エニセイ紀行 (1993)


 

(26) クラスノヤルスク

 

 23日(月)、朝4時半頃目覚めたとき、まだ外は真っ暗でしたが、船は既に停泊してい

ました。そう言えば2時だったでしょうか3時だったでしょうか碇を下ろす鎖の音で一

旦目が覚めた記憶があります。

 

 5時半に朝食というスケジュールでしたが、この日だけは乗客の殆どが食事時間のは

じめにレストランに来たのでレストランは異常な混雑ぶり。朝食は少しあとからにす

るつもりで甲板を歩いてみました。

 

 舷側にサーシャが腰掛けていて岸壁にいるロシア人の男の人と何か話をしているの

に出会いました。彼は6時までの当直についていたところでした。 サーシャの話では

クラスノヤルスクの河港に接岸したのは午前2時半だったそうです。 港はこれまでの

ような浮き桟橋ではなくしっかりしたコンクリート造りの桟橋で、その先にはおそら

く港のターミナルビルでしょうスターリンゴシックのような偉容の大きな建物があり

ます。また、川岸にそってずっと中高層の建築物がならび、とにかくこれまで見てき

たエニセイ川沿いの村や町とはもうまったく異なる趣です。港のすぐ川上には大きな

橋がかかっていて、サーシャに今度の旅で初めてエニセイにかかる橋を見たと言った

ところ、すでに4つか5つの橋をくぐってきたと言っていましたから、おそらく昨晩

寝ていた短い時間の間に続けざまにくぐったのでしょう。

 

 朝食を済ませてすぐに下船しました。乗船のときは大勢の係員が各所にいて案内を

してくれたのですが、今度は見送りらしいスタッフは誰もいなくてレセプションでパ

スポートを受け取るだけという簡素なものでした。もっとも下船するのは我々日本人

のグループだけで、ヨーロッパからの観光客は日帰りのバイカル湖観光をしてもう一

度船に戻りますから、彼らが下船するときは盛大な見送りがあるのかもしれません。

 でも下船口のところにはサーシャと仲間達がいて、握手をして別れました。

 

 桟橋の駐車場には私達を空港に運ぶイカルスが並んでいました。以前はどの都市で

も外人客の移動はイカルスだった(特別の上客にはベンツのバスというのもありまし

たが私は一度も経験がありません)のに、今回はイカルスに乗るのはこれが初めてで

す。ハンガリーとの貿易関係が落ち込んで、バスそのものや部品が少なくなっている

のでしょうか。

 

 バスから船をみると、明かりのついているレストランの中でウェイトレスの人達が

ナプキン折りの作業をしています。航行しているときも食事と食事の間にレストラン

の外の甲板を歩いているときによくこの作業をしているのを見たものでした。もっと

もレストランなどで働いている人達は乗客が全員降りてしまうと、5日ほどあと再び下

流へのクルーズに出発するまで休暇があるけれど、水夫には休暇がないとサーシャが

言っていました。船の保守・点検の仕事があるのでしょう。もっとも、ウェイトレス

の人達は地元クラスノヤルスクの人ですから家に帰ることもできますけれど、ウクラ

ナイナから来ているサーシャ達は休暇をもらっても泊まるところから捜さなければな

らないわけですし。

 

 バスは6時40分頃動き出して、クラスノヤルスクの空港へ直行です。この頃には空も

もうすっかり明るくなっていました。空港は市街からかなりの距離があり、市街を出

てからはなだらかな起伏のある丘陵地帯(そこには広大な耕作地が広がっています)

の上を伸びる比較的よく整備された道路をバスは快適に走りました。

 

 ハバロフスクやイルクーツクなど従来から外国人に開放されていた都市の空港はイ

ンツーリスト(外国人旅行者)とソ連人は待合い室そのものももうまったく別、極端

には別棟ぐらいでしたが、ここクラスノヤルスクは一般の人用のホールを通って搭乗

しました。でも、飛行機はチャーター便ですから、ホールの混雑の割には搭乗手続き

はスムーズに進みました。

 

 機内放送の英語が早口でよく聞き取れず正確なところはわからないのですが、どう

も「『クラスノヤルスク航空』にご搭乗、ありがとうございますした。」と言ってい

たフシがあります。機体の外見は昔通りの「アエロフロート」ですが、国内線は分割

民営化されているのでしょうか。そう思ってみると、どうもスチュワーデスの制服も

新潟〜ハバロフスクやハバ〜イルクーツクのときとは違うような気がします。クラス

ノヤルスク空港の駐機場には青いラインがアエロフロートと同じツポレフらしい機体

に大きく「長城航空公司」と書かれた飛行機がとまっていましたけど、あれはいった

いどこの飛行機なのでしょうか。

 

