「季刊カステラ・1998年夏の号」別冊付録

『彼が目覚める時』2

彼が目覚める時 第八回
 古代メソポタミアの人々が、彼という存在にまったく気がつかなかったわけではない。個々の人間の力ではなく、また、山川草木といった自然の力でもない何者かが、しばしば自分たちに大きな影響力を行使するのを直感的に感じ取っていた。例えば、シュメールのことわざにはナム・タル(運命)と呼ばれる悪魔について次のように語っている。
「ナム・タルは着物のようなものだ。草原で人にまといつく」
「ナム・タルは犬のようなものだ。人のあとをつけて歩く」
「私のからだに近づくなかれ。私の目にいたずらするなかれ。私のあとを歩くなかれ。私の家に入るなかれ……」
「ナム・タルは七人である。ナム・タルは女でもない。男でもない。ナム・タルは吹き荒れる暴風である。妻を持たざるものである。子供を産まざるものである。祈りも願いも聞かざるものである。ナム・タルは山より出し馬である」
 シュメール人は、ナム・タルは目に見えないものだと思っていた。しかし彼にははっきりした実体があったのである。シュメール人たちに彼が見えなかったのは、自分自身が彼を構成する一部であることに思い至らなかったためである。

 北アフリカ一帯は紀元前一万年頃までは降雨に恵まれ、ナイル川の両岸はいたる所に沼沢が広がる豊かな土地であった。森林がうっそうと繁茂し、アシやパピルスも人間の背丈以上になって生い茂っていた。森林地帯の背後には広々とした草原が広がっていた。支流にも水は豊に流れ、水鳥や魚介がたくさん生息していた。ライオン、象、野牛、羚羊、鹿、山羊、羊などの野生動物も、水を求めて集まってきた。このような環境で、古代人たちは草原に住み、狩猟採集生活を送っていた。
 大規模な争いを起こすためには人口の集中は必要条件であったが、ここには人口集中のための契機がなかった。あまりに広く豊かであったからである。そのため、この頃のエジプト地域は彼の注意をひかなかった。
 ところがアジア、ヨーロッパの全域を深く閉ざしていた氷河が、北へ後退するにつれて、気候や地形に変動が起こった。徐々にではあったが、気候は温暖になり、空気は乾燥し、かつて草原地帯であったところも、砂漠に変わっていった。砂漠化にともない、人々は草原から河や沼のほとりに移住していった。ナイルの上流から、黒色人種やハム人が、西方からはリビア人や西アジアのセム人も集まり、彼らの間で混血が進んでいった。
 エジプトで農耕と牧畜による生産経済が始まったのは、メソポタミアよりも少し遅れて紀元前五千年頃のことであった。しかし農地としてはエジプトはメソポタミアよりも恵まれていた。ティグリス、ユーフラテス両河の洪水は荒々しかったが、ナイルの氾濫はきわめて定期的に起こり、水の増減も動きがゆるやかで、家や畑を一挙に押し流してしまうという性質のものではなかった。そして、ナイルの水は上流から肥沃な泥土を運んで来た。エジプト人は水が退いたあと、種をまくだけでよかった。
 乾燥がますますひどくなり、河畔の人口が増えてくると、人々は河の水が自然にあふれ、退いていくのにまかせていたのでは、充分な収穫が得られなくなってきた。これを機に彼は住民の技術力を発展させた。収穫を増やすために、初歩的な潅漑法が考案去れ、農具も改良された。これによって作付け面積と収穫は増大し、増えてゆく人口を支えた。
 このようにしてナイルのほとりに文明が芽生えた頃、エジプトの気候風土は乾燥を極め、人々の生活は河や湖沼のほとりに限られてしまっていた。
彼が目覚める時 第九回
 ナイル流域にある程度人口か集中するようになると、彼は住民たち、すなわち彼自身の肉体の「組織化」を開始した。
