平賀元義 ひらがもとよし 寛政十二〜慶応一(1800-1865) 号:石楯(いわだて)・楯之舎(たてのや)ほか

※工事中未校正

備前岡山藩士平尾新兵衛長春の長男。岡山城下富田町で育つ。十九歳の時小林氏より妻を迎えるが、翌年離婚。以後、四十九歳まで独身であった。二人目の妻長浜富子との間には二人の男子をもうけた。
賀茂真淵などの影響を受け、若くして古学を独習し、文政三年(1820)、同士を集めて日本書紀の講義をするなどした。学問に志を立てて二十五歳の時家督を弟に譲り、祖母の実家に寄寓し興津(沖津)姓を名乗ったが、天保三年(1832)、三十三歳の時本姓に復し、以後平賀左衛門太郎源元義を名乗る(平賀氏は生家平尾氏の遠祖)。同年、脱藩し、備前・備中・美作などを放浪した。安政四年(1857)、五十八歳の時、美作勝田郡飯岡村に楯之舎塾を創設、古学を講じ、また歌会を開くなどした。学才を認められて岡山藩主に召されることに決まった矢先の慶応元年(1865)十二月二十日、備前上道郡(現岡山市内)の路上で倒死した。六十六歳。
兵学・神道・史学などに研鑽を重ねる一方、余技として万葉調の歌を作った。生前は無名に等しかったが、明治時代になって羽生永明により初めて世に紹介され、次いで正岡子規によって激賞され万葉調歌人として広く知られるようになった。家集は岡山の歌人有元稔らによって編集され、明治三十九年(1906)に初めて刊行された。

「萬葉以後一千年の久しき間に萬葉の眞價を認めて萬葉を模倣し萬葉調の歌を世に殘したる者實に備前の歌人平賀元義一人のみ」(正岡子規『墨汁一滴』)

歌本文は主に尾山篤二郎『評註 平賀元義歌集』(春陽堂 大正十二年刊。以下「評註」と略称)に拠った。歌の類別・順序も同書に従い、用字もほぼ同書に拠っているが、旧字体は新字体に改め、宛字など特に読みづらいと思える部分は仮名を漢字に置き換え、送り仮名を補うなどした。但し、一部、斎藤茂吉・杉鮫太郎編註『平賀元義歌集』(岩波文庫)に拠った。

     相聞 

上 (編年)

天保八年三月十八日、自彦崎至長尾村途中。

牛飼の子らにくはせと天地あめつちの神のりおける麦飯むぎいひの山

【通釈】牛飼いの子らに食わせよと、天地創造の神が盛っておいた、麦飯の山よ。

【語釈】◇彦崎・長尾村 備前児島郡。◇麦飯の山 旧児島郡八浜町(今の玉野市槌ヶ原)にある山。今は麦飯山(むぎいさん)と呼ばれる。

【補記】天保八年(1837)は作者三十八歳。彦崎から長尾村へ行く途中に詠んだという歌。麦飯山の名と形状から、国土創生の神に思いを馳せる。

【鑑賞】「荘重な一首の調べと相俟つて、原始的な農民と、人間のやうに動いて居つた神々と、山川草木との階調をば自然に感得することが出来る。つまり、『牛飼の子』をば、直ちに卑賤の民として感ぜずに、原始的農夫として感じてもいいやうな気がしてゐる。一首の歌調はどうしてもそのやうに私等をして感ぜしめる程堂々として且つ清潔である。」(斎藤茂吉「平賀元義の歌」)

五月三日。望逢崎。

柞葉ははそはの母をおもへば児島の海逢崎あふさきの磯なみたち騒ぐ

【通釈】母を思えば、児島の海に突き出た逢崎の磯に波が立ち騒ぐ。

【補記】前歌と同年、逢崎を望んで詠んだという歌。初二句は「児」を導く序とも取れる。

【語釈】◇柞葉の 「母」にかかる枕詞。◇児島の海 岡山県の児島湾。「児」は「母」と対偶。◇逢崎 児島郡八浜町大崎。

十二月七日。自庭妹郷至松島途中二首。

大井川あさかぜ寒み大丈夫ますらをおもひてありし我ぞ鼻ひる

【通釈】大井川の朝風が寒い余り、立派な男子を任じていた俺がくしゃみをすることよ。

【語釈】◇大井川 いま足守川と呼ばれる川か。笹ヶ瀬川に合流して児島湖に注いでいる。◇鼻ひる くしゃみをする。

【補記】天保十年(1839)、作者四十歳。庭妹(にわせ)の郷(今の岡山市庭瀬)から松島(旧今庄村の大字)へ行く途中に詠んだという歌。

【参考歌】大伴旅人「万葉集」巻六
大夫と思へる吾や水莖の水城の上に涙のごはむ

 

