後宇多院の皇女。母は藤原忠継女、談天門院忠子。後醍醐天皇の同母姉。後二条天皇の異母妹。
乾元元年(1302)、内親王宣下。徳治元年(1306)、後二条天皇の斎宮に卜定され、翌年、初斎院に入り、さらに野宮に入る。ところが延慶元年(1308)、後二条天皇が崩御し、群行を遂げないまま退下する結果となった。元応元年(1319)、弟後醍醐天皇の即位に伴い、皇后宮に冊立される。同年、達智門院の院号を賜わるが、母忠子の死去により出家した。正平三年(1348)十一月三日、南北朝兵乱のさなか、六十三歳で薨去。
家集等は伝わらないが、新千載集の詞書によれば、続千載集撰進の際、後醍醐天皇に詠草をまとめて書き送ったという。新後撰集初出。勅撰入集二十四首。新葉集にも二首。
「弉子内親王――帝王後醍醐の同胞」 山中智恵子『続斎宮志』
「弉子内親王」 山中智恵子『斎宮箚記』
恋歌の中に
とにかくに心ひとつを尽くしきていつを思ひの果てとかはせむ(玉葉1347)
【通釈】何やかやと、この恋に心のすべてを尽くして来て、一体いつを思いの終りとしようか。
【補記】恋に心の限りを尽くして憔悴したゆえ、その「果て」を想い見るが、いつ終るとも知れないのが恋心である。
【参考歌】西行「山家集」
わりなしやいつを思ひのはてにして月日を送る我が身なるらん
題しらず
よそにのみ猶いつまでか思ひ川わたらぬ中のちぎりたのまん(新後撰913)
【通釈】遠くからばかり、私はあの人を思い――思い川を渡ることのない仲の契りを、さらにいつまで期待し続けるのだろう。
【語釈】◇思ひ川 絶えず涙を流させる恋の思いを川になぞらえて言う。伊勢の『後撰集』所載「思ひ川たえずながるる水のあわのうたかた人にあはできえめや」が最も初期の用例。その後、筑前国の染川と同一視されて歌枕となった。
【補記】思いを遂げることのない恋人との関係を「思ひ川わたらぬ中」と言いなして哀れ深い。
延慶元年八月野宮よりいでたまふとて
鈴鹿川八十瀬の波はわけもせでわたらぬ袖のぬるる比かな(玉葉2073)
【通釈】鈴鹿川の幾つもの瀬の波を分けてゆくこともしないまま、川を渡りもせぬ袖が涙に濡れるこの頃であるよ。
【語釈】◇野宮(ののみや) 斎宮に卜定された皇女が伊勢に向かう前、潔斎のために籠った宮。通例、嵯峨野に設けられた。◇鈴鹿川(すずかがは) 鈴鹿山脈に発し伊勢湾に注ぐ。伊勢下向の際、この川を渡る。◇八十瀬(やそせ) 数多くの瀬。鈴鹿川には幾つもの小川が合流するので、何度も川の瀬を渡るのである。
【補記】延慶元年(1308)八月、奨子内親王は野宮にあって翌月の伊勢群行を目前に控えていたが、八月二十五日、後二条天皇が崩御し、野宮を退下することとなった。
【本歌】源氏物語「賢木」
ふりすてて今日は行くとも鈴鹿川八十瀬の波に袖はぬれじや(源氏)
鈴鹿川八十瀬の波にぬれぬれず伊勢まで誰か思ひおこせむ(六条御息所)
公開日:平成18年08月15日
最終更新日:平成18年08月15日