安宿王
あすかべのおおきみ
- 生没年 未詳
- 系譜など 父は長屋王、母は藤原不比等の女。同腹の兄弟に黄文王・山背王がいる。
- 略伝 729(天平1)年、長屋王の変の際、母が藤原不比等の娘だったため罪を免れる。737(天平9)年9月、従五位下に初叙。同年10月、黄文王・円方女王らと共に叙位に預り、従四位下に越階昇叙。一説に、同年の藤原四卿らの疫病死を長屋王の怨霊の仕業と解した結果、王の子女への叙位が行われたとする。738(天平10)年閏7月、玄蕃頭。同年、写経所は王より最勝王経10巻を借り請ける(大日本古文書)。740(天平12)年11月、従四位上。746(天平18)年4月、治部卿。751(天平勝宝3)年1月、正四位下。753(天平勝宝5)年4月、播磨守。754(天平勝宝6)年1月、「東常宮の南の大殿」での肆宴に列席し歌を詠む(20/4301)。同年2月、鑑真を迎える勅使(唐大和上東征伝)。同年7月、太皇太后の葬送に際し御装束使。8月、誄を奉る。9月、兼内匠頭。755(天平勝宝7)年8月13日、「内の南の安殿」での肆宴に歌を奉る。この時内匠頭兼播磨守正四位下(20/4452)。756(天平勝宝8)年5月、聖武太上天皇の葬送に際し御装束使。同年11月8日、朝集使として上京した出雲掾安宿奈杼麻呂の家での宴に出席、この時讃岐守とあるが、在京していたと判る(20/4472題詞)。この際、出雲守山背王が奈杼麻呂に託して安宿王に贈った歌が披露されている(20/4473)。同年12月、講梵網経の山階寺使。翌757(天平勝宝9)年7月、橘奈良麻呂の乱に連座して勘問を受け、「黄文王の仲介で謀議に加わったが、事情を知らず欺かれた」旨証言する。やがて捕縛され妻子とともに佐渡へ配流。のち許されて帰京したらしく、773(宝亀4)年、高階真人を賜姓される。万葉収録歌は上記2首のみ。
関連サイト:安宿王の歌(やまとうた)
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