舎人親王の子。三原王の弟。天平六年(734)三月の聖武天皇の難波行幸に従駕し、万葉集に歌を残している(巻6−999・1000)。天平十二年(740)正月、無位より従四位下に叙され、同年冬の関東行幸に従駕して従四位上に昇叙されているが、以後の消息は不明。
春三月、難波の宮に幸(いでま)す時の歌
【通釈】茅渟の方から雨が降ってくる。四極の海人が綱手を干している。濡れてしまうのではないか。
【語釈】◇茅渟廻 茅渟あたりの意。茅渟(血沼とも書く)は和泉国の古名、また大阪湾をも言う。◇四極 今の住吉区から東住吉区・平野区あたりの地名という。◇綱手 船を引くための綱。
【補記】天平六年(734)三月、聖武天皇の難波行幸での作。左注に「右の一首は、住吉の浜に
児らしあらば二人聞かむを沖つ洲に鳴くなる
【通釈】あの子がいたら二人で聞こうものを。沖の洲で鳴いている鶴の暁の声よ。
【補記】同じく天平六年(734)三月、聖武天皇の難波行幸での作。平城京に残して来た妻を思い遣っての作。左注に「右一首、守部王作」とある。
更新日:平成15年11月08日
最終更新日:平成21年03月22日