鏡女王 かがみのおおきみ 生年未詳〜天武十二(?-683)

万葉集の古写本には「鏡王女」とあるが、日本書紀に見える「鏡姫王」と同一人と思われ、また『歌経標式』には「鏡女王」とある。王女は女王の誤りであろう(『萬葉考』)。
舒明天皇の皇女または皇孫とする説と、鏡王の息女で額田王の姉であろうとする説がある。天智天皇代、天皇より歌を賜わり、これに答える(万葉集2-91,92)。また内大臣藤原卿(鎌足)に娉(つまど)われ、歌を贈答している(同2-93,94)。初め天智に召され、のち鎌足の室となったか。『興福寺縁起』によれば不比等の母。天武十二年(683)七月五日、薨ず(紀)。その前日、天武天皇の見舞を受けている。
万葉集に五首(重出を除けば四首)。また藤原浜成の歌学書『歌経標式』に「諷去春歌」が歌病の例として挙げられている。

鏡王女の(こた)(たてまつ)る御歌一首

秋山の()の下(がく)り行く水の我こそまさめ思ほすよりは(万2-92)

【通釈】秋の山の、木々の下をひそかに流れてゆく川の水のように、おもてには表さなくとも、お逢いしたいという思いは私の方がまさるでしょう。殿下が思っておられるよりは。

【語釈】◇我こそまさめ 私の方こそ(思いは)まさるだろう。「ます」は、前の句からの続きでは「(水が)増す」意、後の句への続きでは「(思いが)勝る」の意。「まさめ」の「め」は推量の助動詞「む」係助詞「こそ」との係り結びにより已然形をとったもの。

【補記】当時皇太子であった中大兄皇子(天智天皇)の「妹が家も継ぎて見ましを大和なる大島の嶺に家もあらましを」に答えた歌。なお『萬葉集古義』は第四・五句を「あこそまさらめ おもほさむよは」と訓む。

【補記】「あしひきの山下響み行く水の時ともなくも恋ひわたるかも」(万葉11-2704)など、類想の表現をもつ歌は多いが、鏡女王の歌が最も初期の例であることは確かであろう。古今集にも「吉野河いはきりとほし行く水の音にはたてじ恋ひは死ぬとも」などがある。

内大臣藤原卿、鏡王女を(つまど)ふ時に、鏡王女の内大臣に贈る歌

玉櫛笥(たまくしげ)覆ふを安み明けていなば君が名はあれど我が名し惜しも(万2-93)

【通釈】お化粧箱を蓋で覆うように、二人の仲を隠すのはわけないと、夜が明けきってからお帰りになるなんて。そんなことをなさったら、あなたの評判が立つのはともかく、私の浮名の立つのが惜しいですわ。

【語釈】◇玉櫛笥 化粧道具などを入れておく箱。「覆ふ」の枕詞◇覆ふをやすみ 覆う(隠し立てする)ことは容易いことなので。◇君が名 この「名」は浮名、良くない評判。

鏡王女の作る歌一首

風をだに恋ふるは(とも)し風をだに来むとし待たば何か嘆かむ(万4-489、8-1607)

【通釈】訪れたのが風にすぎなかったとしても、恋しがる相手がいるのは羨ましい。風だけでも、来ないかと待つ相手がいるなら、何を歎くことがありましょう。

【補記】万葉集の巻四・八いずれも額田王の名歌「君待つと吾が恋ひ居れば我が屋戸の簾動かし秋の風吹く」の次に載せ、これに和したかのように見えるが、題詞には「和する歌」でなく「作る歌」とあり、本来は額田王の歌とは無関係な作だったのではないか。亡夫藤原鎌足を追慕する歌かと見る説もある(安東次男『花づとめ』)。

春雑歌 鏡王女の歌一首

神奈備(かむなび)石瀬(いはせ)(もり)の呼子鳥いたくな鳴きそ我が恋まさる(万8-1419)

【通釈】神なびの石瀬の杜の呼子鳥よ、そんなにひどく鳴かないで。私の恋心がつのってしまう。

【語釈】◇神奈備 神が降臨する、または鎮座する場所。◇石瀬の杜 不詳。奈良県生駒郡斑鳩町の龍田地方の森、あるいは同町の車瀬の森(龍田神社の南)、あるいは同郡三郷町の大和川北岸の森かという。◇呼子鳥 鳴き声が子を呼んでいるように聞える鳥。何の鳥をさしたかは不明だが、カッコウとする説が有力。その鳴き声を「吾子(あこ)」または「子来(ここ)」などと聞きなしたのであろう。

【主な派生歌】
ほととぎすいたくな鳴きそ独りゐていの寝らえぬに聞けば苦しも(*大伴坂上郎女)
神なびの磐瀬の森の初時雨しのびし色は秋風ぞ吹く(*順徳院[続古今])


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成15年03月21日