源公忠 みなもとのきんただ 寛平一〜天暦二(889-948) 号:滋野井弁

光孝天皇の孫。大蔵卿国紀の子。子の信明も著名歌人。子孫には勅撰歌人が少なくない。
延喜十三年(913)三月、掃部助。同十八年三月、六位蔵人。同十九年六月、兼近江大掾。延長八年(930)、醍醐天皇の崩御とともに蔵人を辞すが、朱雀天皇即位後、再び蔵人に補せられる。承平七年(937)正月、息子信明を六位蔵人に就かせるため、蔵人を辞す。天慶四年(941)三月、近江守として任国へ下る。極官は従四位下右大弁。
延喜年間の内裏菊合、延喜八年三月の藤壺での藤宴などに参加し、また屏風歌も多く詠進するなど、宮廷歌人として活躍した。歌道ばかりでなく、香合・放鷹などにも長じた。官吏としても優れ、醍醐・朱雀両帝、関白藤原忠平からの信任は厚かったようである。また紀貫之とは度々歌を贈答しており、親交が窺われる。三十六歌仙の一人。家集に『公忠集』がある。『大和物語』『大鏡』『宇治拾遺物語』『江談抄』などに多くの逸話を残している。後撰集初出。勅撰入集二十一首。

北宮の裳着(もぎ)の屏風に

ゆきやらで山路くらしつほととぎす今ひと声のきかまほしさに(拾遺106)

【通釈】行きすぎることができずに、山道で日を暮らしてしまった。時鳥のもう一声を聞きたさに。

【補記】詞書の「北宮」は醍醐天皇第十四皇女康子内親王(藤原師輔室)。

【他出】公忠集、古今和歌六帖、拾遺抄、金玉集、前十五番歌合、三十人撰、深窓秘抄、和漢朗詠集、三十六人撰、和歌体十種(高情体)、俊頼髄脳、奥義抄、和歌体十種(高情体)、大鏡、俊成三十六人歌合、新時代不同歌合

【主な派生歌】
ゆきやらでくらせる山のほととぎす今ひと声は月になくなり(*宗尊親王)

延喜御時、南殿に散りつみて侍りける花を見て

殿守(とのもり)(とも)のみやつこ心あらばこの春ばかり朝ぎよめすな(拾遺1055)

【通釈】殿守の伴の御奴よ、風流の心を解するならば、暮れようとするこの春の日々ばかりは朝の庭の清掃をしないでくれ。

【語釈】◇南殿 紫宸殿。◇殿守 主殿寮。宮中の清掃などを管理する役所。◇伴のみやつこ 伴の御奴。下級官人。◇この春ばかり 残ったこの春の日々ばかりは。

【補記】散った桜の花びらを掃除するなと言っている。

【主な派生歌】
春くれば玉のみぎりを払ひけり柳の糸や伴のみやつこ(藤原俊成[玉葉])
青柳のなびく下枝にはきてけり吹く春風や伴のみやつこ(二条院讃岐)
忘れずよ朝ぎよめする殿守の袖にうつりし秋萩の花(*後嵯峨院[続後撰])
ももしきの御はしの桜ちらぬまに朝ぎよめせよ伴の宮つこ(三条実重[新千載])
神もさぞ飽かず見るらむ桜散るしめの宮守朝ぎよめすな(荒木田延季[新拾遺])
塵もゐぬ天つ雲井のかすめるを朝ぎよめする春の風かな(正徹)

延長八年三月、藤壷にて藤宴せさせ給ひけるに

色ふかくにほへる藤の花ゆゑに残りすくなき春をこそ思へ(玉葉278)

【通釈】深い色に美しく咲いている藤の花を見るにつけ、残り少ない春の日が思われることだ。

【補記】藤壺は内裏五舎の一つ、飛香舎。皇妃・女御などの在所。庭に藤があったので、藤壺と通称された。延長八年(930)当時は醍醐天皇の尚侍藤原満子が住んでいたかという。藤の花に藤原氏出身の満子を擬えて称えるか。但し公忠集では延喜八年とも九年ともある。

承平五年十二月、唐物の使に蔵人藤原親衡がまかり侍りけるに、餞(うまのはなむけ)し侍るとて

別るるがわびしき物はいつしかと逢ひ見むことを思ふなりけり(玉葉1114)

【通釈】別れが切ないのは、いつになったらまた逢えるだろうかと期待するからなのだ。

【補記】詞書の「唐物の使」とは、九州に渡来した唐船に対応するための使。

権中納言敦忠、母の賀し侍りけるに

よろづ世も猶こそあかね君がため思ふ心のかぎりなければ(拾遺283)

【通釈】万年の長寿でもなお満足できません。あなたのために思う心は限りがありませんので。

【通釈】藤原敦忠の母の算賀(四十歳以後、十年毎にした長寿の祝い)に参席しての祝い歌。

【参考歌】在原業平「古今集」
世の中にさらぬ別れのなくもがな千世もとなげく人の子のため


最終更新日:平成16年04月17日