いもが手を鳥羽とりはの島のあさかぜに暁のみし酒さめにけり

【通釈】妹が手を取るという鳥羽の島の朝風に吹かれて、暁に飲んだ酒の酔いが醒めてしまったのだった。

【語釈】◇妹が手を 「とり(取り)」から「鳥羽」にかかる序詞的枕詞。◇鳥羽 旧都窪郡中庄村の字。「鳥羽の島」は不詳。

【補記】前歌と同じ時の作。

【参考歌】作者未詳「万葉集」巻十
妹が手を取石(とろし)の池の波の間ゆ鳥が音けに鳴く秋過ぎぬらし

十三日。逢崎眺望二首。

梅の花恋ひもつきねば高おがみ雪をふらせてしぬばすも

【語釈】◇十三日 天保十年十二月。◇恋ひもつきねば (梅の花を)恋うる心が尽きないので。◇高おがみ 高淤迦美ノ神。「雨雪を支配する山上の龍神」(尾山「評註」)。◇雪をふらせて 高尾上の神が雪を降らせ、梅の梢に花と見まがう雪をつけて。◇吾を偲ばすも 私をして(梅の花を)偲ばせしめる。

 

久方のあめ金山かなやま加佐米かさめ山ゆきふりつめりいもは見つるか

【語釈】◇金山加佐米山 ともに備前の高峰。

十四日。望父峰。

父の峰雪ふりつみて浜風の寒けく吹けば母をしぞ思ふ

【語釈】◇十四日 天保十年十二月。◇父の峰 大崎の北にある山。◇母をしぞ思ふ 元義の母は当時生存していたが、離れて住んでいた。「しぞ思ふ」は万葉集に頻出し、古今集以後はあまり使われなくなった言い方。

十四日。遊于梅之園。

丈夫ますらをはいたもやせにき梅の花心つくして相見つるかも

【語釈】◇十四日 天保十一年正月。元義四十一歳。◇丈夫 元義自身をさす。◇いたもやせにき 甚だしく痩せてしまった。◇梅の花 恋人である女性をさす。

十六日。発松島行篠沖村途中。

思ふ子に別れて行けば春の夜の月かげくらし倉敷の村

【語釈】◇篠沖村 備中都窪郡笹沖。今の倉敷市笹沖。

晦日三首。

花守はなもりは心許しついざ吾妹わぎも上枝ほつえの梅をここに手折らむ

【語釈】◇晦日 天保十一年正月末。◇花守 花を監視する役。ここでは恋人の監視役を暗に指す。◇心許しつ 心を緩めた。監視の目をそらしたということである。◇いざ吾妹 恋人に呼び掛ける言葉。

皆人の得がてにすとふ君を得て君る夜は人なきたりそ

【本歌】藤原鎌足「万葉集」
吾はもや安見児得たり皆人の得かてにすとふ安見児得たり(鎌足[万葉])

きもむかふこころの中を居待月ゐまちづきあかしてかたる今宵楽しも

【枕詞】きも向ふ→こころ。居待月→あかし。

二月十二日。自玉島至下原途中。

二万にま坂をうちいでて見れば梅の花咲ける山辺に妹が家みゆ

【語釈】◇二万坂 備中国下道郡の歌枕。今の吉備郡真備町上二万・下二万。『備中風土記』逸文によれば、斉明天皇の新羅遠征の際、当地で二万のすぐれた兵を得たことによりついた名であるという。

【補記】初句、「やかたを」とする本もある。

十日。自中山至松島途中。

あかねさす日指ひさしの高根雲きらひ松島山に雨ぞふりくる

【語釈】◇十日 天保十一年三月十日。◇日指の高根 備中都宇郡日差山。◇雲きらひ 雲が一面にひろがり。

十八日。自下原至篠沖村路上。

吾妹子わぎもこ山北そともに置きてわがくれば浜風さむし山南かげともの海

【語釈】◇山北(そとも) 山陰やまかげ。山の向こう側・背面。◇山南(かげとも) 山の陽の当たる側。

十一夜。自彦崎至逢崎路上二首。

ひさかたの月の光に海見れば雲の退辺そきへいもが国みゆ

【語釈】◇十一夜 天保十二年八月。◇雲の退辺 雲の彼方。万葉集に見える「天雲のそくへの極み」(19-4247)などの転用。◇いもが国みゆ 「詠つた處は鹿島郡の彦崎から逢崎へ通ふ海辺の路上であるから、そこから兒島灣を越して、妹が棲む松島或ひは下原のあたりが見える由である。」(尾山「評註」)

