略伝 736(天平8)年11月、父葛城王(諸兄)らが橘宿禰姓を継ぐことを願い、勅許される。この時、応詔歌を奉る(06/1010)。
天平12年5.10、聖武天皇が諸兄の相楽別業に行幸した際、従五位下を授かる。父諸兄は当時二位で、蔭位制によれば初叙は正六位下にあたり、特別な優遇措置であった。祖母橘三千代・外祖父不比等(共に一位)の功績によるものであろう。同年の関東行幸に従駕し、11月、鈴鹿郡赤坂頓宮で従五位上に昇叙。この年、大原真人明娘(一説に大原今城の親戚かという)との間に長男安麻呂が生まれる。
天平13年7.3、大学頭。この年か翌14年の10.17、平城旧京の諸兄旧宅で紅葉の宴を主催、久米女王・大伴家持・大伴池主・県犬養吉男らが集まり、歌を詠む(08/1581〜1591。年次表記なく、排列によれば天平10年となるが、左注に「右大臣橘卿旧宅」とあり、恭仁京遷都後、諸兄左大臣就任以前の歌と思われる)。
743(天平15)年、正五位上。天平17年9.4、摂津大夫。同年9.19、難波行幸中の天皇が病に倒れた時、佐伯全成に謀反の計画を洩らす。聖武亡き後、多治比国人・多治比犢養・小野東人らを率い、黄文王を立てるとの計画であったという。
天平18年、民部大輔。
天平19年、従四位下。
天平21年4月、東大寺行幸に際し従四位上。天平感宝に改元後、閏5.1、侍従。さらに天平勝宝に改元後、参議に抜擢される。同年11月、孝謙天皇即位大嘗祭の時、佐伯全成に再度謀反計画の実行を告げるが、全成は協力を拒絶。
翌勝宝2年1.16、父諸兄と共に朝臣を賜姓される。宿禰から朝臣への改姓の初見であり、これ以後、朝臣と宿禰の上下がしだいに明確となった。
752(天平勝宝4)年11月、但馬因幡按察使に任ぜられ、林王宅で奈良麻呂を餞する宴が開かれる。船王・大伴黒麻呂・家持が参席して歌を詠む(19/4279〜4281)。
天平勝宝6年1.16、正四位下。
翌勝宝7年5.18、左大臣諸兄が奈良麻呂宅で宴を主催、船王が歌を詠む。家持はこれに追作(20/4449〜4451)。この時奈良麻呂は兵部卿、家持は兵部少輔。同年11.28、再び諸兄が奈良麻呂宅に集まり宴(諸兄の歌20/4454)。
翌勝宝8年2月、諸兄は前年末の宴における上皇誹謗の責を負って官界を引退(73歳)。同年4月、聖武上皇不豫の際、黄金を携えて陸奥より上京した佐伯全成に接触、大伴古麻呂(当時左大弁)を誘い、大伴・佐伯両氏族を率いての謀反計画を告げるが、両者は拒絶。同年5.2、聖武上皇崩じた際、御装束司。
翌勝宝9年1.6、父諸兄を失う。6月中旬、奈良麻呂邸他で反仲麻呂派の謀議を開く。6.16、兵部卿を解任され右大弁に遷る。6.28、山背王(安宿王・黄文王の同母弟)の密告により謀反の計画が発覚。6.29夕、太政官院の庭で反仲麻呂一派の三度目の会合。黄文王・安宿王・奈良麻呂・古麻呂・多治比犢養・多治比礼麻呂・多治比鷹主(多治比氏三名は一説に池守の子)・大伴池主・大伴兄人らが参加(計20数名)。7月2日夜の挙兵を誓う。同年7.12の詔によれば、計画は次のとおりであった。
- 田村第を囲み藤原仲麻呂を暗殺。
- 大極殿を囲み大炊皇太子を退ける。
- 皇太后宮(紫微中台)より鈴・天皇御璽(宣命には鈴・印・契)を奪取。
- 右大臣豊成を召し、孝謙天皇を廃し、四王(塩焼・道祖・黄文・安宿)の中から天皇を選ぶ。
