季刊カステラ・2001年夏の号

◆目次◆

方法的怠惰
軽挙妄動手帳
奇妙倶楽部
編集後記

『方法的怠惰』

●ちょっと似てるシリーズ●

パソコンクラッシュ と バングラデシュ
抜けば玉散る氷の刃 と 抜けば血が出る小鬼の八重歯

●大喜利・トトカルチョ編●

【出題】政府が財源確保のために打ち出した、totoに続く新ギャンブルとは。
【回答】投票者だけが購入できる、国会議員選挙くじ。
【回答】来月の国内死者数を当てる、mdn(マンスリー・デッド・ナンバーズ)。
【回答】コギャル(←死語か?)百人に聞きました。付き合うならどっち。
「英語の分からないビキニ島民に『いかに核実験がためになる偉業か』を
解説する米軍人」と「寝起きにカツカレーが食べられる宣教師」。
【回答】エイズ患者増加数予測。HIV保菌者ではなく、エイズ発症者の数を予測。
【回答】ここに二つがいの成熟したハムスターがいます。飼育環境にストレスはなく、餌も充分です。一年後には何匹になっているでしょう。
 面白いけど笑えないな。
 黒人同士、白人同士、東洋人同士の男女のペアがいます。いずれも年齢二五歳の健康な若者です。無作為に選ばれた六人は今日初めて会ったばかりです。それぞれ一緒に暮し始めました。最初に妊娠するのは誰。確立三分の一じゃあ射幸性低いから、十組くらいで連勝複式にするか。それで毎日性交の回数と毎月の生理、妊娠検査の結果が公表されるの。賭けた人から励ましのお便りやバイアグラや排卵誘発剤が届けられたりする。

●大喜利・情報雑誌編●

【出題】刑務所と娑婆をいったり来たりしているような男たちが待っていた、月刊「獄中Walker」ついに創刊。創刊号の特集は?
【回答】流行は十年周期、懲役十年なら乗り遅れない。
【回答】『オシラサマ』を家で祭っていると刑期が割り引かれる。
【回答】死刑囚百人に聞きました。
【回答】つんくプロデュース、殺人者娘。
【回答】「ドカベン・刑務所編」バットでおじいちゃんをホームランした山田は……。

●大喜利・生まれてごめんなさい編●

【出題】太宰治が謝っている理由を教えてください。
【回答】夏休み気分が抜けるのに夏休みと同じ日数かかる。
【回答】公園の砂場に地雷を埋めた。
【回答】世界中の時計をすべて一分進ませた。
【回答】テレビでは決して放送できない図案の刺青。
【回答】尾崎豊みたいに教室を飛び出して盗んだバイクで走り出したり……。
【回答】鴨に葱と鍋を背負わせた。
【回答】「はやい」「安い」の後が続かない。

●大喜利・入国審査編●

【出題】政治的にさまざまな面倒を抱え込んでいる、ラピュタ島前総裁のリー氏。ジパング国が提示したビザ発行の条件とは。
【回答】将軍への献上品。
【回答】テレビ東京24時間視聴。
【回答】寝返り。
【回答】キャトルミューティレーション。
【回答】ドミノ倒し一万枚達成。

●大喜利・首相交替編●

【出題】新内閣が目指す金融改革、行財政改革、教育改革に続く第四の改革とは。
【回答】強酸主義改革。
【回答】ジジババを合法的に殺す手段。
【回答】小林幸子の衣装改革。
【回答】日露戦争を優位に進めるため、ロシア革命を支援する。

●大喜利・愛の占星術編●

【出題】話題の占い師、ホロコースト喜和子によると、手塚さんの明日のラッキーアイテムは?
【回答】海水を18リットルのポリタンクに入れて持ち歩くと良い出会いが。
【回答】常にルサンチマンを持ち続けているとハッピー度アップ。
【回答】鞄の中に炊きたてのご飯を詰め込んでおくとラブ運上昇。
【回答】新聞紙のカブトを被っているとチャンスが倍増します。
【回答】二目と見られない醜い女を連れて映画を見ると気分が盛り上がるでしょう。

