて ぬの衣 真袖もゆたに 手つか杖 腰にたがねつ いづくより 来ますと問へば 年久に しが名を聞きて いはばしの 近江の国ゆ はろばろと われは訪ひ来と ねもごろに 君ぞのらせる しかれども おその我はも なぞへなき 世のしれ人 ひがみたる 国のすて人 わが目らは 四つしもあらず わが口は 二つもなきを 如何さまの 人と聞かして めづらしみ 我を訪はせる いともいとも あやしきかもよ 真白髪のをぢ

【通釈】春の日の、穏やかな時に、粗末な拙宅の門を開けたまま、糟湯酒(かすゆざけ)を飲んでいると、門口に履の音が聞こえる。今頃誰が来たのだろうと、立って迎え、姿を見ると、霜が何度も置いたと見える程、真っ白な髪を、うなじのもとまで生やし、海松(みる)のようにほつれ乱れた髭を、胸に長く垂らして布製の服の、両袖もゆったりと、手束杖を腰にあてがっていた。「どちらから御出でですか」と問うと、「何年も前、そなたの名を聞いて、近江の国から、遥々私は訪れたのです」と、丁寧にあなたはお告げになる。けれども、遅鈍の私であるよ、比べようのない、この世の痴人、ひねくれた、国に捨てられた人、私の目は、四つもありはせず私の口は、二つもないのに、いかなる様の人と聞いて、珍しがって私を訪問されたのか。はなはだ不思議であるよ。真白髪の翁よ。

【語釈】◇海量法師 近江の僧侶・歌人。同じ真淵門であった。諸国を遍歴し旅日記『ひとよばな』を残す。◇ふせ庵(いほ) 軒の傾いた家。自宅を謙遜して言う。◇金戸(かなと) 鉄の金具などを使った門。 ◇糟湯酒(かすゆざけ) 酒かすを湯に溶かしたもの。万葉集の山上憶良の長歌にも見える。◇今しはし よりによって今頃。二つの「し」はいずれも強調の助詞。◇海松(みる) 海藻の一種。みるめ。幹が多数分岐するので、乱れた髪の譬喩などに用いられた。◇いはばしの 近江の枕詞として用いる。「いはばしる」からの転。

【補記】真淵門の歌人は長歌の制作にも積極的な人が多かったが、なかでも春海は熱心に取り組んだ一人である。長い歴史を持つ短歌よりも、万葉以後ほぼ途絶えていた長歌の方により豊かな可能性を見出してもいた。『詠王昭君歌』など叙事的な長編も試み、発表当時は話題を呼んだようであるが、やや散漫の印象は免れない。ここには比較的短く、ユーモラスな一編を取り上げた。


公開日:平成19年08月07日
最終更新日:平成27年07月10日