藤原鎌足 ふじわらのかまたり 推古二二〜天智八(614〜669) 通称:大織冠

父は中臣御食子、母は大伴夫人(咋子のむすめ智仙娘)。藤氏家伝は長男とするが、字を仲郎とし、この名からすると次男だったか。子に定恵(多武峰縁起・略記などによれば実父は孝徳天皇)・不比等(一説に実父は天智天皇)・氷上娘五百重娘
はじめ中臣連鎌子と名乗った。周の太公望の撰とされる兵法書『六韜』を愛読し、権謀術数を学んだという。舒明朝の初め、神祇伯の職を固辞して受けなかった。舒明十二年(640)十月、隋から南淵請安が帰国し、中大兄皇子と共に外典の講義を受ける。軽皇子(孝徳天皇)とも親交があった。皇極四年(645)、中大兄らと図って蘇我入鹿を討殺(乙巳の変)。孝徳天皇即位後、大錦冠を授かり、内臣となって、中大兄と共に国政改革の中枢に参加。斉明元年(655)、大紫冠(三位)を授かる。同五年、藤原不比等生まれる(母は車持国子の女)。天智年間、帝の命により律令を刊定(近江令)。天智八年(669)十月十五日、自邸に派遣された大海人皇子より大織冠と大臣の位を授かる。また、藤原氏を賜姓される。翌十六日、薨ず(56歳。紀に引用する日本世記によれば50歳)。家伝には「淡海之第」で薨じ、山階精舎で葬儀をしたとある。
万葉集に二首の歌を残す。また藤原浜成撰「歌経標式」にも一首「藤原内大臣秋歌」として見える。

内大臣藤原卿の鏡王女を(つまど)ふ時、鏡王女の内大臣に贈る歌一首

玉櫛笥(たまくしげ)覆ふを安み明けていなば君が名はあれど我が名し惜しも

【通釈】お化粧箱を蓋で覆うように、二人の仲を隠すのはわけないと、夜が明けきってからお帰りになるなんて。そんなことをなさったら、あなたの評判が立つのはともかく、私の浮名の立つのが惜しいですわ。

【語釈】◇玉櫛笥 化粧道具の箱。「覆ふ」の枕詞

内大臣藤原卿、鏡女王報贈(こた)ふる歌一首

玉櫛笥みもろの山のさな(かづら)さ寝ずは遂に有りかつましじ(万2-94)

【通釈】三室山のさな葛ではないが、さ寝ずに――共寝せずに最後まで耐え続けるなど、できはしないでしょう。

【語釈】◇玉櫛笥 「みもろの山」の枕詞として用いる。蓋に対する「身」から、同音で始まる「みもろ」に続けたもの。◇みもろの山 三輪山か。「みもろ」(または「みむろ」)は、神の鎮座する場所。◇さな葛 サネカズラ。モクレン科(マツブサ科とも)の蔓性植物。類音で「さね」を起こす。

【補記】脚注には「或本歌曰、玉匣(タマクシゲ)三室戸山乃(ミムロトヤマノ)」とある。続古今集には作者名「大織冠」で「たまくしげみむろど山のさねかづらさねずはつひにありとみましや」と載る。

内大臣藤原卿、釆女(うねめ)安見児(やすみこ)を娶(え)たる時に作る歌一首

吾はもや安見児(やすみこ)得たり皆人の得かてにすとふ安見児得たり(万2-95)

【通釈】俺はまあ安見児を得た。どなたも手に入れ難いと言う、安見児を得た。

【補記】采女とは、郡司の姉妹・娘から美女を選んで都に上らせ、後宮に奉仕させた女官。采女との結婚は臣下には許されなかったので、天皇の特別の配慮があったに違いなく、歌に溢れる喜びもそれゆえのこと。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成15年03月21日