小式部内侍 こしきぶのないし 生年未詳〜万寿二(1025)

橘道貞と和泉式部の間の子。
寛弘六年(1009)頃、母とともに上東門院彰子に仕える。はじめ堀河右大臣頼宗の愛人であったらしいが、その弟二条関白藤原教通の妾となって一子を生む(のちの静円)。また藤原範永との間に女子を生んだ(堀河右大臣家女房。「範永女」として後拾遺集に歌を載せる)。万寿二年(1025)十一月、藤原公成の子(のちの頼忍阿闍梨)を出産後、死亡した。二十八歳くらいか。歌人藤原定頼との親交も知られる。後拾遺集初出。勅撰入集は八首(金葉集は二度本で数える)。女房三十六歌仙。「おほえ山…」の歌が小倉百人一首にとられている。

題しらず

見てもなほおぼつかなきは春の夜の霞をわけていづる月かげ(続後撰145)

【通釈】いくらよく見ても、やはり覚束ないのは、春の夜に立ち込める霞を分けて現われる月である。

【補記】出典は開催時期不明の「禖子内親王家庚申夜歌合」。

【参考歌】紀貫之「拾遺集」
つねよりもてりまさるかな山のはの紅葉をわけていづる月影

【主な派生歌】
山の端はそこともわかぬ夕ぐれに霞をいづる春の夜の月(*宗尊親王)

二条関白、白川へ花見になむと言はせて侍りければ、よめる

春のこぬところはなきを白川のわたりにのみや花はさくらむ(詞花280)

【通釈】春の来ないところはないのに、白川のあたりにだけ花は咲くのでしょうか。私の家にだって花は咲いておりますのに。

【補記】二条関白藤原教通(996-1075)が使を送り「白川へ花見に行こう」と言って来たのに対する返事としての歌。家を訪ねてくれないことを恨み、拗ねてみせたものであろう。白川は今の京都市左京区岡崎あたり、同名の川が流れる桜の名所。

【参考歌】よみ人しらず「古今集」
春の色のいたりいたらぬ里はあらじさけるさかざる花の見ゆらむ

二条前大臣、日頃患ひて、おこたりて後、「など問はざりつるぞ」と言ひ侍りければよめる

死ぬばかり嘆きにこそは嘆きしかいきてとふべき身にしあらねば(後拾遺1001)

【通釈】あなたのご病気を聞いて私の方こそ死ぬばかりに嘆きに嘆いておりました。とても生きてはいられず、あなたのお宅へお見舞に伺えるような我が身ではありませんでしたので。

【語釈】◇二条前大臣(にでうのさきのおほいまうちぎみ) 藤原教通。◇いきてとふべき 「いきて」は「生きて」「行きて」の掛詞。

【補記】教通が何日も病臥していて、小康を得てのち、「どうして見舞に来てくれなかったのか」と言って来たのに対する返事。死ぬほど心配していたことを訴えつつ、妾としての立場から本宅を訪問することは憚られたと弁解している。

和泉式部、保昌に具して丹後国に侍りける頃、都に歌合侍りけるに、小式部内侍歌よみにとられて侍りけるを、定頼卿、局のかたに詣で来て、「歌はいかがせさせ給ふ、丹後へ人はつかはしてけんや、使まうで来ずや、いかに心もとなくおぼすらん」など、たはぶれて立ちけるを、引き留めてよめる

おほえ山いく野の道のとほければまだふみもみず天の橋立(金葉550)

【通釈】大枝山を越え生野を通り、幾つもの野を過ぎて行く道があまりに遠いので、まだ天の橋立を踏んでもおりませんし、丹後からの母の手紙も見ておりません。

天の橋立 京都府宮津市

【語釈】◇おほえ山 京都市西京区の大枝山。亀岡市との境をなす山々の総称。旧山城・丹波国境にあたる。酒呑童子伝説で名高い大江山(丹波・丹後国境)とよく混同される。◇いく野 生野。京都府福知山市に地名が残る。「行く」を掛け、また「幾野」(いくつもの野)の意も掛かる。◇まだふみもみず 「(天の橋立を)踏みもしない」「(母からの)手紙も見ていない」の両義。◇天(あま)の橋立(はしだて) 丹後国の歌枕。京都府宮津市の宮津湾に突き出した砂嘴。その名は「天にのぼるために立てた梯子」程の意。『丹後国風土記逸文』によれば、イザナギが天にのぼろうとして作った橋が倒れて天の橋立になったのだという。

【補記】小式部内侍が歌合に呼ばれた時、藤原定頼が彼女の局にやって来て、「丹後の国におられる母上(和泉式部)のもとへ人を遣わしましたか。まだ使者は来ませんか。さぞ心細いでしょう」とからかった。それに対して、「母からは手紙さえもらっていません」と答えた歌。「母の力を借りずとも大丈夫です」と言い返したものであろう。

【他出】定家八代抄、八代集秀逸、時代不同歌合、百人一首、女房三十六人歌合、平家物語、十訓抄、古今著聞集

【主な派生歌】
大江山こえていく野の末とほみ道ある世にもあひにけるかな(*藤原範兼[新古今])
ふみもみぬいく野のよそにかへる雁かすむ浪間のまつとつたへよ(藤原定家)
ことづてむ人の心もあやふさにふみだにも見ぬあさむつの橋(藤原定家)
おほえ山こかげもとほくなりにけりいく野のすゑの夕立の空(*飛鳥井雅経)
おほえ山いく野の道の長き夜に露をつくしてやどる月かな(後鳥羽院)
夏草は繁りにけりな大江山こえていく野の道もなきまで(藤原忠定[新後拾遺])
草の原いくのの末にしらるらん秋風ぞ吹く天の橋立(順徳院)
ふる雪に生野の道の末まではいかがふみみん天の橋立(正親町院右京大夫[続拾遺])
思ふよりいとどいく野の道たえてまだふみもみずつもる雪かな(少将内侍)
おほえ山いく野の道もまだ見ねばただ恋ひわたる天の橋立(飛鳥井雅有)
大江山過ぎしいく野のなぐさめに日をわたるべき天の橋立(後柏原院)
かけていはば遠き道かは人の世も神代のままの天の浮橋(三条西実隆)
大江山とほしとみえしほどもなくいく野のすゑにかかる夕立(中院通勝)
たよりありて待たれし雲の上人もけふふみそむる天の橋立(細川幽斎)
恋ひわたる天の橋立ふみみても猶つれなしや与謝のうら松(松永貞徳)
浪の音に聞きつたへても思ふぞよふみ見ばいかに天の橋立(後水尾院)
さらにその天のはしだてふみも見じいく野の末にかすむ雁がね(契沖)
年をへて思ひわたりししるしにや今日ふみ見たる天の橋立(田捨女)
おほえ山いくへかすみて丹波路やいく野のすゑに春風ぞふく(清水浜臣)


更新日:平成17年04月24日
最終更新日:平成19年12月21日