射干玉ぬばたまの月おもしろみ彦崎ゆ逢崎さして吾磯づたふ

天保十年正月九日。遊于都于郡。

白真弓しらまゆみ春立つ今朝は妹が手を鳥羽とりは島山風のどにふく

【語釈】◇白真弓 「弓を張る」に懸けて「春」にかかる枕詞。◇妹が手を 「手を取り」に懸けて地名「鳥羽(とりは)」の枕詞とした。◇のどにふく のどかに吹く。

十五夜。従児島還一宮途中。

妹に恋ひ汗入あせいりの山をこえ来れば春の月夜つくよに雁なき渡る

【語釈】◇汗入の山 児島郡の山。不詳。

同じ所をこぎ出でて。

室の浦朝汐あさじほ高し和田津わたつ神やすくまもらへ旅ゆく吾を

【語釈】◇同じ所 播磨国の室津。◇室の浦 揖保郡御津町の室津湾。万葉集以来の歌枕。◇和田津神 海の神。◇旅ゆく吾を 万葉集に「汐はやみ礒廻に居れば潜(かづ)きする海人とや見らむ旅ゆくわれを」(7-1234)などの例がある。

【補記】弘化二年(1845)五月五日。元義四十六歳。

嘉永元年三月十九日。女の家にて。

戸を開けて見れどもあかずよべの雨にぬれたる山の山桜花

【語釈】◇よべの雨に 昨夜の雨に。

五月十六日。美作の一の宮にまゐでて。

中山の神のやしろのさくらかげあさけ涼しくなつの風ふく

【語釈】◇五月十六日 嘉永二年(1849)。元義五十歳。◇中山の神の社 津山市一宮の中山神社。慶雲四年(707)創建の美作一宮。◇あさけ 朝明。

八月十一日。久米郡倭文の郷にて。

玉櫛笥たまくしげ二神山ふたがみやまにくれなゐの雲たなびきて雨は晴れにけり

【語釈】◇玉櫛笥 「ふた(蓋)」から「二」にかかる枕詞。

嘉永五年十月十一日。美作国久米郡倭文の郷にて。

たたなめて射水神いみづかみ奈義なぎの峯初雪ふれりみつつ遊ばむ

【語釈】◇たたなめて 楯並めて。「射(い)」にかかる枕詞。◇射水神の嶺 美作国、射水権現社のある山。◇奈義の峯 因幡美作国境の奈義山。

夜のほどろわが出で行けば妹が門の桜の上に残る月かげ

【語釈】◇夜のほどろ 夜が白じらと明けるころ。

【本歌】大伴家持「万葉集」
夜のほどろ吾が出て来れば我妹子が思へりしくし面影に見ゆ

大公おほきみ三門みかど国守くにもり万成坂まなりざか月おもしろしわれひとりゆく

【語釈】◇大公の 「み門」と言うために冠した枕詞的用法。◇三門・国守・万成坂 いずれも備前御野郡の地名。今の岡山市。

【鑑賞】「一首に固有名詞が三つも這入つてゐるが、これは地名の知識のないものには単に音として響く。それゆゑ『月おもしろしわれひとり行く』といふ大切な句がその特色をあらはして来る。この大切な句を練りに練つて、上の句をば単に音として響かせるといふ一つの技方である。(中略)調子が太く堂々としてゐて、なほ且つかういふ神経の細かい句を吐くといふことはその力量まさに恐るべきである。」(茂吉前掲書)

鏡山雪に朝日の照るを見てあな面白と歌ひけるかも

【語釈】◇鏡山 勝田郡香山。

相聞

弥上山やがみやま池の水底みなぞこ清らけき妹がこころはわすれかねつも

【語釈】◇弥上山 備前赤磐郡。上二句は「清らけき」を導く序。

【参考歌】大伴家持「万葉集」
高円の野辺のかほ花面影に見えつつ妹は忘れかねつも
  作者未詳「万葉集」
神さびて巌に生ふる松の根の君が心は忘れかねつも

出雲国熊野意宇麿が国へ還りける時わが塾の庭にひひら木を栽たるを見て。

玉くしげ二心なきますらをの心に似たるひひらぎの花

【語釈】◇意宇麿 未詳。元義の塾生の名。◇わが塾 元義が美作国勝田郡飯岡に開いた学塾。◇玉くしげ 「ふた」(蓋→二)にかかる枕詞。◇ひひらぎの花 柊。モクレン科の常緑樹。白い花が咲く。

