因幡の国

国庁跡1
因幡国庁跡 鳥取県岩美郡国府町

天平宝字2年(西暦758年)6月16日、家持は右中弁から因幡守に遷任されました。7月5日には、友人の大原今城の宅で送別の宴が開かれ、家持は別れを惜しむ歌を残します。

秋風の末吹きなびく萩の花ともに挿頭さず相か別れむ(巻二十 4515)

(訳)野では秋風が葉末に吹き、萩をなびかせる――そんな季節になろうというのに、萩の花を仲よく髪に挿すこともしないまま、別れてゆくのでしょうか。
山陰山陽図

家持が去った後の都では、8月1日、孝謙天皇が皇太后への孝養を理由に譲位し、皇太子大炊王が天皇位に就かれました。第47代淳仁天皇です。文武天皇以来の草壁皇子直系の皇統はここに途切れることとなりました。しかし恒例の改元はなされず、立后等の記事も見られません。

同日、即位に伴う叙位が行われますが、天平勝宝元年(749)従五位上に昇って以来昇叙のなかった家持は、ここでも選に漏れています。

同月25日、藤原仲麻呂は大保(右大臣)に就任し、太政官の首座を占めました。同時に恵美押勝の名を与えられ、永世相伝の功封3000戸・功田100町を賜わり、私鋳銭・私出挙と恵美家印を用いることを許されます。異例ずくめの厚遇でした。

国庁跡2
因幡国庁跡

年が明けて天平宝字3年(759)正月1日、都では淳仁天皇が大極殿に出御し、初めて朝賀を受けられました。

同じ日、家持は因幡の国庁で国郡司らを率いて朝廷を遥拝し、朝賀の儀を受けました。その後、部下たちを饗応する宴を張ります。

三年春正月一日、因幡国の庁にして、国郡の司等に饗を賜ふ宴の歌一首
(あらた)しき年の始めの初春のけふ降る雪のいや重(し)け吉言(よごと)(巻二十 4516)

(訳)新たに巡り来た一年の始まりの初春の今日、この降りしきる雪のように、天皇陛下を言祝ぐめでたい詞がつぎつぎと重なりますように。

こうして、雄略帝の、大王の勢威を高らかに宣言する歌に始まった万葉集は、極めて儀式的な、個人的な感慨のまったく含まれない、しかし(それゆえにこそ)流れるように美しい調べをもつ、一臣下による天皇讃歌によって締めくくられたのです。

家持歌碑2 家持歌碑1
大伴家持歌碑 鳥取県岩美郡国府町

このあとも、家持は当然歌を詠み続けたと私は思います。理由は簡単で、家持が創作を放棄する動機が全く推量できないからです。

ほとんどは散逸してしまったのでしょうが、そのうちの幾つかは、作者名の伝わらない比較的新しい時代の歌を集めた万葉巻十などに、きっと含まれているだろうと思います。あるいは、『三十六人集』の「家持集」が編纂される際参照された資料などにも家持の真作があったかも知れません。また、万葉巻四巻末の藤原久須麻呂との贈答歌は、家持の因幡守時代(帰京中)の作ではないかと思える節があります。

巻十から一例を挙げると、次のような歌があります。

藤波の散らまく惜しみ霍公鳥今城(いまき)の岡を鳴きて越ゆなり(巻十 1944)

因幡国庁の近くに今も今木山と呼ばれる小山があります。因幡守だった家持が詠んだとしても全く違和感がない、というより、いかにも家持が詠みそうな歌ではないでしょうか。

今城山
今木山(今城の丘)

また、『古今和歌六帖』には、次のような興味深い歌が見えます。坂上郎女の作だというものです。

我が背子(せこ)が面影山のさかゐまに我のみ恋ひて見ぬはねたしも

「さかゐまに」という語はよくわからないのですが(おそらく「さかしまに」の間違いでしょう)、「私ばかりがあなたの面影に恋して、会えないなんて、ねたましくてなりません」といった意味の歌です。「面影山」は因幡国府跡の間近に聳える美しい山です。とすると、この歌は坂上郎女が因幡にいる家持に贈ったものだろうと考えられるのです(山本嘉将氏の説。山口博『万葉集形成の謎』他に紹介されています)。郎女の贈歌に対して、家持が歌を返さなかったとは思えません。

『古今和歌六帖』は、10世紀後半頃の成立と言われていますが、万葉集の古い歌もたくさん入っている歌集ですから、坂上郎女の真作である可能性は高いでしょう(但し同集には、よく似た歌が笠女郎の作として入っています)。

面影山
面影山

それにしても、因幡の国が万葉終焉の場所となったのは、単なる偶然なのでしょうか。もしかすると、因幡(広く言って山陰の地)が大国主命ゆかりの地であることと、何らかの関係があるのではないでしょうか? 山陰道は黄泉(よみ)の国への通路であると考えられ、歌聖人麻呂の死地もまた山陰と伝えられています。

突拍子もない考えだとは自覚しているのですが、万葉集の最後を飾る土地として、因幡はいかにもふさわしいような気が私にはするのです。

白兎海岸
白兎海岸 気多の崎と淤岐(おき)の嶋

家持は足掛け5年、正味3年半ほどを因幡に過ごし、天平宝字6年の春、信部(中務)大輔として帰京します。



関連サイト:因幡三山(国府町案内)


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