信生 しんしょう 承安四〜没年未詳(1174-?) 俗名:塩屋朝業(しおのやともなり)

下野国の豪族宇都宮氏の出。成綱の四男。蓮生の弟。子の時朝も勅撰歌人。
左衛門尉に任官。常陸国笠間の地を領して塩屋四郎を称した。鎌倉幕府の御家人として仕え、和歌を好んだことから将軍実朝の寵を得る。承久元年(1219)、実朝の死を機に出家。その後上洛したが、元仁二年(1225)、東国へ遍歴の旅にたち、鎌倉・武蔵国・信濃国などを経て、下野国に帰郷した。没年は嘉禎三年(1237)、宝治二年(1248)などの説がある。『新和歌集』に三十三首入集するなど、宇都宮歌壇の有力歌人であった。新勅撰集初出。勅撰入集十三首。東国旅行の記録など、一部歌日記風に綴られた家集『信生法師集』がある。

深夜梅花

梅の花あたりもしるく風すぎてにほひにはるる春の夜の闇(信生法師集)

【通釈】梅の花があたりに咲いていることをはっきり知らせるように風が吹き過ぎて、闇も晴れるような思いがする、春の夜よ。

【補記】闇の中の梅の香を詠むのは、古今集の凡河内躬恒詠「春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やは隠るる」以後きわめて好まれた趣向。掲出歌は嗅覚と視覚の共感覚的表現によって新味を添えた。

鎌倉右大臣、梅の枝ををりてたれにか見せんとてつかはして侍りける返事に

うれしさもにほひも袖にあまりけり我がため折れる梅の初花(玉葉1855)

【通釈】嬉しさも、その匂いも、我が袖に余るほどです。貴方が私のために折って下さった梅の初花の。

【補記】親交のあった源実朝が自邸の梅を贈って来たのに対する返事。『新和歌集』には、実朝の作「君ならで誰にか見せむ我が宿の軒端ににほふ梅の初花」の返歌として掲載されている。実朝の歌は言うまでもなく紀友則の「君ならで誰にか見せむ梅の花色をも香をもしる人ぞしる」(古今集)を踏まえたもの。

母におくれて侍る子どもの、大人しきは泣き、幼きは何とも知らぬさまにて侍るを見ても、あはれに侍りて

見るたびに思ひぞまさるみなしごの心あるにも心なきにも(信生法師集)

【通釈】見るたびに不憫な思いは増さる。身寄りを失った子らの、物が分かっている様にも、無心な様にも。

【補記】母親に先立たれた我が子たちの様子を見て。歌の「心ある」は、詞書の「大人しき」子にあたり、同様に「心なき」は「幼き」子にあたる。この後、実朝の死に遭った作者は幼い子等を捨てて出家する。八つになる子が後を追って来た時、その子に与えた歌は、「はぐくみし母もなき巣のひとり子を見捨てていかが帰らざるべき」。


更新日:平成14年11月03日
最終更新日:平成21年01月19日