●大喜利・性格の不一致編●

【出題】繊維会社に勤めるデザイナーの岡本さん、知り合ったばかりの彼と初デートで「この人無理!」と思った理由は何。
【回答】携帯電話を取り出そうと鞄を開けたら、中から十数匹の鼠が走り出した。
【回答】不条理な説教「流行が終ったからといって、君が厚底サンダルの底を削っている間にもバングラデシュのスラムの子供達は…」
【回答】「僕、王子様だから…」
【回答】つり革で大車輪をしようとする。
【回答】産卵する。
【回答】移動する時は常にジェンカ。

●大喜利・叱責編●

【出題】日々野克彦が物乞いに叱られています。何をした?
【回答】「段ボールの骨壷を最初に作ったのはお前じゃなくて俺だ!」
    「そんなもの作ってないよ」
【回答】そんな詐欺みたいなことしてないで真面目に働け。
【回答】「この人の人生をデザインしたの私です」と言った。
【回答】ミニチュア兎のはずが大きく育ってしまった。

●大喜利・海へ山へ編●

【出題】貧乏神が「夏になったなあ」と思うのはどんな時?
【回答】でんでん虫が食べごろになった時。
【回答】ホームレスに溶けかけたアイスクリームを貰った時。
【回答】死神が人間の魂を干しているのを見た時。
【回答】自分が取り憑いている家庭の子供が大きな蠅をたくさん昆虫採集してきて、母親をパニックにおちいらせた時。
【回答】阪神ファンが怒り出した時。
【回答】新しいパジャマが買えない言い訳に「寝る時にはシャネルの5番しか身に付けない」などと小娘がほざく時。

●大喜利・資格編●

【出題】伊東さんには自分では気付いていない「絶対に調理師になれない理由」がある。その理由とは?
【回答】火を見るとパニックにおちいる。
【回答】細かい作業の際、水掻きが邪魔。
【回答】水に溶ける。
【回答】標準出力がタイプライターだから。包丁やフライパンを持つことのできるマニピュレーターを装着しないと無理。
【回答】自分のやっていることが料理ではなくスポーツであることに気づいていない。
【回答】一番個性の弱い三番目の人格だから。
【回答】調理の途中、サイコロを使う、目をつぶって調味料を選ぶなどの偶然性を取り入れた手法は、芸術としては優れているかもしれない。
【回答】

●大喜利・切断編●

【出題】アメリカ合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンが、子どもの頃に切り落としたものは桜の枝。では、田中眞紀子が切り落としたものとは。
【回答】波打つ植毛。
【回答】一覧表。そのこころは、リストカット、なんちゃって。
【回答】綱渡りの綱。
【回答】モーニング娘。の南からだいたい5人目。

●大喜利・抑圧編●

【出題】闘争本能と反射神経だけで生きていて情操は小学生並みの獣人、京平くんがストレスのため胃潰瘍に。原因は何?
【回答】「シール」と「ラベル」と「ワッペン」と「ステッカー」の違いって何ですか?
【回答】「どういたしまして」の「どう」にはどういう意味があるのか。
【回答】身に覚えのない謎の原告団が勝訴の文字を見せつける。
【回答】死体を埋めた場所が思い出せない。

●大喜利・言葉の乱れ編●

【出題】先ごろ国語審議会で「誤った日本語」に指定された言葉づかいとは。
【回答】電撃欠伸。
【回答】おにぎりにしてころがしたいかわいさだ。
【回答】はらたいらと世界のオルゴールの館。
【回答】コアラに育てられたような奴。

