平行盛 たいらのゆきもり 生年未詳〜文治元(?-1185)

清盛の孫。越前守基盛の子。正五位下左馬頭に至る。治承三年(1179)には播磨守の地位にあった。各地で源氏が蜂起すると、追討軍の将として活躍するが、寿永二年(1183)四月、北陸討伐に従い、木曽義仲によって惨敗を喫した。その後平氏一門と共に都落ちし、同三年、備前児島で佐々木盛綱に敗れ、さらに屋島へ逃れる。文治元年(1185)三月、壇ノ浦で討死。
寿永二年(1183)、都落ちの際、詠草を藤原定家に託した。千載集(一本)初出。新勅撰集に一首、玉葉集に二首。

寿永二年、おほかたの世しづかならず侍りしころ、よみおきて侍りける歌を、定家がもとにつかはすとて、つつみ紙にかきつけて侍りし

ながれての名だにもとまれゆく水のあはれはかなき身はきえぬとも(新勅撰1194)

【通釈】死後、歌人としての名だけでも残ってほしい。流れ行く水の泡のように、あわれにも果敢ない我が身は消えてしまっても。

【補記】寿永二年(1183)、都落ちの際、和歌の詠草を藤原定家のもとへ届けさせた。その包み紙に書き付けてあったという歌。『平家物語』延慶本に見え、後世「武家百人一首」「英雄百人一首」などにも採られて名高い。

元暦元年、世の中さはがしく侍りける比、平行盛備前の道をかたむとて壇の浦と申す所に侍りけるに、八月十五夜月くまなきに、過ぎにし年は経正、忠度朝臣などもろともに侍りけるを、いかばかり哀れなるらんと思ひやられて、そのよし申しつかはすとて   全性法師

ひとりのみ波間にやどる月をみてむかしの友や面影にたつ

【通釈】たった一人で波間に映る月を見て、昔の友が面影に浮かぶのではありませんか。

【補記】元暦元年(1184)、壇の浦(山口県豊浦郡)にいた行盛のもとへ、全性法師(伝不詳)から送って来た歌。経正忠度はいずれも平氏一門にあって名高い歌人であるが、同じ年の二月、一ノ谷の合戦で共に戦死している。

返し

もろともにみし世の人は波の上に面影うかぶ月ぞかなしき(玉葉2318)

【通釈】同じ世を過ごし、一緒に月を眺めた人たちはもう亡くなってしまって、波の上の月に面影が思い浮かぶばかりです――なんと悲しいことでしょう。

【補記】「波」に「無み」を掛け、「みし世の人は無み」の意を響かせている。


最終更新日:平成15年01月21日