連歌師松永永種の次男。父方の祖父は摂津高槻城主入江政重、母は下冷泉家の出で藤原惺窩の親族という。
少年時より九条稙通に近侍して和歌・古典・有職などを学び、十五歳頃から里村紹巴のもとで連歌の修業に励んだ。まもなく太閤秀吉の右筆を勤め、細川幽斎を知って門下に入った。家康に実権が移って後は京都に住んで私塾を開き、新興の庶民層に対して古典の啓蒙に努めた。やがて俳諧が盛んになるとその指導者としても活躍し、貞門俳諧の祖となる。歌人としては木下長嘯子と並称される地下歌壇の大家で、北村季吟・加藤磐斎・宮川松堅・望月長好ら多くの門人を育てた。承応二年十一月十五日死去。八十三歳。家集『逍遊集』に三千余首を収める。他の著書に俳論書『新増犬筑波集』『俳諧御傘』、注釈書『九六古新註』『堀河百首肝要抄』などがある。
初春待花
声の綾けさ織りそめし鶯にとはばやいつと花の錦を
【通釈】美しい声の綾を今朝織り始めた鶯に、問いたいものだ。花の錦はいつ見られるのかと。
【補記】「声の綾」は『後撰集』の「秋くれば野もせに虫の織りみだる声の綾をばたれか着るらむ」(秋上・二六二、元義)に由来し、虫の声を複雑な綾織りに喩えた語であるが、貞徳はこれを鶯の声の美しい節回しに転用した。「綾」を花の「錦」と関係づけて題の「待花」の心につなげ、華やかな技巧を見せている。
題「初春待花」は建仁元年(1201)の『仙洞句題五十首』に初見。
山花
花車このもとごとにとどろきて春は山路ぞ都なりける
【通釈】花見の車がどの木の下にも轟いて、春は山路こそが都のように華やかで賑やかなのだった。
【語釈】◇花車 花見の車。牛車か。和歌に先例未見の語。
【補記】貴族たちが牛車で繰り出す花の名山のありさまであろうか。もとより誇張的な空想詠であろうが、古歌には詠まれなかった景趣である。下の句は「手折りもて行きかふ人の気色まで花のにほひは都なりけり」(拾遺愚草・藤原定家)あるいは「難波江は霞たなびくことこそあれ春のさくらは都なりけり」(能因法師集)などを思わせる語勢である。
「山ノ花」は平安末期頃から見られる歌題。
三月尽
恋路にはひかふる袖もあるものをうき暁の春のきぬぎぬ
【通釈】恋の別れ道では引き留める袖もあるものなのに、春との暁の別れは引き留めようもなく、つらいことである。
【語釈】◇ひかふる 「引き合ふる」の約で、袖などをひっぱり相手を引き留める動作を言う語。定家の歌に「面影のひかふる方にかへり見る都の山は月繊くして」と遣った例がある。
【補記】腰の句に「あるものを」と置き、先に程度の軽い例を挙げ、後に程度の甚だしいものを挙げて、後者を強調する。そうした手法は先例が多く、たとえば百人一首にも採られた「うらみわびほさぬ袖だにあるものを恋にくちなん名こそをしけれ」(後拾遺集・相模)などが代表的なものであろう。貞徳はこの文体を用いて後朝の別れと春との別れを対比したのである。下二句を曲折豊かに言いなして体言止めとし、別れの憂さにも艶な余韻を纏わせている。
「三月尽」は古くからある歌題で、和漢朗詠集に立題され、堀河百首題でもある。春との別れを惜しむ心が本意となる。
郭公一声
みる月のひかりのみかは時鳥きくも千里のひとこゑの空
【通釈】千里に広がるのは、眺める月の光だけであろうか。聞く時鳥の一声も、夜空を千里にわたって響くかのようだ。
【補記】「千里」は十五夜の月を詠んだ名句「秦甸の一千余里 凛凛として氷鋪き」(和漢朗詠集・二四〇)、あるいは「夜庾公が楼に登れば月千里に明らかなり」(同・三七四)といった漢詩の名句に連想はゆく。月光の限りない広がりと比えることで、時鳥の一声が夜空に遥かに響きわたる。「千里」という語が引き寄せる典拠の力を借りて、誇張的な趣向を詠みおおせた形であろう。
上二句の文体は定家の「有明の光のみかは秋の夜の月はこの世に猶のこりけり」(拾遺愚草)に学んだようである。
「郭公一声」は鎌倉中期から見られる題。同題で詠んだ「一声の行へしらねば立出でてながむる四方の山ほととぎす」も捨て難い。