 午前8時10分、我々をのせた機はクラスノヤルスクの飛行場を飛び立ちました。

 

 

 

 

(27) バイカル湖

 

 現地時間(クラスノヤルスク+1時間)10時40分頃、飛行機はイルクーツクの空港

に無事着陸しました。通訳の本山さんが言うには、イタリア語の通訳をしているロシ

ア人のおじさんがイルクーツクと東京に時差がないというのをどんなに説明しても最

後まで納得しなかったそうです。それはそうでしょう、あれだけ経度の差があるので

すから納得しないほうが自然というものです。

 窓の外は雨でした。機が駐機場までたどりついて止まってからが長い。いつまでた

ってもドアがあかないのです。結局それからタラップが付いてドアがあくまでかれこ

れ30分は待たされたでしょう。その間、機内ではBGMを流し続けてくれましたが、

もともと風邪気味だった徳山さんはのBGMですっかり頭が痛くなったなどと言って

おりました。なぜすぐに降りられないのかの説明は例によって一言もないので、当然

様々な噂が生まれます。機内で聞いたのでは、大きさの合うタラップが見つからなく

て捜すのに時間がかかったなどというのがありましたけど、もちろん真偽のほどは不

明です。

 

 ようやく機外へ出られた時には雨はすっかり上がっていましたから、もしかすると

雨がやむまで屋根のある機内にいさせてくれたのかもしれません。(^_^)

 合理的といえば合理的ですが、ロシアの空港では、搭乗の際はもちろんターミナル

ビルのしかるべき場所で手荷物検査その他の手続きがちゃんとありますけど、降りる

ときはそういうのは必要ないわけですから、ビル内は通らずにいきなりビル脇の通用

門みたいなところから市中に出るといういかにも愛想のない出され方をすることが少

なくありません。ここイルクーツクもそうでした。門の外には大勢の市民が待ってい

て出てくる私達につぎつぎと質問をするのです。しきりと「レイス」という語が聞こ

えますから、みな「あなた方が乗ってきたのは何便か」と聞いているのだと思います。

きっとダイヤがひどく混乱しているのでしょう。でも、私達のはチャーター便ですか

ら答えようもありませんでした。

 

 イルクーツクのローカルガイドはアルトゥールというロシア人らしくない名前の男

子学生で、とても流暢な日本語を話します。バスはバイカル湖のほうへ向かうかと思

いきや反対の市街地のほうへ入っていきます。やがて市の中心部レーニン通りとカー

ル・マルクス通りの交差点に近いなんとかブルクというこれまたロシア的でない名前

のレストランでひとまず昼食ということになりました。

 ザクースカは塩漬けの魚で、これを刺身だと思って口に入れた人にはひどく不評で

したが、黒パンにバターをたっぷり塗ってその上にこれを載せてカナッペ風にして食

べると美味しかったです。トマトとピーマンのサラダ。小さな肉団子をいくつも浮か

せたブイヨンのようなスープ。ところがそのあといつまで待っても私と東山さんと隣

のテーブルの2〜3人の分だけメインディッシュが届かないのです。本山さんが聞い

てくれたら、料理が足りなくていま肉を焼いているとかいう話です(「いま牛を殺し

ている」というのでなくて良かった)。ああ、ここは「アントン・チェーホフ」号と

は違って正真正銘のロシアだとあらためて実感しました。ほとんどの人がお茶も済ま

せてレストランから出ていってしまった頃ようやく料理が来ましたが、おかげで焼き

たてのビーフステーキ、ロシアのレストランのそれとは思えないほどうまかった。添

えてあるフライドポテトもアツアツでしたし。

 

 昼食後、バスでバイカル湖畔のリストビャンカへ。ここでもバスはイカルスでなく、

ソ連製ですから、登り坂はもうあえぐようにしてのぼります。そのくせ平坦なところ

や下り坂はとばすので、悪路でバスが跳ね上がって一瞬無重力状態になったりしなが

らの走行です。この運転をするドライバーがもう初老といってもいい年輩の人で、バ

スの後部座席にはお孫さんのオーリャとナターシャという2人のかわいい女の子が静

かに座っていました。こういうときのロシア人の子どもっていうのはどういうわけか

ひどく行儀いいのです。日本でならコンサートやバレエ鑑賞に行ったとき、近くの席

に小学生以下の子どもがいたらまず間違いなくその日はわが身の不運を嘆くことにな

りますけど、あちらではその心配がないですね。

 

