藤原兼輔 ふじわらのかねすけ 元慶一〜承平三(877-933) 通称:堤中納言

右中将利基の子。三条右大臣定方は従兄。男子に雅正清正があり、共に勅撰集入集歌人。紫式部は曾孫にあたる。系図
醍醐天皇の寛平九年(897)七月昇殿を許され、同十年正月、讃岐権掾に任官。その後、左衛門少尉・内蔵助・右兵衛佐・左兵衛佐・左近少将・近江介・内蔵頭などを歴任し、延喜十七年(917)十一月、蔵人頭となる。同二十一年正月、参議に就任し、延長五年(927)正月、従三位権中納言。同八年、中納言兼右衛門督。承平三年二月十八日、薨。五十七歳。
紀貫之凡河内躬恒ら歌人と親しく交流し、醍醐朝の和歌隆盛期を支えた。鴨川堤に邸宅を構えたので、堤中納言と通称された。三十六歌仙の一人。家集『兼輔集』がある。古今集に四首、後撰集に二十四首。勅撰入集は計五十八首。

  1首  1首  3首 哀傷 4首  6首 計15首

夏の夜、深養父が琴ひくをききて

みじか夜のふけゆくままに高砂の峰の松風吹くかとぞ聞く(後撰167)

【通釈】短い夏の夜が更けてゆくにつれて、ますます趣深く響く琴の音を、あたかも高砂の峰の松に風が吹きつけ音を立てているのかと聞くことだ。

【語釈】◇深養父 清原深養父。琴の名手であったらしい。◇高砂の峰の松風 琴の音を松風に喩えて讃美する。「高砂」は播磨国の歌枕。古今集仮名序に「たかさご、すみのえのまつも」云々とあり、松の名所とされていた。この歌では「峰」の枕詞と解する説もある。

【補記】深養父の琴の音を「高砂の峰の松風」に喩えて讃美し、趣深い夏の夜が更けて行くことを惜しむ。松風は普通秋の風物で、「ふけゆく」は夏という季節が深まる意をも響かせる。

【他出】俊成三十六人歌合、古来風躰抄、時代不同歌合、定家八代抄

【主な派生歌】
夏の夜ののどけき雨をあしびきの山の松風ふくかとぞきく(曾禰好忠)
笛竹の夜ふかき声ぞ聞こゆなる峯の松風吹きやそふらむ(藤原斉信[千載])
石見のや高津のやまの松風のここに通ひて吹くかとぞきく(木下幸文)

おまへに菊奉るとて

けふ堀りて雲ゐにうつす菊の花(あめ)の星とやあすよりは見む(兼輔集)

【通釈】今日掘って内裏に移し植える菊の花は、明日からは天に輝く星と見ましょうか。

【補記】醍醐天皇に菊を献上する時の作。菊の花弁の形状を星の輝きに見立てている。

題しらず

みかの原わきてながるる泉河いつ見きとてか恋しかるらむ(新古996)

【通釈】三香の原を分けて流れる泉川――その「いつみ」ではないが、一体いつ見たというのでこれ程恋しいのだろうか。

木津川(泉川)
泉川(木津川) 京都府木津川市

【語釈】◇みかの原 三香原、瓶原、甕原などと書く。山城国相楽郡。聖武天皇の時代に一時都が置かれた。甕(みか)を埋めたところから水が湧き出たとの古伝があると言う。◇わきてながるる 二つに分けて流れる。「わき」は「分ける」意の四段動詞。上記「甕(みか)」にまつわる古伝に基づき「わきて」を「湧きて」の意とする説もあるが、歌枕泉川を詠んだ歌に甕の伝説を反映した作例は無い。万葉集に「泉河渡りを遠み」「泉河渡り瀬深み」と川幅の広さ・水量の豊かさを謳われた歌枕泉川には「(野を)分きて」と解する方が相応しく、また心を裂くような切ない恋の心象風景としてもこの方が相応しい。但し「湧き」は「泉」の縁語なので、その限りにおいて「湧き」の意が掛かることになる。◇泉河 今の木津川にあたる。同音反復より「いつ見き」を導く。◇いつ見きとてか いつ逢ったからというので。「見」はここでは逢瀬を遂げることを言う。