 住民たちは、浅い丸い窪みを地面に掘って、周りに泥を積み上げて壁とし、草で編んだむしろで屋根をふいただけの、簡素な住居に住んでいた。穀物を作り、家畜を飼うようになってから、人々の生活は日増しに安定し、人口はさらに増えた。いつしかナイルの岸辺には、親族同士が集まって、血縁で結ばれた氏族ができた。人口が増え飽和状態に達すると、ひとつの村落を形作っていた氏族は分裂し、近くに新たな村落を作った。この頃の住民に生物学の知識があれば、これを見て細胞分裂にそっくりだと思ったはずである。
 潅漑農耕がすすみ、土木工事の規模が大きくなってくると、利害を共にする地域の村落は、力をあわせてそれにあたらねばならなかった。ひとたび協力体制ができ上がると、もはや一個人、一村落の勝手な行動は許されなくなった。また、豊かになった土地や収穫物を奪われないようにするためにも、団結と統制が必要になった。そのため、同じ地域にある村々は有力な村を中心とした連合組織を作り、原初的な国が生まれた。血縁の親族だけで作られていた村落が、地縁的に結び付いて国に成長したのである。
 共同体の維持のため、国の中心となる村の長は大きな権力と重大な責務を負った。この時、彼はこの権力者に領土拡大の欲望を吹き込んだ。これはそのまま、裏返しの他国からの侵略への恐怖となった。権力者は他国を侵略するため、また他国からの攻撃や侵略を防ぐため、軍備を整えた。権力者の権限は次第に高められ、ついには王と呼ぶにふさわしい権威を持つにいたった。
 彼はさらに、来たるべき大戦争のために経済基盤の充実をはかる。外に対して封鎖的であったエジプトは、内では上エジプトと下エジプトという対称的な二つの地域に別れていた。
 狭く長い谷間の上エジプトは東西から迫る砂漠の影響で気温は高く湿度は低い。降雨もまったく期待できない。交通は、南北に貫流するナイルだけが頼りである。外部との接触、交流による文化的刺激もあまりなく、住民は専ら農耕を生業としていた。そして営々としてかちえた沃土を守るには、水利、潅漑の事業を通じて、何よりも団結が必要であり、効果があることを学んでいた。
 一方、下エジプトのデルタ地帯は広大な平野で、気候は温暖多湿な地中海性である。海に近いところは雨も降る。この頃のナイルは多数の支流に別れてこの地域を潤しており、運河や掘割が縦横にめぐっていた。見渡す限り草原が広がり、庭園やぶどう園が作られ、羊や山羊が放牧されていた。住民は海外との貿易によって、より先進的な文化を育むことができた。
 このような風土、習俗の違いを利用して、彼は役割の分担を行うことにした。北が文化の指導者であれば、南には政治力をもって団結する機能を担わせた。エジプトの国内が乱れたり、外からの侵略があった場合、統一軍は上エジプトから起こるようにしたのである。
 戦争を起こすこと、それもより大きな戦争を起こすことが彼の目的であり存在理由であったから、エジプトでも、彼は小王国間の安定した関係を弱めて勢力争いをさせる、ということをしばしば行った。紀元前三三〇〇年頃から前三一〇〇年頃にかけて、彼はエジプトに激しい政治変動を起こした。各地の小王国は互いに争いを繰り返し、支配権を奪いあった。この動乱の時期、団結力に勝る上エジプトは、下エジプトに先んじて集結し、統一的な勢力を生み出した。全国統一は、紀元前三一〇〇年頃、鷹神ホールスを信仰する種族を中核とする上エジプト諸州の連合勢力によって成し遂げられ、大王国が建設された。エジプト人は大王となったホールス族の族長を尊称して、ファラオと呼んだ。ファラオとは大きな家という意味である。統一王朝の成立後、地方小王国の王はファラオのもとで名門貴族に変わっていた。
