選子内親王 せんしないしんのう 康保元〜長元八(964-1035) 通称:大斎院

村上天皇の第十皇女。母は中宮安子(藤原師輔女)。冷泉天皇・為平親王・円融天皇の同母妹。
康保元年四月生誕。母安子は産後五日で亡くなった。天延三年(975)六月二十五日、十二歳で賀茂斎院に卜定され、陸奥守平貞盛の二条万里小路宅を潔斎所とした。貞元二年(977)、紫野院に入る。以後、円融・花山・一条・三条・後一条の五代にわたり斎院に奉仕した。万寿元年(1024)正月、一品に叙せられる。長元四年(1031)九月、病により斎院を退下し、出家した。長元八年(1035)六月二十二日、薨。七十二歳。
和歌や管弦を好み、斎院は華やかなサロンの観を呈した。馬内侍・斎院中将ほか側仕えの女房も歌を能くした人が多い。中宮彰子斎宮女御との親交も窺える。『大斎院前の御集』『大斎院御集』は選子内親王を始め斎院に集まる人々の日常的な贈答歌を集めた歌集であり、また『発心和歌集』は選子内親王の釈教歌からなる家集である。拾遺集初出。勅撰入集三十八首。

夕暮がたに、ちひさき籠(こ)に鈴虫を入れて、紫のうすやうにつつみて萩の花にさして、さるべき所の名のりをせさせて、斎院に差し置かすとて、そのつつみ紙に書き付けたりける   よみ人しらず

しめのうちの花のにほひを鈴虫の音にのみやはききふるすべき

【通釈】立入禁止区域の花の美しさを、この籠の中の鈴虫の声ではありませんが、噂にばかり聞いて実際は見もせずに過ごしてよいものでしょうか。

【語釈】◇うすやう 雁皮紙。◇しめのうちの花 「しめ」は立入禁止の標識。「花」は斎院に奉仕する女たちを喩える。◇花のにほひ 萩の花の色美しさ。◇音にのみ 音は鈴虫の鳴き声とともに「噂」の意を掛ける。

【補記】ある日の夕暮、鈴虫を入れた小さな籠を紫の雁皮紙に包んで選子内親王のもとに贈った際、その包み紙に書き付けたという歌。作者は男であろう。

返し

いろいろの花はさかりに匂ふとも野原の風の音にのみ聞け(続千載382)

【通釈】さまざまの花は今が盛りの時と咲き匂うとも、野原の風の音のように、噂に聞くだけで我慢なさい。

【補記】斎院には馬内侍を始め才媛が多数仕えていた。その華やかに雅びな雰囲気を髣髴とさせる贈答である。

八日、前栽の露置きたるを折りて、法成寺入道前摂政のもとにつかはすとて

露おきてながむる程を思ひやれ天の河原のあかつきの空(続千載353)

【通釈】七夕の夜が明けて、露の置いた草原を眺める悲しさの程を思いやって下さい。天の川の川原の暁の空のもとで。

【補記】「法成寺入道前摂政」すなわち藤原道長に贈った歌。詞書に「八日」とあるのは七月八日。すなわち七夕の翌朝で、牽牛と織女が年に一度の逢瀬を遂げた後朝(きぬぎぬ)である。恋歌仕立ての風流な挨拶歌。

年の暮に琴をかきならして、空も春めきぬるにやと侍りければ   宰相

琴のねを春のしらべとひくからにかすみて見ゆる空目なるらむ

【通釈】まだ歳末ではありますが琴の音を春の調べとして弾くゆえに、ぼんやりとした目には空も霞んで見えるのでしょうか。

【語釈】◇宰相 選子内親王家宰相。女房名。◇空目 不確かな目。ぼんやりと見ること。前句からの続きで「かすみて見ゆる空」を掛ける。

返し

琴のねの春のしらべに聞こゆれば霞たなびく空かとぞ思ふ(新勅撰1116)

【通釈】あなたの弾く琴の音がめでたくも春の調べに聞こえるので、早くも霞のたなびく空かと思うのですよ。

【補記】霞んで見えるのを「空目」かとした贈歌に対し、そう思うのも無理がないほど琴の音が素晴らしいのだと応じた。

少納言なくなりてあはれなる事などなげきつつ、おきたりける百和香(はくわかう)を小さき()にいれて、せうと棟政朝臣につかはしける

(のり)のため摘みける花をかずかずに今はこの世のかたみとぞ思ふ(後拾遺579)

【通釈】少納言と共に、御仏のためにお供えとして摘んだ花を数々合わせて百和香の籠を作りましたが少納言の亡くなった今となっては、これがこの世に残した形見と思うのです。