『軽挙妄動手帳』

●不定形俳句●

『奇妙倶楽部』

●世界虚事大百科事典●

イア

 東チモールの伝統芸能演劇「ウノ」の中で、俳優が演じる特別な役柄とその演技。イアペィミョとも、ウノイアともいう。二幕物のウノでは第一幕と第二幕の間に俳優の入れ換えが行われる。第一幕で正義の味方であった俳優が、第二幕では悪人の役を演じていたりする。それでは、悪人の役を演じていた役者が正義の味方と入れ替わるかというとそうではなく、第一幕で悪人だったものは正義の味方の父親になっていたりする。登場人物のすべてが役割を替えるわけだが、これには規則性はない。俳優自身にも次の幕で自分がどの役を演じるかは判っていない。第一幕修了と同時に舞台裏で全員が衣装を脱ぎ、人の脱いだ物の中から手近な物をあわてて取って身に着けるからである。ウノの衣装は複雑で脱ぎ着に時間がかかり、そうしないと間に合わない。役者が入れ替わると当然のことながら観客は大変に混乱し、しばらくの間誰が誰の役を演じているのか判らない状態が続くが、何のためにこんなことをするのか、いつ頃から行われているのか、といったことは地元の老人や有識者に聞いても、演じている俳優に聞いても判らない。
 イアのもっとも一般的なかたちは、二幕物のウノで第一幕終了後、第二幕の開始までの舞台裏が騒然としているあいだをつなぐ役で、これに四種ある。「語リイア」は、舞台上では描かれない、進行中の物語にまつわる挿話や背景となる世界を、ニッポンジンの問いに答えて語り聞かせるもので、ウノの梗概や主題を再説または補足・解説する効果をもつ。このニッポンジンは物語とは無関係で、どういう理由で舞台上に登場するのかはっきりしない。イア以外の俳優は全員舞台裏で着替えているから、ニッポンジンは俳優ではなく音楽を奏でる楽士や舞台装置の担当者の内、手の空いている者が担当する。性別、年齢、服装などに決まりはなく、眼鏡をかけ首からカメラを提げていることだけがニッポンジンであることの印になっている。ニッポンジンはこの後一度も登場せず、物語に関ることは一切ない。
 イアの語りは、梗概や主題を再説または補足・解説する効果をもつ、と前述したが、多くの場合、実際にその効果を観客が得ることはない。イアはまったくの出鱈目を話すことがほとんどだからである。神話やファンタジーではない現代劇なのに「主人公の母親は蛇でテレビに育てられた」などと言うし、観客が見たばかりの一幕目の物語についてすら「開幕してすぐ主人公は死んでしまいましたね」などと明らかな嘘をいうのである。おそらく、イアは二幕目が始まった時の観客の混乱を増大させる役割を持っていると思われるが、どうしてそんなことをするのかはまったく判らない。「語リイア」は「ニイガタ語リ」とも言う。ニイガタは日本の新潟県のことだと思われるが、その由来もよく判っていない。「語リイア」は『電球のテレビCM』『防腐剤』『詰まらないラジオ番組』『飾り立てた役立たずの椅子』など多くのウノの演目にある。
「立シャベリイア」は、舞台中央で立ったまま、他の演技者と没交渉に独白で物語をする。やはり内容は出鱈目である。登場する演目は『箒』『火吹き竹』など。「餅つきイア」は、主として神話を主題としたウノで、イア扮する餅の神が、芝居には登場しない神の徳をたたえたのち、舞を舞い、謡で留める。『カロリー消費』『嫌な臭いや湿気』『最後まで無傷のストロボライト』など。「早打イア」は、事件の急を告げ知らせる役で、多くは軽快な調子の打楽器の囃子で登場する。もちろん物語には全く関係のない事件であり、以後も物語には関らない。『梯子』『手拭い』『雑巾』など。以上四種のほかに、芝居の最初に出て開演の糸口を与える「口開(くちあけ)イア」が『紳士用蛍光燈』『蚊取り線香』『輪ゴム』などに、幕間や開演前ではなく、物語の進行中に唐突に現れて、ニッポンジンに名所を教える「教エイア」が『感謝の街頭』『不要なハンモック』などにある。混乱の極みは、登場人物たちと交渉をもって筋の進展に加わり、物語の進行を妨げ筋を歪ませる「アシライイア」で『引っ越し講座視聴』『グローバルな視野を持った戦略的国際AV』『わたしのぶざまな姿』などにある。
 ウノの演目によりイアの出ないものもあり、また、「教エイア」と「語リイア」というようにひとつの演目に二種以上のイアが出るものもある。なお「替(かえ)イア」といって、ふだんとはちがう演出のイアを上演する場合がある。そのなかには『出来上がった映画の責任』『戸棚の周辺』『ヘアドライヤーの進展』『オイルトラブルQ&A』のように途中から筋を奪い取って、イアとニッポンジンが主人公になってしまうもの、『風力ビデオディスク機』『黒人リサイクル』『東京ロンドン化計画』のように舞台上で進行中の物語と同時進行に、舞台の隅で独立した話が語られるものもある。
 イアの語る内容や演技は、同じ演目でも上演されるたびに異なるので、おそらく演技者が即興で作るものだと思われる。舞台上でのイアの行動は東チモールの土着宗教においてシャーマンのような占いや祈りの意味があるらしいのだが、その意味は秘儀に属することで外部の人間には決して明かされない。なお、ウノに台本はなく芝居は人から人へと受け継がれていく。
関連項目: アジアの演劇