 エジプトの文化は西アジアとの接触によって一段と向上した。メソポタミアは農耕をはじめたのもエジプトより早かったし、文字の発明も五〇〇年ほど早かった。にもかかわらず、統一国家を樹立したのは、エジプトの方が一足早かった。国土が一流の大河によって潤されていたため、一貫した潅漑統制をはなはだしく必要とした、という条件があり、彼も戦争ばかりに明け暮れているわけにいかなかったのである。
 エジプトは周囲を天然の要害で守られていた。西と東には不毛な砂漠、北には地中海があり、南方ナイル上流には険しい岩床が河川の航行をはばんでいた。そのため、民族の流動が激しいメソポタミアに比べると、ナイルの住民は豊かな資源を持った恵まれた国土に安住して、平和を楽しんだ。エジプトの文化、特に驚くほど多様な神話とその神々にもとづく美術工芸は大いに発展した。
 彼はこの平和と豊かさを次なる戦争の契機にしようと目論んだ。ナイル住民には、その物質的文化的豊かさゆえに、自国を誇り、他国を蔑む風潮が生まれた。エジプト人は、自国民のことを「レメチェ(人々)」と呼んだが、この言葉を他国人に対しては決して使わなかった。優越感の現れである。エジプト人は、ヌビア人、リビア人、ベドウィン人など周辺の服属異人種を野蛮人と考え、ひとまとめにして蔑んだ。
彼が目覚める時 第十回
 この頃、エジプト周辺にはほかに強力な統一国家がなく、対等の戦争相手がなかったため、いずれ遠征するだけの財政と技術が獲得されるまで、彼は国力の増強につとめることにした。また、内乱の芽も常に用意しておいた。
 上、下エジプトの統一によってナイルの一貫した潅漑統制が可能になり、生産力はますます増大した。王室、貴族、神官などの有力者は、多人数を動員して大規模な土木事業をおこし、潅漑網を整備し、河水の利用を発達させた。
 収穫の多寡は直ちに国家財政にひびくので、政府は、河岸の各所にナイロメーター(増水計)を設け、毎年推移を記録して徴税の目安を立てた。また、二年に一度国税調査を実施して、耕地や家畜の保有数を調べ、納税台帳を作って財源の確保につとめた。
 国内の不足資源を補うため、シナイの銅鉱山が開発され、南方ヌビアからは、金、象牙、黒檀などが輸入された。また、シリアのゲバルには商業植民地が設けられ、同値の杉材やアジア各地の産物の輸入が促進された。外海用に大型船も建造された。
 王朝成立後、ナイルの航行権は政府のものとなり、対外活動も専ら政府の独占事業となって、国家経済はいちだんと潤った。
 彼はエジプトを強力な中央集権国家にはしなかった。対等な戦争相手がいない以上、内乱の要素を残しておかなければ、戦争の契機がなくなってしまうからである。エジプトは全国四〇余州の行政区画に分かれていた。州はかつての小王国であり、各州の中核をなす貴族たちはその首長であった。州民は王朝以前の昔から首長を中心として強い同胞意識で結ばれていた。しかし、新たに君臨したファラオとは疎遠であった。したがって、新政府が国政を円滑に運営するためには、州民の衆望を担った貴族たちを行政に参与させる必要があった。州の自治性は大幅に認められていた。州はファラオに対して、納税や有事の際の軍事義務を負うぐらいのゆるい従属関係を持つにすぎなかった。
 このような状態だったから、平和の長期化によって彼が欲求不満におちいった時、内乱を起こすのは簡単なことだった。上エジプトのファラオにとってことに難事だったのは、歴史や伝統を異にする下エジプト諸州を併合することだった。そのためにファラオはたびたび討伐を繰り返さなければならなかった。
 それに今ひとつファラオにとってあなどりがたいものに、太陽神宗教の聖地ヘリオポリスの神官勢力があった。ピラミッドや神殿の建造にみられるように、歴代のファラオたちは自らの神性を高めることに熱心で、太陽神宗教とかたく結び付いていた。そのため、太陽神ラーの名前を自分の名前に取り入れるファラオも多かった。ファラオとしては神性を備えるために神官勢力の支持は絶対に必要であった。
