阿倍内親王
あべのひめみこ
- 生没年 718(養老2)〜770(神護景雲4)
- 系譜など 聖武天皇の第2皇女。母は藤原光明子。同母弟に夭折した基親王、異母姉に井上内親王、異母妹に不破内親王、異母弟に安積親王がいる。天平宝字2年、大炊王に譲位した時宝字称徳孝謙皇帝の尊号を受ける。法諱は法基尼。高野姫・高野天皇とも称された。
- 略伝 738(天平10)年、21歳の時、異例の女性皇太子となる。
743(天平15)年、五月節会の日、恭仁京内裏で百官を前に五節の舞を舞う。
749(天平勝宝1)年、父帝の譲位を受けて即位する(孝謙天皇)が、行政の実権は皇太后と藤原仲麻呂が掌握した。同年10.15、大郡宮(大和郡山市、または薬師寺近辺に孝謙のために建てられた新宮。一説に難波の大郡宮)に還御。
翌天平勝宝2年正月、再び大郡宮に還御。同年2.9、大郡宮より薬師寺宮に移御。以後しばらくは父聖武上皇と同居したらしい。
天平勝宝4年閏3月、酒肴を入唐使藤原清河等に賜う歌(19/4264〜4265)。同年4.9、東大寺大仏開眼供養会終了後の夕、仲麻呂の田村第に還御し、御在所とする。同年晩秋にも光明皇太后と共に仲麻呂邸に幸し、この時の歌が万葉に残る(19/4268)。
天平勝宝6年1.7、東院で宴を主催、多治比家主・大伴麻呂を御前に召して従四位下を授ける。同日、万葉集には「東常宮の南大殿」で肆宴との記録があり、安宿王の歌が残る(20/4301)。「東常宮」は続紀の「東院」と同一であろう。「常宮」は日常起居する宮のことで、天皇は既に御在所をここに移していたことが窺える(但し皇太后の「常宮」だった可能性も否定できない)。同年4月初め、盧舎那殿の前に戒壇を立て、上皇・皇太后と共に登壇して鑑真より菩薩戒を受ける(東大寺要録)。
天平勝宝7歳8.13、南安殿に肆宴、安宿王・家持が歌を詠むが、家持の歌は奏上されず(20/4452・4453)。
天平勝宝8歳2.24、上皇・皇太后と共に難波行幸。河内離宮(智識寺の南の行宮)に泊まる。翌日、知識寺ほか七寺に行幸し礼仏。4月平城宮還御。5.2、父聖武上皇が崩じ、道祖王を皇太子にたてる旨遺詔を残す。
天平勝宝9歳3.20、天皇の寝殿の承塵の裏に「天下大平」の字が現れ、同月22日、王臣に瑞字を見せる。同年3.29、諒闇中の非行を理由に皇太子道祖王を廃す。4.4、群臣に立太子の件を諮問する。右大臣豊成・中務卿永手らは塩焼王を、摂津大夫文屋智努・左大弁大伴古麻呂らは池田王(舎人親王の子)を推薦。仲麻呂は天皇の裁定を仰ぎ、天皇は大炊王を選ぶ。これにより大炊王が立太子するが、淳仁即位後の仲麻呂の上表によれば「雇命を承けて(聖武の遺詔により)皇儲を議り定」めたのは光明皇太后とある。同年5.4、田村宮に移る(平城宮改修のため)。
翌758(天平宝字2)年、母への孝養を理由に譲位し、大炊王が即位(淳仁天皇)。
760(天平宝字4)年、母皇太后が崩御し、翌年保良宮で道鏡の看病を受けたのを境に、大炊王・仲麻呂らとの対立を深め、762(天平宝字6)年、出家を宣言すると同時に、政務を二分し、祭祀・小事のみは天皇に委ね、国家の大事・賞罰は自らが行うと意思表示する。
764(天平宝字8)年9月、仲麻呂の謀反計画が明らかになったとして、少納言山村王に中宮院の駅鈴・内印を回収するよう命ずるが、仲麻呂はこれに対し息子の久須麻呂らを派遣して待ち伏せさせ、奪取しようと計画(仲麻呂の乱)。孝謙は授刀少尉坂上苅田麻呂・同将曹牡鹿嶋足(蝦夷の族長)らを派遣し、久須麻呂らを射殺させた。追い詰められた仲麻呂は越前への逃亡を図るが失敗し、琵琶湖上に斬殺される。孝謙はこの直後、藤原豊成を右大臣に再任、道鏡を大臣禅師に任命し、自らは再祚(称徳天皇)。淳仁天皇を淡路に幽閉し、翌年死に追いやった。
翌年1月、天平神護に改元。同年8月、有力な皇太子候補であったと見られる和気王(舎人親王の孫)を謀反の罪で捕え、配流の途次、絞殺せしめる。同年10月、紀伊行幸。帰途、弓削仮宮において道鏡を太政大臣禅師に任命し、百官に道鏡を拝賀させる。
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西大寺金堂と東塔跡 |
天平神護2年1月、藤原永手を右大臣に任命。同年10月、道鏡を法王に任ずる。またこの頃、西大寺を創建する(天平宝字8年・天平神護元年とする説もある)。
769(神護景雲3)年、大宰府の主神習宜阿曾麻呂(すげのあそまろ)が、宇佐八幡神の神託として道鏡を皇位につけるべきことを奏上。天皇は和気清麻呂を召し、公式に宇佐八幡の神託を伺うことを命じた。清麻呂は神宮に詣で、神異の示されることを祈願すると、長さ3丈(約9メートル)の満月のような色をした神が現れ「我が国家、君臣は分定せり。…天つ日嗣には必ず皇緒を立てよ」との託宣をなしたという。清麻呂は帰京してこの神託を奏上、天皇は激怒するが、誅するに忍びず、名を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改めさせたうえ大隅に流した(宇佐神宮神託事件)。
翌神護景雲4年、西大寺東塔の心礎用の石を破却した祟りから病を得、同年8月西宮の寝殿に崩御し(53歳)、大和国添下郡佐貴郷の高野山陵に葬られた。『続日本紀』は佐紀の旧鈴鹿王邸を陵墓にあてたという。奈良市山陵町の佐紀高塚山古墳が比定されているが、疑問視する説も多い。葬儀の後、道鏡は帝位を狙う陰謀の罪で造下野国薬師寺別当に左遷された。道鏡との交渉とその死については、後世さまざまな伝説に彩られている。
万葉には上記の2首、19/4264・4265。また19/4268は孝謙天皇・光明皇太后いずれの御製か不明。
関連サイト:百万塔陀羅尼経(京都国立博物館・龍谷大学図書館所蔵品特別展)
孝謙天皇の歌(やまとうた)
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