道命 どうみょう 天延二〜寛仁四(974-1020) 通称:道命阿闍梨(あじゃり)

大納言道綱の子。藤原兼家・道綱母の孫にあたる。母は中宮少進源広の娘(中古歌仙伝)。兄弟に兼経・兼綱・僧斉祇・豊子ほか。
永延元年(987)、比叡山延暦寺に入山。永祚二年(990)、妙香院七禅師に補せられる。この時伝灯大法師位道命を称す。長保三年(1001)、延暦寺総持寺阿闍梨となる。長和五年(1016)、天王寺別当となる。寛仁四年(1020)七月四日、逝去。四十七歳。
慈恵(良源)を師とし、法華経を受持した。読経で名高く、また和泉式部との交渉をはじめ色好みの逸話が多く伝わる。その生涯のエピソードは様々な物語・説話集に取り上げられている(『栄花物語』巻十三・十四、『古事談』三、『宇治拾遺』一、『古今著聞集』三・六等)。
幼少より花山院と親しく、家集によれば院主催の歌合に出詠している。後拾遺集初出。勅撰入集五十七首。家集『道命阿闍梨集』がある。『枕草子』『赤染衛門集』などにも歌が見える。中古三十六歌仙

題しらず

花見にと人は山べに入りはてて春は都ぞさびしかりける(後拾遺103)

【通釈】花を見ようと人々は山にすっかり入り込んでしまって、春という季節は都の方が寂しいことだよ。

【語釈】◇山べ 山。山の方。この「へ」は漠然と場所や方向を指す。

【補記】初句「はなみると」とする本もある。

長恨歌の絵に、玄宗もとの所にかへりて、虫どもなき、草もかれわたりて、帝(みかど)なげきたまへる形(かた)あるところをよめる

ふるさとは浅茅が原と荒れはてて夜すがら虫のねをのみぞなく(後拾遺270)

【通釈】かつて馴染んだ里は、今やいちめん浅茅の生える野原となって荒れ果て、一晩中虫の鳴き声がするばかりだ。

【補記】白楽天の長編詩『長恨歌』を主題とした屏風絵に添えた歌。玄宗皇帝が楊貴妃を失ってのち長安の都に戻って来て嘆き悲しむ場面(→資料編)。

【他出】道命集、後六々撰、宝物集

【主な派生歌】
古郷は浅茅がすゑに成りはてて月にのこれる人の面影(藤原良経[新古今])
ふる郷はあさぢが原となりはてて生ふるすみれを摘む人もなし(熊谷直好)

冬のころ、暮にあはむといひたる女に、くらしかねて言ひつかはしける

ほどもなく暮るると思ひし冬の日の心もとなき折もありけり(詞花231)

【通釈】程もなく暮れると思っていた冬の日ですが、いつになったら暮れるのかと心もとない、そんな折もあったのですねえ。

【補記】恋歌。夕暮に逢うことを約束をした女に、短い冬の日さえもどかしいと言い遣った。

熊野へまゐるとて、人のもとにいひつかはしける

忘るなよ忘ると聞かばみ熊野の浦の浜木綿うらみかさねん(後拾遺885)

【通釈】私のことを忘れないでおくれよ。忘れたと聞いたならば、熊野の浦の浜木綿(はまゆう)のように、あなたをいつまでも繰り返し恨むよ。

熊野の浦
熊野の浦

【語釈】◇熊野の浦 紀伊国の歌枕。熊野灘に沿って、長大な海岸線が弓なりに続く。

【補記】雑歌。熊野権現に参詣する際、親しい人のもとに贈った歌。浜木綿は葉の付け根あたりの白い葉鞘が幾重にも重なっているところから、「かさねん」の序として用いている。

【本歌】柿本人麻呂「拾遺集」
み熊野の浦の浜木綿百重なる心は思へどただにあはぬかも

思ひにて、はるごろ雨のふる日

春雨はふりにし人のかたみかも嘆きもえいづるここちこそすれ(道命阿闍梨集)

【通釈】春雨は亡き人を思い出させる形見だとでもいうのか。眺めていると、嘆息が誘い出される心持がするのだ。

【補記】服喪の時に詠んだ哀傷歌。「ふり」は「降り」「旧り」の掛詞。また「なげき」に「木」を掛け、「もえ」と縁語になる。

したしかりける人身まかりにけるによめる

おくれじと思へど死なぬ我が身かなひとりやしらぬ道をゆくらん(千載553)

【通釈】遅れまいと思うのだけれども、死なずにいる我が身であるよ。あの人は独りぼっちで見知らぬ冥途の道を行くのだろうか。

【補記】哀傷歌。

修行にいでたつとて、人のもとにつかはしける

別れぢはこれやかぎりの旅ならん更にいくべき心地こそせね(新古872)

【通釈】こうしてあなたと別れるのが、最後の旅となるのでしょうか。このうえ生き続けられそうにありません――行こうという気持が全然しないのです。

【補記】離別歌。「いくべき」に「生くべき」「行くべき」の両義を掛けている。

題しらず

故郷の住みうかりしにあくがれていづちともなき旅の空かな(新千載785)

【通釈】生まれ故郷の都が住みづらかったので、ふらふらと彷徨い出て、どこへ行くあてもない旅の空であるよ。

【補記】『道命集』によれば、「つれづれなるよのあるに、人人だい十いだしてよむに」とある十首のうち「旅」の題で詠んだ歌。但し結句「たびをゆくかな」とある。

山寺にこもりて侍りける比、雨ふりて心ぼそかりけるに、人のまうできて歌など詠めるついでによめる

かくてだになほあはれなる奥山に君こぬ夜々をおもひしらなん(千載1062)

【通釈】こうして人が訪ねてくれてもやはり寂しい奥山で、あなたの来ない夜を毎晩どんな思いで私が過ごしているか――知って頂きたいものです。

【補記】『道命集』では第三句以下「おく山のきみみぬよよをおもひやらなん」。


更新日:平成16年11月19日
最終更新日:平成22年09月01日