 彼は王室の信仰と支持をかちえた太陽神教団の勢力を急激に増大させた。王室の力を弱め、中央集権化をはばむためである。彼の目論みどおり、教団との対立抗争が深刻化するうちに、王朝はその力を衰えさせていった。太陽神ラーの信仰は絶頂に達し、ヘリオポリスの神官は未曾有の繁栄を誇った。ファラオは太陽神の神殿を作り莫大な寄進をした。そのため、ファラオ自身のピラミッドはいちじるしく小さくなった。
 王朝の力が衰えたと見ると、有力な貴族たちは勢力を温存してしだいに諸侯化し、半独立的な態勢を整えていった。中央でも、政局の重要な部署は王族から有力貴族の手に移り世襲される傾向がでてくる。
 神官勢力の増大と貴族たちの離反によって徴税は思うにまかせず、一方、神殿の造営、神への寄進など王室の支出は増加するばかりであった。政府は威信回復と財政立て直しのため砂漠の遊牧民を討伐する遠征を繰り返し行った。また、ファラオは有力な諸州の娘と結婚し同盟を結んで失地挽回をはかったが、急速に深まり行く衰運にはなすすべもなかった。紀元前二二〇〇年頃には、王朝の支配力は地に堕ち、群雄は各地に割拠した。かくして、栄光あるピラミッド時代は終わりを告げた。

彼が目覚める時 第十一回

 強力な統一政権を失った後のエジプトは、世相混迷し、中央を離反した諸侯は、独自に軍隊をたくわえ、城砦化された町にこもって覇を競い合った。紀元前二二〇〇年から前二〇五〇年頃までは騒乱後を断たず、王朝はあっても名のみであった。彼は十分にこの乱世を楽しんだ後、割拠する群雄の中から中部エジプトのヘラクレオポリス侯と上エジプトのテーベ侯という二つの勢力を台頭させ、両者を対立させた。この対立期間は五〇年ほど続き、結局テーベ侯が勝利をおさめた。これを機に、それまで無名の一都市であったテーベはメンフィスに代わって政治、文化、宗教の中心地となっていった。エジプトは再び統一されたが、彼は諸侯の封建体制を崩さずにおくことも忘れなかった。そのため、秩序が回復したのも束の間、再び諸侯の乱立状態が始まった。
 紀元前一九九〇年頃、テーベには新しい王朝がおこった。初代のアメネムハト一世は封建諸侯の対策に腐心した。アメネムハト一世は全国各地を転戦し諸侯と戦ったが、成果は思うように上がらなかった。それどころか信頼できる配下にも恵まれず、自分自身の身辺すら危うかった。彼が戦争を止めたがっていない時は、ほとんどの人間が嫌戦的になっていても戦争をなくすことは非常に困難なのだが、アメネムハト一世にはそれが分からなかった。人間には彼の気分、すなわち歴史の勢い、社会の趨勢のようなものを直感的に理解出来るものがまれに現れるが、アメネムハト一世はその才に恵まれなかったようである。やがて、アメネムハト一世は寝室で刺客に襲われた。一度は難を免れたが、ついには凶刃の餌食となった。
 ついで父王の遺志を継いだセヌセルト一世は武勇の人で、王朝の基礎を固めた。これはセヌセルト一世に、彼の気分を読む能力があったからというより、彼自身が戦乱期から備蓄期に移行したためであった。彼は南方の経営を進め、セヌセルト一世はナイル上流へと進出していった。しかし、北方に対するエジプトの勢力は、せいぜいシナイ半島までで、わずかに銅山の開発が進められる程度だった。この頃エジプトでは、銅器に代わってようやく青銅器が広く使用され始める。アジアに比べて非常に遅いのだが、これはエジプトの技術が劣っていたというわけではなく、エジプトの国土が金属資源に恵まれない代わりに石材が豊富だったためである。