【補記】「いづみがは」までの上句により「いつ見き」を起こすという序詞を用いた古風な様式の歌。歌題は「未逢恋」(未だ逢はざる恋)とするか「逢不逢恋」(逢ひて逢はざる恋)とするか、説が分かれる。「いつみきとてか」につき、実際一度も逢ったことがないと解すれば「未逢恋」、いつ逢瀬を遂げたか分からないほど永く逢っていないと解すれば「逢不逢恋」となろう。新古今集では恋一の七首目に置かれ、「未逢恋」の歌として撰入されていることが明らか。
なお出典は古今和歌六帖「川」の項であるが、兼輔作の歌のあとに作者名不明記で載せられている歌の一つであり、作者を兼輔とする根拠は乏しいようである。

【他出】古今和歌六帖、俊成三十六人歌合、和歌初学抄、時代不同歌合、定家八代抄、百人一首、詠歌一体、三五記

【主な派生歌】
みかの原ながるる河のいつみきとおぼえぬせにもぬるる袖かな(藤原基家)
泉川こまのわたりのとまりにもまだ見ぬ人の恋しきやなぞ([夫木抄])
いづみ川ゆくせの波の程にのみききこし人に恋ひやわたらむ(宗尊親王)
春はただみきともいはじ泉河わきてかすめる波の上の月(慶運)
泉川こほりにけりなゆく水のわきて流るるかたもなきまで(二条良基)
かけとめよ雲まの月を三かの原袂にわきていづみ川なみ(正徹)
ほのかにも山より月のいづみ川ひかりぞ四方にわきて流るる(三条西実隆)
袖かけて夕波すずしいづみ川秋のこころや分きてながるる(上冷泉為和)
みかの原こよひの月の光さへわきてながるるいづみ川かな(松永貞徳)
泉川わきて秋こそかなしけれはらへばむすぶかせの山霧(加納諸平)
いつみきかいつみきとてか泉なる空にうつせば満目の花(山中智恵子)

題しらず

よそにのみ聞かましものを音羽(おとは)川わたるとなしに身なれそめけむ(古今749)

【通釈】噂に聞くだけでおれば良かったものを。音羽川を渡るようにあの人との一線を越えるわけでもなく、どうして私は中途半端に馴染み始めてしまったのだろうか。

【語釈】◇よそにのみ聞かましものを 遠くから噂にばかり聞いていれば良かったのに。◇音羽川 山城の歌枕。京都市山科区と滋賀県大津市の境の音羽山より発し、山科川に注ぐ。但し比叡山に発し高野川に合流する川も同名であり、また清水にも同名の川がある。噂の意味の「おと」と掛詞になる。◇わたるとなしに 川を渡るように、恋人と一線を越えることなしに。◇身なれそめけむ (恋人に)親しみ始めてしまったのだろう。「水馴れ」(棹が水に馴染む意)と掛詞。

女の、怨むることありて親のもとにまかり渡りて侍りけるに、雪の深く降りて侍りければ、朝(あした)に女の迎へに車つかはしける消息に加へてつかはしける

白雪の今朝はつもれる思ひかな逢はでふる夜のほどもへなくに(後撰1070)

【通釈】白雪のように今朝は積もっているあなたへの思いですよ。お逢いできずに過ごした夜はそれ程積み重なってはおりませんのに。

【補記】恨むことあって実家に帰ってしまった女のもとに、雪の深く積もった朝、迎えの車を派遣した時の手紙に添えた歌。

哀傷

式部卿敦慶のみこ、かくれ侍りにける春よみ侍りける

咲きにほひ風待つほどの山ざくら人の世よりは久しかりけり(新勅撰1225)

