家持集について


群書類従本家持集

平安時代中期、一条天皇の頃、当代きっての歌人であり学者であった藤原公任(ふじわらのきんとう 966〜1041)は、今昔の代表的な歌人たちの作を選りすぐり、『三十六人撰』という名の歌集を編みました。大半は古今・後撰時代の歌人で占められていますが、万葉歌人からも人麿・赤人・家持の三人が選ばれました。彼らは「三十六歌仙」と称されて貴ばれ、やがて各個の家集を集めた『三十六人集』(『歌仙家集』ともいう)が成立したと考えられています。勅撰集で言うと、拾遺集前後の時代にあたります。家持の死後、すでに二百年が過ぎていました。
「家持集」は、この『三十六人集』の一巻として今に伝わっています。

写本は、

(1)西本願寺本系
(2)宮内庁書陵部本系

の二系統に大別されます。(1)は早春・夏・秋・冬・恋・雑の六部立て、(2)は恋の部がなく五部立てと、編纂法に相違があり、歌の出入りも少なくありません。収録歌の総数は西本願寺本312首、書陵部本318首と(2)の方がわずかに多く、『新編国歌大観』『私家集大成』ともに、(1)は(2)をもとに編集し直したものであろうと推定しています。

群書類従本家持集

しかし、現存する最古の写本は(1)の祖本である西本願寺本であり、平安末頃の書写とされています。編集にやや杜撰な面の見られた(2)系統の祖本に、かなり早い段階で改修の手が加えられたことが推測されます。どちらの系統を善本とするかは、難しいところでしょう。因みに群書類従本は(1)系統、正保版流布本は(2)系統に連なるものです。

収載歌の特徴としては、とりあえず以下の四点が挙げられると思われます。

  1. 万葉巻十の作者不明歌に異体歌を見出せる作が多い(全体の四分の一ほどを占める)。
  2. 本人の作と確かに認められる歌(万葉集で家持作としている歌)は、全体の一割程度にすぎない。
  3. 別人の作が少なからず混入している。
  4. 歌風は古今または後撰風のものが多く見受けられる(万葉集との重複歌でも、修辞や地名などが古今・後撰風にアレンジされている例が多い)。

こうした点から、「家持集」は真正の家持歌集とは認められない、というのが定説になっています。

『私家集大成』の解説は、次のように結論づけています。

家持集の原型は万葉集抄であり、それが拾遺集時代、家持集として享受され、そこに題名のない私撰集が雑部の後に付加された。

では、家持とは全く無関係な歌集が「家持集」を僭称しているに過ぎないのかと言えば、決してそんなことはありません。

  1. 別人の作が多いと言っても、その大半は、山上憶良・坂上郎女・大伴旅人・三形王など、家持と何らかの縁で結ばれた作者で占められていること。
  2. 巻十以外では、巻八・十九・三・五・二十などから採録されたらしい歌がめだつが、これらの巻は家持が収集・編纂に深く関与していると推測されること。
  3. 作者不明歌にも、家持を彷彿させる繊細優美な歌風が少なからず認められること。

これらの点から、少なくとも「家持集」は大伴家持その人の影を色濃く落としている集である、とは言えるでしょう。

また、万葉集の歌が平安時代の人々の間でどのように伝わり、享受されていたかを知る上でも、「家持集」は我々に多くのことを教えてくれます。とりわけ、彼らが家持をどのような歌人と見なしていたかを伝えて、興味深いものがあります。


Last Update:平成9-11-05

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