阿野廉子 あのやすこ(-れんし) 応長元〜正平十四(1311-1359) 号:新待賢門院

藤原氏公季流阿野家、左近衛中将公廉の子。太政大臣洞院公賢の養女。恒良親王・成良親王・義良親王(後村上天皇)祥子内親王ほかの母。
元応元年(1319)、後醍醐天皇の中宮西園寺禧子(のちの礼成門院)の入内に際し、上臈として参内する。元亨元年(1321)、従三位に叙せられ、「三位局」と称される。才色兼備の誉れ高く、やがて禧子をも押しのけて天皇の寵愛を一身に集めるようになり、人々から皇后のように見なされたという。嘉暦三年(1328)、天皇との間に義良親王を生む(のちの後村上天皇)。元弘元年(1331)の元弘の変後、天皇と共に隠岐に赴く。鎌倉幕府滅亡後の建武二年(1335)、准三后の宣下を受ける。権勢を誇り、御前会議や訴訟の裁決にまで影響力を及ぼしたという。後醍醐天皇崩後は、後村上天皇の生母として南朝の皇太后となり、正平六年(1351)十二月、新待賢門院の院号を受けた。同十二年、出家。同十四年四月二十九日、崩御。四十九歳。
新葉集に二十首。勅撰集への入集はない。

後醍醐天皇かくれさせ給ひて又の年の春、花を見てよませ給ひける

時しらぬ歎きのもとにいかにしてかはらぬ色に花のさくらむ(新葉1332)

【通釈】季節のうつろいも知らず嘆き暮らす私たちの前で、どうして桜の花は例年と変わらぬ美しい色に咲くのだろうか。

【本歌】上野岑雄「古今集」
深草の野べの桜し心あらば今年ばかりは墨染にさけ

【補記】後醍醐天皇崩御の翌年、興国元年(1340)春の作。「今年ばかりは墨染に咲け」との心を籠めた、詞を借りない本歌取りである。

つぎの年の夏よませ給ひける御歌の中に

今年こそいとどまたるれ時鳥しでの山路の事やかたると(新葉1343)

【通釈】今年こそは時鳥の鳴き声がひとしお心待ちにされることだ。死出の山路を越え給うた亡き帝は冥途でいかにお過ごしか、話して聞かせてくれるかと。

【補記】これも興国元年(1340)、先帝追悼の歌。「しでの山」は冥土にあると考えられた山。ほととぎすは「しでの田長(たをさ)」とも呼ばれ、冥界と現世を往き来する鳥と考えられたので、先帝に代って消息を伝えてくれるかと願ったのである。

【参考歌】和泉式部「千載集」
かをる香によそふるよりはほととぎす聞かばやおなじ声やしたると

つはもののみだれによりて芳野の行宮をもあらためられて、次の年の春、塔尾の御陵にまうで給はんとてかの山にのぼらせ給ひけるに、蔵王堂をはじめてさならぬ坊舎どもみな煙と成りにけれど、御陵の花ばかりは昔にかはらずさきて、よろづ哀れにおぼえ給ひければ、一ふさ御ふみの中に入れて給はせ侍るとて

みよし野は見し世にもあらず荒れにけりあだなる花は猶のこれども(新葉1333)

【通釈】吉野は以前見た時の有様にも似ず荒廃してしまった。いたずらに美しい花は昔のままに残っているけれども。

【補記】正平三年(1348)、吉野を攻められた南朝は、さらに山奥の賀名生に遷居した。翌年の春、後醍醐天皇の塔尾御陵にお参りしようと吉野に戻ると、蔵王堂を始め僧坊なども皆兵火に焼かれて灰燼に帰していた。しかし御陵のほとりの桜ばかりは昔と変わらずに咲いている。それを見て感慨を覚え、宗良親王に贈った歌。時に作者三十九歳。「あだなる」には「たおやかに美しい」といった意と「実のない」「移り気な」といった意があり、この場合両義を含ませた用い方か。おのずから自身を花に譬えることにもなろう。親王の返歌は「いまみても思ほゆるかなおくれにし君が御かげや花にそふらん」。

【本歌】紀貫之「古今集」
人はいさ心もしらずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける

おなじ天皇の御陵にまうで給うてよませ給うける

さびしさもつひのすみかと思ふには心ぞとまる峰の松風(新葉1375)

【通釈】その音の寂しさも、ここが終の住み処と思うにつけ、心にとまることよ、峰の松風――。

【補記】「おなじ天皇」は後醍醐天皇。これは三首まとめて載せるうちの最後の一首で、ほかの二首は「九重の玉のうてなも夢なれや苔の下にし君を思へば」「ひきつれし百(もも)のつかさの独だに今はつかへぬ道ぞ悲しき」。ことに後者は名高い作。


最終更新日:平成15年05月18日