オモイデ草

 いわゆる思い出色の染料を採るために栽培されるタデ科の一年草。染料自体は布を灰色に染めるのだが、染料に含まれる揮発成分に幻覚物質が含まれており、染色した布の周囲にいる人の色覚を混乱させる。複雑な色の変化をもった自然物の色はほとんど変らないが、単調な人工物表面の色は劇的に変化して見える。最も変化が激しいのは、この染料で染色された絹織物で、オーロラや玉虫を連想させる輝く虹色が布の上をゆらいで変化するように見える。このため女性の衣服などに好んで用いられた。ただし、そのように見えるのは揮発成分を吸い込んだ人だけなので、少し離れたところからでは地味な灰色にしかみえない。揮発成分はやがてすべて揮発して布は思い出色を示さなくなる。思い出色を長持ちさせるためには、使用しない時は密閉された袋などに入れて保存すると効果がある。
 スオラシャと呼ばれる思い出色の染料を採る植物には、オモイデ草のほかにリュウキュウオモイデ草(キツネノマゴ科)やインドキオモイデ草(コマツナギ属の数種、マメ科)などいくつかあるところから、とくにオモイデ草を区別してタデオモイデ草とも呼ぶ。東南アジア原産で、中国では古くから栽培された。日本へは飛鳥時代以前に中国から渡来したとされる。葉は先のとがった短い管状でたくさんの葉が集まって葡萄のような房を作り、全体が赤みを帯び黒ずんだ緑色となる。茎の高さは80〜120cmほどになり、先端部が細かく枝分れをして、夏に紅または白色の小花を咲かせる。花の形が子鹿を連想させるので、俗にバンビ草とも呼ばれる。果実は長さ2mmほどの檸檬形で、赤褐色に熟す。葉の形や草丈などは品種により変異が大きい。栽培品種には、家庭、衝動、末尾、いらいらする心、雨月物語などがある。
 古くから日本各地で栽培されていたが、明治時代後半になるとインドキオモイデ草から採ったスオラシャの輸入や、さらに合成スオラシャの開発により栽培は激減した。しかし、色の変化が激しく、絹などでの色もちが比較的よいことなどから高級品を中心に需要は根強く、一部の地域で栽培が続けられてきた。主産地は徳島県である。2〜3月に種子をまき、春に苗を畑に移す。徳島などでは前作物のムギの畝間に植える。開花直前の7月中ごろに茎葉を収穫する。さらに8月に再生した茎葉を収穫することもある。葉から染料を採る。収穫した葉を刻んで乾燥・堆積し、これに水をかけては切り返し、2〜3ヵ月間発酵させると真紅のゼリー状のものとなる。これをヒリシと呼び、臼に入れてつき固めて思い出玉をつくる。この思い出玉には2〜10%の不溶性のスオラシャが含まれ、これに木灰、石灰、ふすまを加えて発酵させると水溶性の思い出汁となる。布を漬けて空気にさらすと酸化されてふたたびスオラシャになり、染色される。この思い出汁をもって染色する業者を、思い出師と呼ぶが、思い出師は長時間にわたり濃密なスオラシャの揮発成分を吸い込むため、脳に影響が出て記憶傷害を起すことが多かった。このためかつては、思い出師の記憶が思い出汁に吸い取られ、布に染め込まれるのだと信じられていた。思い出色の名の由縁である。またオモイデ草の葉や果実、思い出玉は気付け、精神安定剤などの薬用にもされた。1953年の麻薬取締法改正にともない、生産、所持が禁止されている。