【語釈】◇少納言 「天暦の御乳母」(八代集抄)。村上天皇の乳母だった人。◇百和香 種々の香料を合わせた薫物(たきもの)の名。◇せうと 亡くなった「少納言」の兄弟。◇棟政朝臣 不詳。「陳政朝臣」とする本もあり、だとすれば安親の子で春宮亮などをつとめた藤原陳政。◇花をかずかずに 百和香のことを言っている。

【補記】村上天皇の乳母を勤めた「少納言」が亡くなった時、兄弟の「棟政朝臣」に贈った哀傷歌。『大斎院御集』の詞書は「少納言のなくなりし、あはれなる事など人々いひて、百和香しおきたりけるをとりいでて、せうとのえさうにつかはす」。

女御徽子女王、伊勢にくだり侍りける時

秋霧のたちてゆくらむ露けさに心をそへて思ひやるかな(続古今833)

【通釈】秋霧が立つこの露っぽい季節に発ってゆかれるのは、さぞや悲しみの涙も多いことでしょうと、心を寄せて拝察しておりますよ。

【語釈】◇秋霧の 季節の風物を用いて「立ちて」を導く序とした。◇露けさ 露っぽさ。別れを悲しんで流す涙を暗示している。

【補記】これも離別歌。貞元二年(977)、娘の斎宮規子内親王に同行して伊勢に下る徽子女王に贈った歌。徽子女王の返しは「よそながらたつ秋霧は何なれや野べに袂はわかれぬものを」。

上東門院尼にならせ給ひけるころ、よみてきこえはべりける

君すらもまことの道に入りぬなりひとりや長き闇にまどはむ(後拾遺1026)

【通釈】私より若いあなたですら仏道に入られたのですね。私一人、無明長夜の闇に惑い続けるのでしょうか。

【補記】万寿三年(1026)、上東門院藤原彰子が三十九歳で出家した頃に贈った歌。選子内親王の出家は遅れて長元四年(1031)、病により斎院を退下しての後であった。

【他出】栄花物語、今鏡、古本説話集

後一条院幼くおはしましける時、祭御覧じけるに、斎院(いつき)の渡り侍りけるをり、入道前太政大臣いだきたてまつり侍りけるを見たてまつりてのちに、太政大臣のもとにつかはしける

光いづるあふひのかげを見てしかば年経にけるもうれしかりけり(後拾遺1108)

【通釈】光り輝く葵のお姿を拝見しましたので、こんなに年を取るまで生きてきたことも嬉しう存じますよ。

【語釈】◇光いづるあふひのかげ 賀茂祭で用いられる葵にかけ、幼い後一条院をこのように言った。「逢ふ日」の意を掛けるか。また、「光」「日」「かげ」は縁語関係で結ばれる。

【補記】寛弘三年(1006)、当時三歳であった後一条院の賀茂祭見物の際、太政大臣藤原道長が後一条院を抱いているのを見て、道長のもとに贈った歌。

【他出】栄花物語、大鏡、古本説話集

釈教

賀茂の斎院(いつき)ときこえける時に、西にむかひてよめる

思へども忌むとて言はぬことなればそなたに向きてねをのみぞ泣く(詞花410)

【通釈】心にかけて思うけれども、忌事(いみごと)として口にできないので、そちらの方を向いて、声あげて泣いてばかりいるのだ。

【補記】斎院の身でありながら仏道に心をかけるのは忌むべきことだったので、ただ西方浄土に向かって泣くばかりだと言う。

八月ばかり月のあかかりける夜、阿弥陀聖人の通りけるを呼ばせさせ給ひて、里なりける女房のもとへ言ひ遣はしける

阿弥陀仏(あみだぶ)ととなふる声に夢さめて西へながるる月をこそ見れ(金葉630)

【通釈】阿弥陀仏と唱える聖人の声に迷妄の夢も覚めて、西方浄土へと向かって移ってゆく月を見るのだ。

【語釈】◇阿弥陀聖人(あみだしやうにん) 阿弥陀の名号を唱え、世の人に念仏を勧めて歩く僧。空也を指す場合もあるが、ここでは空也の弟子か。◇里なりける女房 里に下っていた女房。

発心和歌集の歌、普門品、種々諸悪趣

逢ふことをいづくにてとか契るべきうき身のゆかむ方をしらねば(新古1970)

【通釈】観音にお逢いして救済されることを、何処でと約束出来るでしょうか。ままならぬ我が身がこれからどこへ行くか、分かりはしないのですから。

【語釈】◇普門品 法華経の観世音菩薩普門品。観音による衆生の救済を説く。◇種々諸悪趣 さまざまな悪道。地獄・餓鬼・畜生。

【補記】逢ふ・契るなど、恋歌仕立ての釈教歌である。


最終更新日:平成17年03月06日