7.2、計画は朝廷の知るところとなり、高麗福信らに命じ小野東人・答本忠節らを追捕、監禁。さらに道祖王宅を囲む(橘奈良麻呂の乱)。結局この夜の挙兵計画は実行されぬまま、参加者の捕縛に至った。7.4、小野東人は6月の謀議を証言し、奈良麻呂らも監禁され尋問を受ける。奈良麻呂は藤原仲麻呂の無道を糾すため挙兵を企てたと自白。東大寺造営による人民の辛苦と関を奈羅に置いた(歌姫越えか奈良坂)失政を言うが、糾問者に東大寺の工事が開始された時の責任者が父の諸兄であることを指摘され言葉に詰まる。同日、出雲守百済王敬福・大宰帥船王らが派遣され、獄囚を拷問、多数が杖下に死す。
表 奈良麻呂の乱参加者・関与者の官職と刑罰
岩波新日本古典文学大系『続日本紀 三』の補注を参考とし、これに補足したものです。
名 |
官職 |
刑罰 |
橘奈良麻呂 |
右大弁・参議 |
?(斬刑との伝もあり) |
黄文王 |
?(天平13年散位頭) |
7.4拷問死(「杖下に死す」) |
道祖王 |
前年廃太子 |
〃 |
大伴古麻呂 |
左大弁兼陸奥鎮守将軍 |
〃 |
多治比犢養 |
? |
〃 |
小野東人 |
?(天平10年左兵衛率) |
〃 |
賀茂角足 |
遠江守 |
〃 |
大伴池主 |
式部少丞 |
? |
大伴兄人 |
? |
? |
多治比礼麻呂 |
? |
? |
多治比鷹主 |
? |
? |
佐伯古比奈 |
? |
? |
答本忠節 |
侍医(薬師) |
? |
安宿王 |
讃岐守 |
7.4佐渡配流(のち免罪) |
佐伯大成 |
信濃守 |
7.4任国配流(以後不明) |
大伴古慈斐 |
土佐守 |
7.4任国配流(のち免罪) |
多治比国人 |
摂津大夫 |
7.4伊豆配流(以後不明) |
多治比広足 |
中納言 |
8.4解任散位 |
佐伯全成 |
陸奥守兼鎮守副将軍 |
7.4奈良麻呂の謀反を証言の後、自経 |
大伴駿河麻呂 |
? |
7.4配流(のち免罪) |
大伴不破麻呂 |
衛門佐 |
神護景雲3年まで叙任無 |
大伴村上? |
民部少丞 |
日向国配流(神護景雲2年免) |
大伴兄麻呂? |
参議 |
翌年致仕(公卿補任に「謀反」) |
山田比売島 |
もと孝謙天皇の乳母 |
8.2隠匿罪により宿禰剥奪 |
調馬養? |
? |
官位剥奪?(天平神護1年無位より復位) |
調牛養? |
? |
〃 |
藤原乙縄 |
? |
7.9拘禁 7.12左遷(のち復帰) |
藤原豊成 |
右大臣 |
7.12左遷(のち復帰) |
塩焼王 |
? |
7.27免罪 |
757(天平宝字1)年8.18、奈良麻呂の田地(越中国礪波郡石栗村)は東大寺に施入され、所蔵の書480余巻も没官される。
770(神護景雲4)年7.23、奈良麻呂の乱連座者は443名と公表。
834(承和1)年10月、橘奈良麻呂の没官された家書480余巻を秀良親王(ひでながしんのう。817〜895。嵯峨天皇の皇子)に賜う(『続日本後紀』)。
847(承和14)年、仁明天皇(母は橘嘉智子)の外曾祖父にあたる橘奈良麻呂に正一位太政大臣を追贈する。
万葉には3首、06/1010、08/1581・1582。
なお『日本霊異記』中巻第四十には、葛木王の子橘諾楽麻呂が国の転覆を図り、僧の絵を描いて的とし、その黒目を射る術をまなんだとの説話がある。その後諾楽麻呂は悪報を得て天皇に嫌われ、「利鋭に剔(き)られ」殺されたという。