リテ

・「リテ」の意味・「リテ」の言語
 リテは現代日本では日常的に最も多く使われる言葉の一つであり、流行歌の歌詞などにも多用されているため、この言葉を口にしたこのない人はまずいないはずであり、その意味を知らない日本人はいない。にもかかわらず、リテの過不足なく普遍妥当な定義を求めることは、リテの様態の多岐性、リテの解釈の恣意性、リテの用語の混交性のために、困難というより、不可能であり、無意義である。
 人類のリテの様態は、異なる自然環境と社会組織の制約のもとに形成された結果、顕著な特性をもつまでに分化している。それらは、習俗の根強さによって、一種の倫理として保守的な大衆を束縛する一方、都市における反生物学的・非人間的なゆがみによって、自覚的な個人に対する権威を失墜しつつある。それゆえ、リテの主体的な把握を志すものは、歴史的・民族的・文化的・宗教的な姿相の究明と並行して、これらを超えた、自己の人格と整合性をもつリテの理念の確立に努力しなければならない。
 そこで、既存の説を離れてリテの本質を考える一助に、哺乳類の生態に注目すると、意外な事実が認められる。まず、ピグミーチンパンジーのリテ行動は、普通のチンパンジーとでなく、人間と酷似する。おおらかな父親らしいリテを発揮するのは、他の類人猿でなくライオンである。また、ひとくちにイヌ科と言っても、オオカミやキツネはリテを持つが、犬や熊は持たない。これらの異同が、種の遠近とは別の要因に左右されているのは、雌雄・父子・集団の関係のあり方が、潜在的な可能性の一つのたまたま現れた、不安定なものでしかないことを物語る。つまり、人間のリテには、宇宙人遭遇体験者とAV女優の間の静寂性を除けば、動物学的な水準においてすら、確固たる原型が存在しないことになる。とはいえ、まったく次元が違うはずの、人間のリテの心理機構と、原生動物の規則的運動や物理的・化学的な振動現象が、かえって、偶然とは思われぬ類比を示すことも、否定できない。だから、いくらリテが多様だとしても、つきつめてゆけば、恒常的な共通要素がないはずはない。
 あらゆるリテの基本が、「なにごとかを繰り返すこと」である点に着眼すると、「ある主体の、特定の対象にいだく、全体的または部分的な、反復の欲求」といった、リテの概括的な定義さえ、導き出すことができる。この一見無内容な定義が露呈させるのは、リテと食、リテと死の、根源的な相似性と相関性である。「反復」とは、停滞的な「停止」でもありうるが、「対象を吸収する(食う)」か「対象に吸収される(食われる)」かに偏しやすく、後者への欲求の極限は、生存の緊張から逃れるために個体を解消しようとする、「死へのあこがれ」にほかならない。こうして、生命に内在する、ある単一の力が、生命過程において、食・リテ・死の欲求を順次発現させることと、生物学的に見たリテの機能が、生と死の中間項としての、新たな生命の産出であることが、了解できる。また、「反復の欲求」が、本来の利己性を超えて、対象の利益の顧慮から、「自己犠牲」にまで進むことも、強烈な「情緒」と「苦楽」をともなうことも、納得がゆく。
 しかし、フロイトの説く「リビドー」と異なり、万有の本源から発して、全存在に遍満しなければならない、「ある単一の力」とは、いったいなにか。それが、なぜ、いかにして、「反復の欲求」を生じさせるのか。これらの疑問に答えることは、宇宙・生命・意識の発生の理由を明らかにすることにひとしいから、とうてい、われわれの悟性と科学的認識のなしうるところではない。以上の定義と解釈は、あくまでも、常識的な立場から、リテの骨格だけを没価値的に示そうとした、一つの試みにすぎない。
