石野広通 いしのひろみち 享保三〜寛政十二(1718-1800) 号:花月堂・蹄渓・大沢(だいたく)など

旗本石野広包の子。本姓は中原氏。通称、平蔵。妻の勇子も『霞関集』に入集する歌人。子に佐々木万彦・中原広温・広持など。
幕臣として御膳奉行・佐渡奉行・普請奉行などを歴任。和歌は武者小路公野・冷泉為村などに学び、江戸堂上派の中心的歌人として活動する。内藤正範・横瀬貞臣と共に「近世武家三歌人」の一人とされる。明和五年(1768)、江戸の堂上派武家歌人の作を中心に千余首を収録した私撰集『霞関集』を編集する(古典文庫四三〇・新編国歌大観六に翻刻がある)。寛政十一年(17989)には再撰本を刊行した。その翌年五月二十一日、死去。八十三歳。
家集に『沢芦集』『五百四十首』がある。他の著書に文集『大沢文稿』、歌学随筆『大沢随筆』『蹄渓随筆』など。
 
以下には『霞関集』所載歌より四首を抜萃した。

遠江守広通佐渡奉行にて佐渡に侍りける時、若菜をおくるとて             四位保光朝臣柳沢松平甲斐守

摘みやるはこの武蔵野の初若菜あづまの春をおもひこせとて

【通釈】摘んで贈るのは、この武蔵野の今年最初の若菜。あなたに、東国の春を思いやってほしいと。

【補記】大和郡山藩主柳沢保光(1753〜1817)が、佐渡奉行として佐渡にあった広通に若菜と共に贈った歌。保光は明和五年(1768)に甲斐守、安永八年(1779)に従四位下。

かへし

わけなれし雪ふる里の初若菜きみがめぐみに此の春も見つ

【通釈】何度も雪を踏み分けて歩いたものです、ふるさとの武蔵野を――その初若菜を、あなたの情けで、この春も見ることが出来ました。

【語釈】◇わけなれし 雪を踏み分けて歩くことに慣れた。武蔵野について「わけなれし」と言えば草を分けて歩くことを連想するのが普通であるため、次句で「雪」を出すところに意表を突く面白みがある。◇雪ふる里 「ふる」は掛詞。雪が降る、ふるさと。

【補記】柳沢保光への返歌。感謝の意を表しつつ、早春の武蔵野を髣髴させる歌となっている。保光の「あづまの春を思ひこせ」の願いに応えたのである。

谷帰雁

かへる雁春をよそなる谷陰は花なき里としばしやすらへ

【通釈】故郷へ帰る雁よ、春とは無縁なこの谷陰の地は「花なき里」と思って、しばらくは此処に留まってゆけ。

【語釈】◇春をよそなる 春とは無縁であるところの。

【補記】下記本歌を受け、「花なき里」に住み慣れているはずの雁に対し、谷に留まるよう呼びかけた歌。趣向を巧んだ歌であるが、谷陰の寂しい里に住む人の立場で詠んでいるため、雁への思いが深いものとなっている。

【本歌】伊勢「古今集」
春霞たつを見すててゆく雁は花なき里にすみやならへる

苗代

せく水の水上とへば若草の緑につづく野田の苗代

【通釈】堰き止めて田に溜めた水――その水上(みなかみ)をたずねて行くと、若草の緑が、野田の苗代へと途切れることなくつながっている。

【語釈】◇せく水 堰き止めて田に水を張ってある状態。苗を植え替えるための準備。

【補記】晩春の歌。田園の風景に寄せる都会人の嘆賞の念が感じ取れる。

【参考歌】中院通茂「新明題和歌集」
わか草や先づもえ出でて苗代の緑をいそぐ小田のほそみち

薄暮鐘

暮ふかき森のそなたや寺ならむ灯火見えて鐘ひびく声

【通釈】夕暮が深まる、深い森――その向うは寺なのだろうか。灯火(ともしび)が見えて、鐘の響く音がする。

【補記】夕暮の鐘は古来好まれた題材。正風体の大御所頓阿の歌の影響が見えるが、「暮ふかき」と言い「灯火見えて」と言い、情景描写の鮮やかさでは掲出歌の方が遥かに勝っている。

【参考歌】頓阿「頓阿句題百首」
陰ふかき松より奧や寺ならむ暮るる山路に人かへるなり


公開日:平成19年11月07日
最終更新日:平成19年11月07日