【通釈】咲き誇り、風を待つまでの間の山桜よ――人の生のはかなさに較べれば、長続きするものであったよ。

【補記】「敦慶のみこ」は宇多天皇の皇子。色好みとして有名。伊勢との間に中務をもうけた。延長八年(930)二月、四十四歳で薨。

先帝おはしまさで、世の中思ひ嘆きてつかはしける  三条右大臣

はかなくて世にふるよりは山科の宮の草木とならましものを

【通釈】たよりなく、むなしい状態でこの世に永らえるよりは、山科の御陵の草木になってしまえばよかったものを。

【補記】「先帝」は醍醐天皇。延長八年(930)九月二十九日崩御。同年十月十日、山科御陵に葬られた。

返し

山科の宮の草木と君ならば我はしづくにぬるばかりなり(後撰1397)

【通釈】あなたが山科御陵の草木となるのなら、私はその草の雫に濡れるばかりです。

【補記】従兄の藤原定方との間で醍醐天皇の崩御を悼んでの贈答。「しづくにぬる」は涙に濡れることの譬え。

醍醐のみかどかくれたまひて後、やよひのつごもりに、三条右大臣につかはしける

桜ちる春の末には成りにけり雨間(あまま)もしらぬながめせしまに(新古今759)

【通釈】桜の散る春の終りになったことです。止む暇もない春雨に、亡き帝を悼んでいる間に。

【補記】これも醍醐天皇崩御の後、藤原定方に贈った歌。雨に涙を暗示。

【本歌】小野小町「古今集」
花の色はうつりにけりないたづらに我が身世にふるながめせしまに

(め)の身まかりてのち、住み侍りける所の壁に、かの侍りける時書きつけて侍りける手を見て

ねぬ夢に昔のかべを見つるよりうつつに物ぞかなしかりける(後撰1399)

【通釈】眠っていたのではないのに、夢のような幻として、亡き妻の筆跡の書かれた壁を見てからというもの、目覚めている間も、何となく悲しくてならないことだ。

【補記】妻の死後、住居の壁に妻が生前書きつけた筆の跡を見て詠んだ歌。「夢をば壁といふなり」(歌林良材集)。

大江千古が越へまかりけるむまのはなむけによめる

君がゆく越のしら山しらねども雪のまにまにあとはたづねむ(古今391)

【通釈】あなたの行かれる越の白山はその名の通り「知ら」ないけれども、雪に積もった足跡をたよりに尋ねて行きましょう。

【語釈】◇大江千古(おほえのちふる) 参議音人の子。千里の弟。醍醐天皇の侍読を務めた。◇越(こし)のしら山 加賀白山。同音反復により「知らねども」を導く形になる。◇雪のまにまに 「雪」「行き」が掛詞。あなたが行かれるままに。雪に積もった足跡をたよりに。◇あとはたづねむ あなたの通った跡を慕って尋ねて行こう。「あと」は雪の縁語。

【補記】離別歌。友人の千古が越に赴く際、餞別として詠んだ歌。

【参考歌】紀貫之「古今集」
思ひやる越の白山しらねどもひと夜も夢にこえぬ夜ぞなき

藤原治方遠江に成りてくだり侍りけるに、餞し侍らんとて待ち侍りけれど、まうでこざりければよみてつかはしける

こぬ人をまつ秋風のねざめには我さへあやな旅ごこちする(新拾遺744)

【通釈】帰って来ない人をあてどなく待つ夜な夜な――秋風の音を聞きながら寝覚した時などには、どうしたことか私までが旅心地になり、無性に頼りない気持になるのです。

【補記】離別歌。藤原治方は経邦の子。『兼輔集(歌仙家集本)』も詞書はほぼ同じだが、「かうぶり給はりて遠江守になりて…」とある。

勅使にて、斎宮へまゐりてよみ侍りける

くれ竹の世々の宮こときくからに君は千年のうたがひもなし(新勅撰453)

【通釈】代々栄える多気(たけ)の御在所と伺いますからには、宮様の長寿は疑いもありません。

【補記】「くれ竹の」は「よよ(代々、節々)」の枕詞。「竹」には伊勢斎宮の所在地「多気(たけ)」が掛ける。「宮こ」は宮(ここでは斎宮)のある場所。なおこの時の斎宮は宇多天皇皇女柔子内親王。『大和物語』第三十六段にも見える歌。

