大伴宿禰池主
おおとものすくねいけぬし
- 生没年 未詳。没年はおそらく757(天平宝字1)年。
- 系譜など 未詳。祖父麻呂の庶子とみる説、牛養の子とする説などがある。
- 略伝 天平10(738)年頃、珠玉を求むる使いとして駿河国を通過(寧樂遺文)。この時、春宮坊少属従七位下。
天平14(742)年頃の10月、平城京の橘奈良麻呂宅の宴に出席、歌を詠む(08/1590)。この宴には家持も同席。
天平18(746)年8.7、越中守家持の館で宴、歌を詠む(17/3944〜46・3949)。この時越中掾。同月、大帳使として平城京に赴任。同年11月、越中に戻る(家持「相歡歌」17/3960・61)。
天平19年2.29、病床の家持より「悲歌」2首を贈られる。これに対し、書簡と歌を返す(17/3967・68)。以後、家持との間で頻繁に応答(17/3973〜75)。同年4.26、家持の「布勢水海に遊覧の賦」に追和(17/3993・3994)。同日、池主の館に家持を餞する宴。4.28、家持の「立山の賦」に和す賦(17/4003〜05)。5.2、家持の「入京近き時述懐の歌」に対し報贈和歌(17/4008〜10)。
天平20(748)年3月以前、越前掾に遷任。後任は久米朝臣広縄。
天平21年3.15、家持に「来贈歌」3首を贈る(18/4073〜75)。翌日、家持より報贈歌4首。同年11.12、家持に戯歌を贈る(18/4128〜31)。更に来贈歌(18/4132・4133)。
天平勝宝2(750)年4.3、家持より「霍公鳥の歌」を贈られる。この時も越前判官。4.9、さらに家持より「水烏を池主に贈れる歌」を贈られる。
天平勝宝3(751)年8月、帰京途上の家持、越前国掾池主の館に滞在。
天平勝宝5(753)年8.12、左中弁中臣清麻呂・少納言家持らと高円山に登り、所心を述べる歌(20/4295)。この時左京少進。
天平勝宝6(754)年1.4、家持邸での大伴氏族の集いに参加、歌を詠む(20/4300)。左兵衛督大伴千室・兵部少丞大伴村上も同席。この時も左京少進。
天平勝宝8(756)年3.7、聖武上皇の河内・難波行幸の時、馬国人の家の宴に臨席。兵部少輔家持・散位寮散位馬国人が同席。ここで兵部大丞大原今城の歌を伝読(20/4459)。この時式部少丞。同年11.23、兵部大丞大原今城を自宅に招いて宴(20/4475題詞)。この時も式部少丞。
天平勝宝9(757)年6.29夕、太政官院の庭での反仲麻呂一派の三度目の会合に参加。黄文王・安宿王・橘奈良麻呂・大伴古麻呂・多治比犢養・多治比礼麻呂・多治比鷹主・大伴兄人らと共に7月2日夜の挙兵を誓う(7.4小野東人・安宿王の証言)。7.2、反乱計画が洩れ、池主もまもなく投獄されたか。その後、拷問死または獄中死に至ったかと推測される。
万葉には上記29首(うち長歌4首)。
関連サイト:大伴池主の歌(やまとうた)
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