飛鳥井雅顕 あすかいまさあき 生年未詳〜弘安元(1278)

飛鳥井雅経の曾孫。飛鳥井雅有の長男。母は北条実時の娘。飛鳥井家の嫡流を継いだ雅孝は従兄弟。父と同じく関東祗候の廷臣で、多く鎌倉に住んだ。たびたび京都との間を往還し、東海道中の旅詠などを残している。正五位下右近少将に至る。弘安元年(1278)関東で病没。二十歳前後か。家集『右近少将雅顕集』がある(桂宮本叢書8・私家集大成4・新編国歌大観7に収載)。新後撰集初出、勅撰入集計十一首。
以下、勅撰入集歌は勅撰集より、他は家集『右近少将雅顕集』より、計八首を抜萃した。

にほはずはしらじな(むめ)の花がたみ目ならぶいろの春のあは雪

【通釈】もし香らなかったら、梅の花の存在を知らなかっただろう。よくよく見比べねば判らない、春の淡雪の色よ。

【語釈】◇花がたみ 花籠のことであるが、編み目が並んでいることから「目ならぶ」の枕詞として用いた。「花」は「梅の花」「花がたみ」と前後に掛かる。◇目ならぶ この場合「よくよく見る」「見比べる」の意で用いたと思われる。万葉集にも見える語。

【補記】白梅と雪のまぎらわしさも、匂いによって梅を認知する趣向もありふれたものであるが、本歌取りによる意想外の曲折を経て、結句の種明かしを凡常から救っている。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
花がたみ目ならぶ人のあまたあれば忘られぬらむ数ならぬ身は

【参考歌】宗良親王「柳葉集」(掲出歌との先後関係は不明)
にほはずはわきぞかねまし梅の花さける岡辺の春のあは雪

紅葉

秋山にいろどる露の玉かづら這ふ木あまたに紅葉しにけり

【通釈】秋山に彩りを添える露の玉――玉葛が数多く紅葉しているのだった。

【語釈】◇玉かづら 蔓草の美称。また「這ふ」の枕詞でもある。「玉」は「露の玉」「玉かづら」と前後に掛かる。◇這ふ木 他の植物や岩などに絡みつく蔓性の植物。

【補記】本歌では恋人の浮気の喩えとして用いた「玉かづら這ふ木…」を文字通りのものとして紅葉詠に転用した。蔦・葛・蝦蔓など、蔓性植物は美しく紅葉するものが多い。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
玉かづら這ふ木あまたになりぬれば絶えぬ心のうれしげもなし

冬歌の中に

神無月(かみなづき)ふりしく雪はかつ消えて時雨にかへる空のうき雲(新続古今1789)

【通釈】陰暦十月の雪は降り敷く端から消えてゆき、やがて雪から時雨に戻る空の浮雲よ。

【語釈】◇かつ消えて 降り敷く一方で、すぐに融けて。

【補記】初冬の頃の陰鬱で落ち着かない空の風情を捉えている。家集では「雪」と題した四首の第二首。

述懐

心よりほかにうき世はなきものを(いと)はで(そむ)く道をしらばや

【通釈】浮世が辛いのは、ほかならぬ心がそう思うものなのだ。世を捨てることなく世を背く方途を知りたいものだ。

【語釈】◇なきものを この「ものを」は詠嘆の終助詞◇厭はで背く 「世を厭ふ」も「世を背く」も出家遁世すること。「厭はで背く」とはつまり出家せずに出家したのと同じ心境で生きる、ということであろう。

【補記】「厭はで背く」は前例のない語であり発想。憂き世と遁世をめぐって葛藤する心を苦しく表現している。

【参考歌】藤原為家「為家千首」
心よりほかにこころはなきものをわが身にも似ぬ身をいかにせん

都にのぼりて後、あづまの恋しく侍りて

すみなるる里はいづくも恋しきに都ばかりとなに思ひけむ

【通釈】住み馴れた古里はどこであろうと恋しいものなのに、都ばかりを恋しいと、なぜ思い込んでいたのだろう。

【補記】上京後、故郷の東国が恋しくなって詠んだという歌。旅の題詠において「ふるさと」は普通京都のことであり、旅人に懐かしまれるのは京都であった。東国育ちの自分もまたその流儀に染まっていたことを省みての一首である。

あづまへくだり侍りしに、人々あふ坂までおくりてかへり侍りしとき

たちかへりまたあふ坂とたのまずは今日の別れやかぎりならまし

【通釈】また都へ戻り、再び逢坂で彼らと逢うことを期待できないのなら、今日の別れが永遠の別れになってしまうだろう。

【語釈】◇またあふ坂 「また逢ふ」「逢坂」の掛詞。逢坂は山城・近江国境の峠で、東国との境をなす関があった。

【補記】都から東国へ下った際、人々が逢坂まで送ってくれたあと、帰って行った時に詠んだという歌。「今日の別れやかぎりならまし」の仮想が現実になってしまったことは、続く病床の歌、辞世の歌によって知られる。

【参考歌】源俊頼「詞花集」
身にかへて惜しむにとまる花ならばけふや我が世のかぎりならまし

かぎりにおぼえ侍るころ

ふるさとにかよふ心よ夢にだにわが思ふ人をなどか誘はぬ

【通釈】故郷へと何度も通う心よ。せめて夢の中だけでも、懐かしい人をどうして誘って来ないのか。

【補記】死期が迫った頃に詠んだという歌。雅顕は東国で亡くなっているので、この歌の「ふるさと」は京都であろう。

あづまにて、病かぎりに侍りける時よめる

思ひきやありしを永き別れにてまた逢坂の関こえじとは(続後拾遺1261)

【通釈】思いもしなかった。あの時が永の別れであって、再び逢坂の関を越えることがなかろうとは。

【補記】辞世。家集には「あす、みまかり侍るとて」の詞書があり、死去前日の作と知れる。雅顕の死は弘安元年(1278)、二十歳前後であったと見られる。同じ時に残した他の二首は「さらでだに明日を待つべき身ならぬに今やとおもふ昨日今日かな」「目の前の憂さにて知りぬあはれわが来ん世もかかる身とやむまれん」。

【本歌】「伊勢物語」第六十九段(連歌)
かち人の渡れど濡れぬえにしあれば/又あふ坂の関はこえなむ


公開日:平成22年11月17日
最終更新日:平成22年11月18日