藤原さねきが、蔵人より、かうぶり賜はりて、明日殿上まかり下りむとしける夜、酒たうべけるついでに

むばたまの今宵ばかりぞあけ衣あけなば人をよそにこそ見め(後撰1116)

【通釈】今宵ばかりは緋色の衣を着たあなたと御一緒できますが、夜が明ければ、私には遠い人として見ることになるでしょう。

【補記】「藤原さねき」は藤原真興かと言う。陸奥守などを勤めた人。六位の蔵人の地位にあったが、叙爵して(地方の国守等に栄転したか)明日殿上を去ろうとする夜、酒宴の席で詠んだ歌。「あけ衣」は五位の着る緋色の衣。また次句「あけなば」を起こす。

太政大臣の、左大将にて、相撲(すまひ)の還饗(かへりあるじ)し侍りける日、中将にてまかりて、こと終はりて、これかれまかりあかれけるに、やむごとなき人二三人ばかりとどめて、まらうど、あるじ、酒あまたたびの後、酔ひにのりて、こどもの上など申しけるついでに

人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな(後撰1102)

【通釈】子を持つ親の心は闇というわけでもないのに、親たる者、子供のこととなると、道に迷ったかのように、どうすればよいか分からず混乱してしまうことですよ。

【語釈】◇太政大臣 藤原忠平。◇相撲 相撲の節会。陰暦七月下旬におこなわれた宮中の年中行事。◇還饗(かへりあるじ) 相撲の節会で勝った方の大将が自邸で味方に対し催す饗宴。

【補記】太政大臣藤原忠平が左大将であった時、相撲の節会の還饗に中将であった兼輔が招かれ、言わば二次会の酒の席で子供の話題となった。その時の作。

【他出】古今和歌六帖、大和物語、兼輔集、前十五番歌合、三十人撰、三十六人撰、深窓秘抄、定家八代抄

【主な派生歌】
一こゑも君につげなむ時鳥この五月雨は闇にまどふと(*藤原彰子[千載])
子を思ふ道こそ闇と聞きしかど親の跡にもまよはれにけり(選子内親王)
人の子の親になりてぞ我が親の思ひはいとど思ひ知らるる(*康資王母)
花をらむ心もそらに成りにけり子を思ふ道におもひみだれて(大江匡衡)
なき影の親のいさめはそむきにき子を思ふ道の心よわさに(藤原定家[続拾遺])
位山跡を尋ねてのぼれども子をおもふ道になほまよひぬる(源通親[新古今])
まよひこし心の闇をしるべにて子を思ふ道に月をみる哉(玄覚[新続古今])
敷島やこの道なくば子の道に迷ふ心のやみははるけし(正徹)
しらざりし誰もねざめの秋の雨の子をおもふ道にふるは涙を(藤原惺窩)
子を思ふ親の心は人の子の親となりてぞ思ひ知りてき(賀茂季鷹)

亭子院、大内山におはしましける時、勅使にてまゐりて侍りけるに、ふもとより雲たちのぼりけるを見てよみ侍りける

白雲のここのへにたつ峰なればおほうち山といふにぞありける(新勅撰1265)

【通釈】白雲が次々に立ちのぼり、九重にまで取り巻く峰なので、「大内」山と言うのでありました。

大内山 京都市右京区仁和寺境内より

【語釈】◇亭子院 宇多法皇◇大内山 京都市右京区、仁和寺の北にある山。御室(おむろ)山とも言う。宇多法皇の離宮があったので、御所の意の「大内」と掛詞になる。◇ここのへ 九重。宮殿の異称。

【補記】宇多天皇が大内山の離宮に滞在中、兼輔は勅使として参上した。その時、大内山の麓から雲が立ち昇ったのを見て詠んだという歌。


最終更新日:平成16年02月28日