水上夏月
むすぶ手にくだくる月も頓てまた円かになれる水の面かな
【通釈】掬い取った掌の上で砕ける月の光も、水面ですぐにまた円くなっていることよ」の意。
【補記】前歌に見られるような凝縮された難解な表現は貞徳の歌では異質な部類に入り、おおよそこのように平明な歌の方が多いのである。目の付け方に俳諧的なところが感じられる一首として取り上げた。
「水上ノ夏ノ月」は平安末期から見られる題。夏の季感は「むすぶ手」のみに掛かっている。
早秋朝山
さらしなや秋しもきその朝ぼらけ心にいづる山のはの月
【通釈】更科の里にまさに秋が来た。木曽路の朝ぼらけに姨捨山を眺めれば、心のうちには山の端の月が現れ出る。
【語釈】◇秋しもきその 「秋しも来」「木曽の」と掛けて言う。
【補記】早朝、木曽路を通って更科の里に至り着いた旅人の身になっての詠。月で名高い姨捨山の稜線を眺めれば、はや心にはありありと明月を見るようだ、と言う。サ行音を多く用いた上二句の調べが爽やかで、信州の「早秋」の気も偲ばれよう。
八月十五夜百五十首
衣手も皆しろ妙になりにけり今夜やたれも月の宮人
【語釈】◇月の宮人 海彼の怪異譚などに語られた月宮(月の都)の宮人。『竹取物語』のクライマックス・シーンに「大空より人、雲に乗りて下り来て、土より五尺ばかり上がりたる程に、立ち列ねたり。…立てる人どもは、装束の清らなること、物にも似ず」などとあるように、月の宮人は月光の色さながらの浄衣を着るとされた。
【補記】通釈は不要であろう。中秋名月を主題に詠んだ百五十首連作より。老年の作であることは、「思ふとも恋ふとも逢はん今夜かは我が世の後の秋の月影」などによって知られる。
みどり子をみて
みどり子のめざめて後も驚くは夢ともしらぬ夢やみつらん
【通釈】赤ん坊が目覚めた後もびっくりしているのは、夢だとも知らない夢を見たのだろうか。
【語釈】◇みどり子 生まれて間もない赤ん坊、また三、四歳頃までの幼児をも言ったらしい。この場合、そばで親しく観察していた詠みぶりなので、おそらくは自分の子であろう。「貞徳の長男昌三は文禄元年(一五九二)、貞徳二十二歳のときに誕生しており、貞徳は若い父親であった。我が子を観察したものであろうか。ともあれ、江戸時代の男性が幼児をよんだこのような歌は珍しいと思われる」(高梨素子「松永貞徳と烏丸光弘」)。◇夢ともしらぬ夢 夢だとも認識できない夢。
【補記】家庭生活の何気ない一場面、赤子などのふとした表情に心を動かされて歌を詠むというのは、当時(近世初頭)にあっては相当に新しい創作の姿勢であった。江戸も末期の、例えば大隈言道の歌風を早くも予告するかのようである。もっとも、もっぱら題詠に力を入れた貞徳にあっては稀な偶成の作であって、こうした方面に重きは置いていなかったのである。
祝言
君と臣みがくこと葉の玉くしげ身をあはせたる代こそ治まれ
【通釈】君主と臣下とが、互いに和歌のことばを玉のように磨き合う――こうして君臣が身を合わせた御代こそ平和に治まるのである。
【語釈】◇身をあはせたる 『古今集』仮名序の「かの御時に、おほきみつのくらゐかきのもとの人丸なむ、うたのひじりなりける。これは君もひとも身をあはせたりといふなるべし」による。宮廷歌人たる人麻呂が、応詔和歌によって天皇の心を体現したとして、君臣一体にかなう古例として賞揚した詞。◇みがく 錬磨する。「玉」の縁語。◇こと葉の玉くしげ 「こと葉の玉」「玉くしげ」と掛けて言う。「玉くしげ」は「身」の枕詞。
【補記】『逍遊集』巻末歌。古今集の詞を承け、互いに和歌の詞を玉のように磨くことが君臣の道をととのえ、国家の用に立つことだとして、和歌による治国平天下を言祝いだ。「歌ちからなくよわき花風ばかりにては、国家おだやかならず。…世の乱るるも治まるも、皆歌の風にて知る事あり」(戴恩記)などとした貞徳の政教主義的な和歌観が端的に表われた一首であろう。
公開日:平成26年09月09日
最終更新日:平成26年09月09日