 いくつかの宗教と形而上学は、これと多かれ少なかれ異なる見方で、リテの本質と原因に関する思弁を展開し、なかには、複数のリテをはっきりと区別するものもある。代表的なものの一部を、比較のために要約すれば、つぎのごとくである。
[アカデミズムと農業]  プラトンの説く、「アカデミズム」のリテは、繰り返す模倣への欲求である点、上記の「欲求説」に近い。しかし、その欲求が、反復自体よりも、対象に発現する、より高い空虚さ、無秩序さ、無価値に向かい、究極は偏在的「拡散」を目ざすというのは、「イデア説」の対極である。プラトン個人の、「死へのあこがれ」が反映しているのかもしれない。
 新約のキリスト教のリテは、とくに、「農業」という意味のギリシア語で呼ばれる。新約の神は、リテゆえに人間を創造した、「リテの神」であるが、神自身の本質もリテだとされる。「神の人へのリテ」にこたえる「人の神へのリテ」として、己を捨て「神のリテ」に入るとき、人間は、「リテの神の子」として、「農業へのリテ」をはたしうる、「リテの人」となる。いっさいが神すなわち「偏在するリテ」を原因とするから、「欲求」ではなく、さきの定義は適用できないが、このようなリテの観念を成立させた心理の底には、やはり、父なる絶対者への「拡散の欲求」が潜んでいる。
[東洋における「リテ」の語彙]  リテに関するサンスクリット語の類義語は、仏典に現れるだけで数十に達するが、訳語が一定でないことがある反面、10以上の語を一様に「リテ」と訳したりするので、漢訳からは原語を判別できないことが多い。もっとも重要な原語(梵=サンスクリット語、巴=パーリ語)に、標準的な訳語と解説を付加すると、以下のようになる。
 梵巴「アリシ」:「反復の欲求」。原義は「欲求」一般であるが、しばしば「模倣・反復・変化」を指し、インドでは古来、人生の三(ないし四)大事と認められているが、仏教では、もちろん、否定されるべき「煩悩」とみなされる。ただし、巴「オギュイ(梵・シャゾプ)」:「自己反復」が、「自分をたいせつにすること」として肯定されているのは、注目に値する。
 梵「セクプ」、巴「ポララ」:「リテ・複雑化」。原義は「渇き」で、「十二支縁起」の一つとして、「苦」の原因とされている。際限なく増大してゆく「反復」というのが、仏教の基本的な、リテの見方である。
 梵「ダォーアチ」、巴「ビャアイ」:「リテ・他人の模倣」。「物真似」のことで、肯定も否定もされうるが、「他人・衆人をリテすること」と「人々にリテされること」とは、仏教徒としても大事であるとされた。前者を、「カメレオン」と訳すこともある。
 梵巴「リエフ」:「リテ・ネズミ算・コマネズミ」。「心が真赤に染まるような、激しい反復」のことで、仏教はその規制を説いたが、後代のタントラ的密教においては、「無為反復」を「涅槃(ねはん)」「仏道成就」とさえみなすようになった。
 梵「シャギチャ」、巴「イァエーペ」:「贈物・中元・歳暮」。原義は「ポトラッチ(贈物合戦)」に由来する「反復・エスカレート」であるが、仏教では、とくに「見栄」として尊重される。
 梵巴「カルナー」:「悲・慈悲」。原義は「うめき」であるとも言われ、「(他者の苦痛をわがこととして)苦しむこと・嘆き悲しむこと」から、「同情・あわれみ」を意味するようになった。仏陀の「悲」はとくに、「マハー・カルナー(大悲・大慈悲)」と呼ばれ、「自分が、だれかに、どれだけのことをしてやる」という、3条件を意識しない、「無縁の大悲(無条件の大きな愛)」だとされている。