父のうせにし頃ありし事どもをおもひ出て。

上山うへやまは山風寒しちちのみの父のみことの足ゆらんか

【語釈】◇父のうせにし頃 元義の父平尾新兵衛長春は文政十年十月十九日没。享年五十一。◇上山 岡山市西郊の山。長春の墓があった。◇ちちのみの 父にかかる枕詞。◇足ひゆらんか 足が冷えているのではないか。「平尾長春は年四十そこそこで中風を病み、足が常に冷性(ひえしょう)であつた。」(茂吉前掲書)

院の庄のふるき宮所に参出まうでけるに後醍醐天皇今も大御坐おほみまします如おもはれておのれやがて大御前に侍らひ居る心地しければ。

大刀たちきてがさもらへば夏の風暑く吹くなり美作みまさかの宮

【語釈】◇院の庄 津山市の西、美作苫田郡。元弘二年(1322)、後醍醐天皇隠岐下向の途中、仮宮とした。◇吾がさもらへば 詞書にあるように、後醍醐天皇のもとに伺候している気持でその場にいたことを言う。

題しらず

月よみの光さやけみぬば玉の今宵の国見昼にまされり

【語釈】◇国見 山などの高所から国を展望すること。もともと施政者が春に行なった儀礼的な行事であったことは、記紀歌謡や万葉集の歌から窺われる(舒明天皇「万葉」1-2など)。

 

たまちはふ大神島山おほがみしまやま神のさき大海おほうみかみさびて見ゆ

【語釈】◇霊ちはふ 霊威をふるう。ここでは枕詞的に使っているか。◇大神島山 未詳。児島湾上の島か。◇神のさき 「備前国邑久郡神崎(かうさき)の事歟」(尾山「評註」)。

 

妻籠つまごみこもりし神のかみよよりすがの熊野にたてる雲かも

【通釈】須佐之男命が新婚の妻と籠もった神代から、すがすがしい須賀の熊野にあらわれた雲であるよ。

【語釈】◇清の熊野 出雲大原郡須賀(すが)の東方にある熊野神社。須賀は須佐之男命が宮を造ったと伝承される地。

【本歌】須佐之男命「古事記」
八雲立つ出雲八重垣妻籠に八重垣作るその八重垣を

 

利兵衛りひやうゑ十握とつかつるぎ遂に抜きて富子とみこを斬りてふたきだとなす

【通釈】利兵衛が十握りの長剣を遂に抜いて、富子を斬って真っ二つにする。

【語釈】◇利兵衛 「弥兵衛(やへゑ)」とする本もある。岡山新町の酒屋の番頭であったが、情事のもつれから、同じ酒屋に雇われていた「富子」を斬殺したのち、自殺するという事件を起こした。◇十握の剣・二きだ いずれも記紀に基づく表現。「伊弉諾尊(いざなぎのみこと)遂に帯せる十握の剣を抜きて軻遇突智(かぐつち)を斬りて三段(みきだ)となる」(日本書紀)。

 

利兵衛がこやせるかばねうじたかれ見る我さへにたぐりすらしも

【通釈】利兵衛の横たわった死体には蛆が湧き、見る私さえ嘔吐するようだ。

【語釈】◇うじたかれ 蛆が湧き。古事記に見える句。◇たぐり 嘔吐。これも古事記などに見える語。

【鑑賞】「かういふ人事の歌は、第一、三十一文字に纏めるのに困難するのであり、況して人名を二つも咏み込んで調子を害さないやうにするのは非常な力量を要する。然るに元義は平然としてそれを成し遂げ、言葉を駆使すること縦横自在で、毫も斧正(ふせい)難渋の痕を見ない。特に第二の歌に於てさうである。これが元義壮年のころの作なるを思へば、私の如きは正に慚死(ざんし)すべきである。」(茂吉前掲書)

 

五番町ごばんちやう石橋いしばしのうへに我が麻羅まら手草たぐさにとりし吾妹子わぎもこあはれ

【通釈】五番町の石橋の上で、俺の男根を手にもてあそんだ可愛い女よ。

【語釈】◇五番町 岡山市内の町。◇我が麻羅を手ぐさにとりし 私の男根をもてあそんだ。用例「天の香山(かぐやま)の小竹葉(ささば)を手ぐさに結ひて」(古事記)。◇我妹子あはれ この「あはれ」は愛しさを含んだ嘆息といったところか。

【補記】この歌は尾山『評註 平賀元義歌集』に見えない。岩波文庫に拠った。

【鑑賞】「実際からいふと、かういふ歌は、古事記の神々の成したまふ行為、万葉集の上代の男女のなした歌から悟入せずしては作れないのである。古事記のもろもろの神達の御行ひはあれは決して下等ではない、その如くに元義の歌をも荘厳の歌として鑑賞すべきである。」(茂吉前掲書)


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成15年03月21日