 この後約一世紀半の間、彼は備蓄につとめる。ファラオたちは内治と外交に力を注いだ。特にモエリス湖を擁するファイユム低地の干拓は、一大農産地帯を作り出した。ここに大堤防を築き、用水路を掘り、湖を深くして広大な沃野を出現させたのである。ファラオは進んでこの地方に住み、開拓につとめた。地中海東部や紅海沿岸など遠方まで盛んに交易隊が派遣され、また南方ヌビアの開発も進んだ。
 セヌセルト三世は、支配領域南端近くのナイル両岸には砦を築いて交通を遮断し、現地のヌビア人を雇って砂漠の警備にあてた。南方民族の北進が活発化してきたので、それに備えるためである。ここには、力を分散させてまたしてもエジプトを分裂させようという彼の意図が見られるが、今度の彼の目的は内乱そのものではなく、アジアからの異民族の侵略であった。
 この頃までのエジプト人は、デルタと渓谷の世界に安住して、比較的独立した文化をはぐくんでいた。だからこそ彼はエジプトの内乱と再統一を繰り返したのだった。しかし、アジアでの人口の増加、交通輸送技術の発達、食料の保存技術の発達が進んで、アジアからの侵略が可能となったと判断した彼は、アジアからの侵略きっかけを作ろうとしたのである。またこれには、さらに人口が増え技術が進んだ暁には必ずやおこるであろう、アジア、ヨーロッパの大国とアフリカの大国間の大戦争の演習の意味もあった。
 紀元前一八〇〇年頃、エジプト国内はまたもや分裂し、騒乱の時代を迎える。紀元前二〇〇〇年頃から始まったアジアの民族の大移動の余波を受けて、エジプトもアジアからの侵入を受けた。馬、戦車、強弓を持ったアジアの混成民族ヒクソスが、エジプトの混乱に乗じてデルタの東北から侵入し、アヴァリス市にこもって一世紀半ほどの間、主として下エジプトを占領した。エジプト人はここに初めて異民族の支配を経験するのである。
彼が目覚める時 第十二回
 アジアからエジプトへの侵略に成功した彼は、今度はエジプトからアジアへの遠征を試みることにした。手始めに上エジプトに力を込めた。
 下エジプトを占拠したヒクソス族に対して、反撃ののろしは上エジプトのテーベから上がった。不穏な動きを感じたヒクソスの王アペピは、難詰の手紙を書き送っている。いわく「テーベのカバが騒がしくて、アヴァリスの王宮ではぐっすり眠れない」と。テーベとアヴァリスはおよそ六〇〇キロメートルも離れているのだから、こんなことはあり得ない。明らかに反乱に対する牽制である。
 これに対して、テーベ侯セケネンラーは「貢ぎ物はおさめているし、戦の用意はしていない。決して他意はありません」と恭順の意を表したが、実際には激しく、繰り返し抵抗し、最後にはヒクソスの大軍と戦い、壮烈な戦死をとげた。父の跡を継いだカメスは、ヒクソスに対して甚大な打撃を与えた。しかしカメスも決定的な勝利を見ずに世を去った。
 こうして戦いを繰り返すうち、ヒクソスに対する反乱軍は士気を高くし、また戦闘の勘を身につけていった。それにともない反乱軍に呼応するものも次々と現れた。それはまるで訓練によって人間の身体に筋肉がついていくのにも似ていた。こうして身に付けた力を解放し思う存分ふるう爽快感こそが彼の喜びであった。そして、いよいよその時がやってきた。
 紀元前一五七〇年頃、テーベ侯アメフスはついにヒクソスの根拠地アヴァリス市を陥れ、エジプト第一八王朝の始祖となった。アメフス王は敗走するヒクソス族を追ってパレスチナまで進出している。アメフス王の破竹の進撃に国内の反テーベ分子も刈り取られた。
 ファラオの元には強力な常備軍が編成された。兵士たちは短剣、棍棒、槍、弓矢、盾などで武装し、ヒクソスにならって馬と戦車も取り入れたので、機動力は素晴らしく増大した。
