有賀長伯 あるがちょうはく(ありが-) 寛文元〜元文二(1661-1737) 号:以敬斎・無曲軒

寛文元年(1661)、京都の医家に生れる。家業を嫌って家を出、住吉の平間長雅(松永貞徳門の望月長孝の門弟)に入門し和歌・和学を学ぶ。二条派(藤原為家の子為氏を祖とし、近世まで正統と見なされた流派)の歌風を信奉し、その立場から多くの和歌啓蒙書を著して世に知られた。つねづね全国の名所旧蹟を訪ね歩き、『歌枕秋の寝覚』を著わす。晩年は大坂に住んだという。多数の門人を抱え、伴蒿蹊もその一人。元文二年(1737)六月二日、没。七十七歳。墓地は大阪高津の正法寺。子の長川(のち長因に改名)が歌道家を継ぎ、その後、長収・長基・長隣と明治時代に至るまで有賀家は旧派和歌の伝統を伝えた。
家集『長伯集』『無曲軒家集』など。著書には有賀家の七部書と呼ばれる『和歌世々の栞』『初学和歌式』『浜の真砂』『和歌八重垣』『歌林雑木集』『和歌分類』『和歌麓の塵』ほかがある。
 
以下には木村三太郎著『浪華の歌人』所収の長伯歌集より三首を抄出した。

暮春海

花の名もあかぬ海辺のさくら貝はるのかたみにいざ拾ひ来む

【通釈】花の名も興が尽きない、海辺の桜貝。過ぎ行く春を思い出すよすがとして、さあ拾いに行って来よう。

【補記】「桜貝」という名から発想した歌。花は朽ちてしまうが、貝なら「かたみ」にもなろう。洒落のような歌ではあるが、桜への愛執を意外な着眼から詠んで、ひとふしある歌とはなった。

【参考歌】藤原定家「拾遺愚草」
伊勢の海の玉よる波のさくら貝かひある浦の春の色かな

海雲

入日さす豊旗雲の影そめて紅葉をひたす秋の浦波

【通釈】夕日射す豊旗雲の影をひときわ紅く染めるように、散り紅葉をひたひたと濡らす、秋の浦波よ。

【語釈】◇豊旗雲(とよはたぐも) 下記万葉歌に由来する語。「豊」は美称、「旗雲」は旗(吹き流し)のように水平方向にたなびく雲であろう。

【補記】夕日に染まる豊旗雲を、水面の紅葉がさらに紅く染めると見なした。古歌から発想し、趣向を重ねてゆく二条家の典型的な詠風を示している。「もみぢをひたす」のような秀句表現を第四句に置くのも二条派の特色である。

【参考歌】天智天皇「万葉集」
わたつみの豊旗雲に入日さし今夜の月夜さやけかりこそ

残雁

おくれくる空はしぐれの雲間より夕日をおひて落つる雁がね

【通釈】一羽だけおくれてやって来た空は時雨が降り、その雲間から夕日を背に浴び降りてくる雁よ。

【補記】仲間から取り残された雁を詠む「残雁」は中世から好まれた歌題。前歌と同じく第四句に修辞を凝らし「見せ場」を作っている。

【参考歌】藤原師氏「新勅撰集」
ひさかたのみどりの空の雲間より声もほのかにかへる雁がね


公開日:平成20年02月02日
最終更新日:平成21年08月12日