今川了俊 いまがわりょうしゅん 嘉暦元〜没年未詳(1326-?)

清和源氏。遠江・駿河守護今川範国の二男。俗名は貞世、了俊は法号。
将軍足利義詮義満に仕える。貞治六年(1367)には引付頭人となり、侍所頭人・山城守護を兼任し、同年末、義詮の死去を機に落飾して、以後了俊を号した。応安三年(1370)、鎮西探題に任命されて翌年西下、九州の南朝勢力を制圧するという大功を挙げた。しかし応永二年(1395)、大内義弘らの讒言にあい、鎮西探題を解任されて帰京、遠江・駿河半国を与えられて遠江に下る。さらに応永六年(1399)の応永の乱では足利氏満との結託を疑われ、義満の追討をうけて相模に退隠。降伏して許され、まもなく帰洛。その後は歌道と仏道に専念する隠遁生活に入った。最晩年は駿河国堀越に下向し、応永十九年〜二十五年(1412-1418)頃、同地で没したらしい。静岡県袋井市掘越の海蔵寺に墓がある。
和歌は少年期に祖母香雲院より薫陶を受け、やがて藤原為基に指導を仰いだ後、冷泉為秀に入門した。壮年期は連歌にも志し、二条良基に師事。貞治五年(1366)十二月の二条良基主催「年中行事歌合」、同六年三月の足利義詮企画「新玉津島社歌合」、また覚誉法親王家の五十首歌などに出詠。晩年、『二言抄』『了俊一子伝(了俊弁要抄)』『了俊歌学書』『落書露顕』等多くの歌学書を著し、二条家を批判して冷泉歌学を体系づけたと評価される。門弟には正徹がいる。風雅集初出。勅撰入集五首。
他の著作には、鎮西探題として九州へ赴くまでの紀行『道行きぶり』、将軍義満に同行した旅の記録『厳島詣記』などがあり、『難太平記』も太平記を論難した著として名高い。

題しらず

ちる花をせめて袂に吹きとめよそをだに風のなさけと思はん(風雅1473)

【通釈】花を散らす無情な風よ。せめて花びらを我が袂に吹き留めよ。それだけの思いやりはおまえにもあったと思おう。

【参考歌】藤原俊成「新古今集」
うき身をば我だにいとふいとへただそをだにおなじ心とおもはむ

今日、皇后宮の御祭とて、神供(じんく)など奉る日しも、朝より東風(こち)吹き出でて、松浦(まつら)船はや出でぬと申す。ひとへに、神々に祈り申すしるしと、かたじけなく覚えて、重ねて詠歌二首

神まつる今日ぞ吹きける朝東風(あさこち)のたより待ちつる旅の船出は(道行きぶり)

【通釈】朝の東風が届くのを待って旅の船出を準備していたが、まさに神功皇后をお祭りした今日、吹いたことだ。

【補記】『道行きぶり』は、応安四年(1371)、九州探題として大宰府へ向かう際の紀行文。諸所で詠んだ和歌六十首も書き留められている。この歌は十一月十八日、長門国の忌宮神社での神功皇后祭に際し、同社に奉納したもの。このあと「この歌ども神の御心にかなひけるやらむ、かく船出も思ふままなる」と、和歌の功徳があったことを記している。

 

勝つことは千里(ちさと)のほかにあらはれぬ浦吹く風のしるべ待ちえて(道行きぶり)

【通釈】このたびの戦に勝つことは、千里の遠くまで示されたことだ。浦を吹く風の導きを待ち得たことで。

【補記】「勝つこと」とは、九州の南朝軍との戦いに勝つこと。当時の九州では、菊池氏に守られた征西将軍懐良親王が勢力を保っていた。

〔題欠〕

世にすまば()にかくもがなつれなくて残るを惜しむ有明の月(東野州聞書)

【通釈】世に住むのであれば、まことにこのようにありたいものだ。素知らぬ様子で空にかかり、消えずに残っているのを、人々から愛(め)でられる有明の月よ。

【補記】世に執着せず、かと言って人々からは愛惜されつつ過ごしたいとの思いか。「住まば」に「澄まば」を掛ける。『東野州聞書』は東常縁の作。康正年間(1455-1457)頃の成立かという。正徹が常縁に伝えた歌と言うから、了俊晩年の作に違いない。

【参考歌】寂然「法門百首」
世にすまばめぐりあふべき月だにもあかぬなごりは有明の空


最終更新日:平成15年06月01日