 三代目のトトメス一世はさらに版図を拡大した。南方ではナイルをさらにさかのぼり、アジアでは北シリアからユーフラテス河畔にまで軍隊を進めた。エジプト人はこの大河が南に流れるのを見て驚いた。ナイルのほとりに住んでいたエジプト人たちは、川は北に流れるものだと思い込んでいたからである。生還したエジプト兵たちは、ユーフラテス河を「逆さ河」といって話の種にした。
 この頃には戦乱期と備蓄期を繰り返しながら徐々に戦闘の規模を大きくしていくという、彼の新陳代謝のサイクルが完成していた。彼はここで短い備蓄期を挟むことにする。
 トトメス一世の次に病弱のトトメス二世と女王ハトシェプストが立ち、政治方針は一時内政に振り向けられる。ハトシェプストは重臣とはかって、専ら平和外交や神殿の造営修築に力を注いだ。しかしエジプトは、次のトトメス三世の代にまたもや積極政策に転じ、アジアに雄飛した。トトメス三世は彼の気持ちを直感的に見て取り、彼の声を聞く、希に見る才能を持っていた。
 治世の第二二年、トトメス三世は西アジア方面に第一回の遠征を敢行した。この頃の西アジアは、ハンムラビ王の古バビロニア王朝が滅んでから、アッシリアが大帝国を築く間の混乱期にあった。しかし彼は戦闘の規模をより大きくするため、一時的にこの地域の軍事力をまとめあげた。この方面の都市国家群は同盟を結んでエジプトに対抗し、その連合軍はカデシュの君主に率いられてメギッドの堅塁にこもった。
 エジプト軍がメギッドの町に達するには三つの道があった。ひとつは最短距離だが、狭い峠道であるため、敵襲を受ければひとたまりもない。ほかの二つは回り道になっている。さっそく戦術会議が開かれた。将軍たちは安全な回り道を取るように進言した。しかしトトメス三世は速度をもって自らの力を解放したがっている彼の思いを無意識に感じ取っていた。トトメス三世は敵の意表をつくのが作戦の真髄であるとして、最も危険な道を選んだ。トトメス三世にしたがうかしたがわないかは、部下の意志にまかせるという果断の処置もとった。トトメス三世は先頭に立って進撃した。完全に裏をかかれたのか、敵の姿はほとんどなく、無事に場外に到達し、戦闘隊形を整える事ができた。
 一夜明けて、総攻撃の命令を下したトトメス三世が、自ら黄金づくりの戦車に乗り、まっさきに敵の主力に突入していった時、いつも正しい示唆を与えてくれる「戦の神」が耳元で歓声をあげるのをトトメス三世は聞いた。アジアの同盟軍はその勢いにおそれをなして敗走し、莫大な戦利品が押収された。
 それ以来この勇猛果敢なファラオは、二〇年間に一七回も遠征を繰り返した。シリア、パレスチナは言うに及ばず、長駆ユーフラテス河上流のミタンニ国まで席巻し、またヌビアにも軍を進めて、オリエント最強の国家を造り上げた。トトメス三世は二〇世紀の学者たちから「古代エジプトのナポレオン」の異名を与えられている。
 跡を継いだアメンヘテプ二世も、剛勇の名をはせた。父のように彼の声を聞く才には恵まれなかったが、一八歳の時すでにアメンヘテプ二世の強弓を引くものはなく、馬を御してもかなうものはいなかった。アメンヘテプ二世も先王にならって各地に外征し、国威をあげた。首都テーベには各国から人が集まり、物資が豊かに運び込まれ、名実ともにオリエントの中心都市として栄えた。
 たびかさなる外征によってエジプトに十分たくわえができたが、まさにそのことによって戦争への動機は希薄になった。アジアからアフリカ、アフリカからアジアへの遠征が十分可能な技術が整ったことは確認できた。彼はこれ以上の版図拡大を諦め、西アジアにエジプトに対抗しうる大帝国が登場するのを待つことにした。
          『彼が目覚める時』2 了
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