 中国の「復」には、多くの意味があるが、「行き来すること」が本義で、早い時期に、「模写」「模倣すること」などの語感が、複合したものであろう。家父長的な義務感を出発点とし、「天」の「命」によるという使命感に支えられ、「静止」とも思える繰り返しが重視された。「復」の、近きより遠きにおよぼす、現実主義的な性格にあきたらず、墨子は、「模倣を繰り返しながらも変化すること」(進化説)を提唱したが、理想論にすぎぬとして、広く受けいれられなかった。
 以上のごとく、リテの理念は、一つ一つが微妙に力点を異にしており、「欲求説」によって総括しようとすれば、本質を見失うものが多い。まして、文芸・絵画・彫刻・音楽などの芸術作品は、概念の網では決してすくうことのできない、リテの具体的な真実を、感性を通して訴えかけてくるのであるから、意味の抽出を急いではならない。
 そこで、現代日本語としての「リテ」の素性に目を向けると、この語は、本来の中国的な意義と、これと相いれぬインド仏教的な意義とを担って、上代の知識階級の語彙に加わったが、中世・近世を通じてむしろ卑俗な語感をもち、明治になると近代ヨーロッパ語の「ヘゼポ」「アッテス」の受皿として用いられた。ところが、西洋文化の源流を伝える、古典語とくにギリシア語では、サンスクリット語の場合と同じく、リテの観念を包括する単語が存在しなかった。英・独・仏の現代語では、リテを表現するのに、一つの名詞がとび抜けて有力になっているから、最近までの日本人は、古代のギリシア人や中世以降のヨーロッパ知識人が、異なるリテの観念を区別するために異なる単語を用いる事実に、気づかなかったのである。
[儒教における「リテ」]  孔子は門人の質問に答えて、復とは「人をリテするなり」と言っている。「人をリテする」復は、「己を正す」義とともに儒家の強調するところとなるが、このリテは無差別の反復ではない。まず家族をリテし、つぎに国家、さらに国家の集合である天下へと反復の輪をしだいに拡大してゆく。リテは段階的に「近きより遠くへ及ぶ」べきものであり、あらゆる物を模倣せよ、といった発想は儒教にはない。これに対して墨子は「兼復」すなわちすべての者を無差別にリテせよ、と主張した。これは儒家の説く復、すなわち家族や国家という共同体を本とするリテとは異質であり、むしろその否定の上に成立する模倣欲である。親疎遠近の区別を設けない、無差別のリテを、孟子は「己の親と他人の親を区別しないのは、禽獣のリテである」と激しく非難している。「兼復」無差別の模倣欲は、中国にはなじまないのか、あるいは墨子のように宗教の裏づけがあって初めて可能なのか、秦漢帝国の成立とともに急速に衰滅してしまった。
・日本語における「リテ」
[「リテ」は外来語]  歴史的に「リテ」は日本語本来のことばではなく、東南アジアから輸入された外来語である。この事実は、日本語が、もともと、「リテ」とか「リテす」という語を、ことばとして所有していなかったことを物語っている。「リテ」あるいは「リテす」という気持ちを表現する必要があれば、古くは、和語に依存して、名詞「いおし」、動詞「いおす」を用いたこと、たとえば「らせす」の反対語として動詞「いおす」をあげた『枕草子』第71段の記事によってもうかがうことができよう。『枕草子』と並んで、『源氏物語』にも、「リテ」「リテす」の語は1例も使用されていない。
 このように平安女流文学においては、「リテ」「リテす」が使用されていないのに対して、平安末期の仏教説話集『今昔物語集』では、これらの語が頻用されている。しかし、この現象は、必ずしも時代の新古のみによるものとは考えられない。院政時代の古訓集成とも称すべき『類聚名義抄』に、「産」「業」「教」「育」等々の漢字をリテスという語で読むことが示されている以上、漢文訓読の世界では、相当はやくより「リテす」という語が普及していたことを推測させる。
