徽安門院一条 きあんもんいんのいちじょう 生没年未詳

父は正親町公蔭、母は北条久時女。忠季の姉妹。光厳院妃徽安門院(花園院皇女寿子内親王)に女房として出仕。後に光厳院の妾となって義仁親王を生む。
後期京極派の有力歌人。康永二年(1343)冬以前の「院六首歌合」に出詠。貞和百首・延文百首の作者。風雅集初出(13首)。勅撰入集二十二首。貞和百首が『徽安門院一条集』の名で伝わる。

  1首  3首  2首  5首  1首 計12首

春歌の中に

昨日けふ世はのどかにてふる雨に柳が枝ぞしだりまされる(風雅110)

【通釈】昨日今日と穏やかな雨降りで、柳の枝はたっぷりと水滴をつけ、以前より重たげに垂れ下がっている。

【補記】激しい風雨なら、水滴は枝に留まらず吹き散らされてしまうだろう。穏やかな春雨だからこそ、柳の「枝垂り」が増す。『徽安門院一条集』に見える「春雨のけふの日ぐらし見るうちに柳しだりて花ぞちかづく」も捨てがたい。

【参考歌】永福門院「玉葉集」
木々の心花ちかからし昨日けふ世はうすぐもり春雨のふる

 

あさがほの花のまがきは明けにけり月に見えつる露もさながら(徽安門院一条集)

【通釈】空が白みはじめ、朝顔の花が咲く垣根は明るくなった。昨夜月光を浴びて見えた露の白玉を、そのまま残して。

【補記】朝顔の開花時刻は季節が進むにつれて早まり、やがて真夜中から咲き始めるようになる。それで「月に見えつる露もさながら」と言っている。

百首歌たてまつりしに

窓しろき寝覚の月のいりがたに声もさやかにわたる雁がね(風雅548)

【通釈】深夜に目覚めて見た窓は白々と月に照らされ、その沈みかけの月明かりの中、声もくっきり冴えて渡って行く雁よ。

【補記】「声も」の「も」には、月明かりを背景とした雁の影も「さやか」であることが暗示される。それに気づいた時、初句「窓しろき」が鮮やかな効果を発揮する。風雅集巻六、秋歌中。詞書の「百首歌」は貞和百首(以下、風雅集の詞書に「百首歌」とあるのは全て貞和百首である)。

 

さびしさのながめは明日もかくやあらむ秋と冬との名はかはるとも(徽安門院一条集)

【通釈】寂しさばかり感じる眺めは明日も同じだろう。秋から冬へと季節の名は変わるとも。

【補記】立冬前日の夕暮の眺め。人の心は必ずしも暦に従って変化するわけではないという、京極派が固執した季節観。

【参考歌】藤原家隆「壬二集」
さびしさのながめはわきつ夕日さす岡べの松の秋のはつ風
  京極為兼「看聞日記紙背文書」
けふよりは春とは知りぬ然りとて昨日にかはる事はしもなし

題しらず

むら時雨もるや板まのときのまも思ひさだめぬ月の影かな(新千載610)

【通釈】一団の時雨が通り過ぎるたび、屋根の板間から雨漏りがし、かと思うとまた月明かり射し込んで……一時として心定まらぬ月の光であることよ。

【参考歌】俊恵「林葉集」
月影のさしくるおなじ板間より音してもるはむら時雨かも
  宇都宮景綱「沙弥蓮愉集」
雪となりしぐれとなりてうき雲のふりもさだめぬ神な月かな

百首歌たてまつりし時

秋みしはそれとばかりの萩がえに霜の朽葉ぞ一葉のこれる(風雅759)

【通釈】秋に見た時は既にわずかな葉しか残っていなかった萩の枝に、冬になった今もなお、霜に朽ちた枯葉が一枚だけ残っている。

【補記】風雅集巻八、冬歌。寒冷に耐えて枝に残る萩一葉。「それとばかりの」は「それと判るばかりの」ほどの意。秋に見た時点で、萩であると辛うじて判るほどしか葉は残っていなかったのである。萩は初秋に花が咲き、花期が終われば葉はいち早く黄変し、やがて枯れて散る。

百首歌たてまつりし時

逢ふことは波ぢはるかに漕ぐ舟のほのみし人に恋ひやわたらむ(新拾遺1032)

【通釈】逢うこともなく、波路遙かに漕いで行く船のように遠くから垣間見ただけの人を、ずっと恋し続けるのだろうか。

【補記】新拾遺集巻十二、恋二。「波」に「無み」を掛け、「逢ふことは無み」と続ける。延文百首。

【参考歌】衣笠家良「宝治百首」
しられじな霞にもるる三日月のほのみし人にこひわびぬとも

百首歌たてまつりし時

さすがいかに人の思はばやすからんつつむがうへの夢のあふせも(風雅1027)

【通釈】さすがにどうかしら――あの人が情け深く思ってくれるなら、容易いでしょうよ。秘め隠した二人の仲の夢の逢瀬も。

【補記】「いかに」は「やすからん」に掛かる。恋人の情が深ければ、夢の逢瀬もいかに容易いだろう、ということ。

忍逢恋

つつむ中はまれの逢ふ夜もふけはてぬ人のしづまる程をまつまに(風雅1106)

【通釈】忍び合う仲の私たちにとっては稀に逢えた今宵――その夜も、すっかり更けてしまった。人が寝静まる時分を待つ間に。

百首歌たてまつりしに

人よされば(たれ)()がるる夜がれとて逢はぬたえまをうしといふらむ(風雅1160)

【通釈】恋人よ、それなら誰が夜離(が)れするというのですか。夜離れと言うのは、逢う夜があればこそ、逢えない絶え間を辛く思うのでしょう。全く逢えないあなたと私の仲は、夜離れなどとは言えません。

恋五首歌合に、恋夢を

人のかよふあはれになしてあはれなるよ夢はわがみる思ひ寝なれど(風雅1184)

【通釈】夢路を通って来てくれるのは彼の情愛ゆえだと思いなして――ああ嬉しいことよ。私が彼を思いながら寝入って見た夢なのだけれど。

【補記】「相手が思ってくれるゆえに夢にその人が現れる」という考え方と、「私が相手のことを思う故に夢にその人を見る」という考え方と、両方あったことがわかる。この歌では、前者と思い込むことで喜びを感じているのである。「恋五首歌合」は花園院主催、康永年間(1342〜1344)頃の催行。

百首歌たてまつりし時

をちかたの里は朝日にあらはれて煙にうすき竹のひとむら(風雅1641)

【通釈】遠くの方の里は昇る朝日のうちに姿をあらわして、炊煙にうっすらと見える竹の一叢。

【補記】風雅集巻十六、雑歌中。人家から立ちのぼる炊煙は平和な世の象徴。朝日・竹などめでたい風物を取り合わせて、ささやかな村里の朝を祝福する。

【参考歌】前大納言実明女「風雅集」
朝ぎりのはれゆくをちの山もとにもみぢまじれる竹の一むら


最終更新日:平成15年06月07日