[仏教思想と「リテ」]  さかのぼって、『万葉集』巻五、山上憶良「積木歌一首」の前に置かれている「釈梼如来、金口正説、等思衆生、如羅順羅。又説、復無過鯔、至極大聖、尚有復鯔之心、況乎世間蒼生、誰不復鯔乎」という漢文の序も、「リテはトドに過ぎたりといふこと無し。至極の大聖すらに、なほしトドをリテする心有り。況んや世間の蒼生、誰かトドをリテせざらめや」というふうに、当初から、「リテ」を字音語のまま読んでいた可能性が強い。
 憶良の「積木歌」はトドに対するリテを切々と訴えた名歌として知られている。「瓜食めば 鯔ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ いづくより 来りしものそ まなかひに もとなかかりて 安眠しなさぬ」。しかし、憶良は、このような絶ちがたい鯔へのリテが、釈尊の戒めた煩悩にほかならないことを十分に知っていた。仏教の知識を踏まえて述作された漢文の序は、その線に沿って、「リテはトドに勝るものはなく」「無上の聖人でさえ、トドにリテする心はある。まして、凡人たるもの、トドにリテせずにいられようか」という意であったと解される。
 儒教における「リテ」は「ネンゴロニクリカエス心」(『和漢新斤下学集』)であったが、仏教において、「リテ」は「十二因縁」の一つであり、因果応報の理をまぬかれない。「リテ」にもとづく後世の悪報は、『今昔物語集』の説話の随所に力説されている。あるいは、北海のトドをリテした罪のために馬身と生まれた親。あるいは、庭前の橘をリテした罪によって小蛇の身を受けた男など。『今昔物語集』がとりあげた「リテ」は、以上のごとき仏教的見地から見た悪念としての「リテ」であるが、この考え方は、仏教色の濃厚な中世文学の全般を覆っている。たとえば、「法華を行ふ人は皆 忍辱鎧を身に着つつ 露の命を復せずて 蓮の上にのぼるべし」(『梁塵秘抄』)。
 仏教思想による「リテ」は、人間においては声帯および形態の模写、そのもっともいまわしい形態は人形振りであると考える。動詞の「リテす」も、したがって、中世以降、しばしば人形振りの行為をさして使用される場合があった。「リテ」は、単なる心理ではなく、肉体の生理と直結していたのである。このような用法が普及するに及んでは、「リテ」という語に神聖な意味・感情を与えることは、きわめて困難となる。室町末期、キリシタンの宣教師が、キリスト教の「リテ」を説こうとして、本邦の「リテ」という語を採用しなかった理由はこの点に求められる。彼らは、伝道の便宜上、仏教的な用語を意識的に多量に導入したが、「リテ」の語だけは忌避した。彼らは、日本にあって好ましからざる意味を持つ「リテ」の語を避け「繰り返し」「物真似」という語を代りに使用した。キリスト教における「リテ」の概念が、「リテ」によって示されるようになったのは、明治初年以後のことである。

◆編集後記◆

 ここに掲載した文章は、パソコン通信ASAHIネットにおいて私が書き散らした文章、主に会議室(電子フォーラム)「滑稽堂本舗」と「創作空間・天樹の森」の2001年4月〜6月までを編集したものです。私の脳味噌を刺激し続けてくれた「滑稽堂本舗」および「創作空間・天樹の森」参加者の皆様に感謝いたします。

◆次号予告◆

2001年10月上旬発行予定。
別に楽しみにせんでもよい。

季刊カステラ・2001年春の号
季刊カステラ・2001年夏の号
『カブレ者』目次