 途中パトカーに前後をはさまれて疾走してくる対向車の一団とすれちがいました。

我々ははじめ政府の要人か何かの集団だと思ったのですが、それはピオニールキャン

プから帰る子ども達だったのです。旧ソ連のこういう伝統は今でも残っているのでし

ょうか。もっとも聞くところによると、キャンプの参加費も高騰してみんながみんな

行けるわけではなくなっているらしいのですが。

 

 ここだけでなく、エニセイの旅の後半(上流)でも気づいたのですが、新築中のダ

ーチャやダーチャというには大きすぎる建物の建築現場がいくつも目に入ります。ロ

シアの経済の困難さが言われる中で、この建築ラッシュは何なのですかね。しかも、

これまでの建物と違ってあか抜けしたデザインのログハウス風のとか、木造でないの

は赤い煉瓦を丁寧に積み上げたものとか、あるいは全く同じデザインの建物が2棟続

けて建てられていたりして、「建て売り」もあるのかなどと思ってしまいました。

 

 やがてアンガラ川の最上流、バイカルからアンガラに流れ込むところが見えてきま

した。2日前の21日、アンガラ川とエニセイ川の合流点を通過しましたから、私達は

アンガラの入り口(源)と出口(河口)を見たことになります。

 

 リストビャンカでは、アンガラ流入口の駐車場と村の小さな教会、それに湖沼学研

究所の博物館に立ち寄りました。そのどこにも、自分の描いた絵だの怪しげな土産を

ドルで売る露店があり、また子ども達がいく人も群がってきてチュウインガムだのラ

イターだのペンだのをくれとまつわりつくのが気になります。日本人の旅行者も悪い。

見学先に行かずにすぐにそういう露店に止まってしまったり子どもの相手をするもの

ですから。湖沼学研究所ではとうとう楠山さんが「早く見学に行きましょう」とちょ

っと怒った声で言い出すほどでした。

 その小さな教会の守をしているおばあさんに勧められて、灯明のロウソクを買いま

した。おばあさんが上げておいてくれるといいます。でも、教会の由緒か何かを書い

た小さなリーフレットを買ったらそのお釣りに使用禁止の旧札がきました。エリツィ

ンのお触れもここまでは届かないのかな。

 

 リストビャンカの船着き場の小屋だけは10年前と変わらず、正面に大きく「リスト

ビャンカ」と書いた小屋の前で10年前と同じような向きで写真を1枚撮ってもらいま

した。

 

 16時、水中翼船で湖の観光に。空はよく晴れ上がっていて陽射しが強く、窓の開か

ない船内は暑いくらいでした。船はアンガラの流入口の沖を通り過ぎてかつてはシベ

リア鉄道が通っていたポルトバイカルの沖まで行き、そのあとアンガラ川を下ってイ

ルクーツク水力発電所の堰堤のすぐ上の船着き場まで我々を乗せてくれました。バイ

カルは今度で4回目の訪問ですが、これまでは天候に恵まれないときもあったりで船

でアンガラを下ったのは今回が初めてです。この日のバイカルは波が穏やかで船で周

遊するにはもってこいの日和でした。

 イルクーツクダムのせいでしょうか、アンガラ川は最上流部でもかなり川幅があり、

バスでリストビャンカへ来る途中で見えるアンガラ川をバイカル湖と思う人が毎回必

ずいるほどです。川の両岸には白樺などの林が続き、いく筋もの小さな川が本流に流

れ込むのが見えます。バイカル湖の水が青い色だったのに対し、アンガラの水は緑色

に見えました。湖のほうは空の色を映し、こちらは森の色を反映しているのでしょう

か。水はとてもきれいで、その点はエニセイとは大違いです。ま、私達の見てきたエ

ニセイが中下流だったのに対し、こちらは最上流にいる点を割り引いて考えなければ

いけないのでしょうけれど。 右岸のところどころにダーチャがまとまって建てられ

ている大区画があります。おそらく建ててよい場所が指定されているのでしょう。そ

れにしてもダーチャの数が多い。また、川岸の向こうの耕地を遠くから見ると、なだ

らかな起伏のある丘に芝を敷き詰めたようにきれいに見えます。

 17時40分、イルクーツクの船着き場に到着。

 

 18時、アンガラ川の岸、ちょうどシベリア鉄道のイルクーツク駅の対岸にあるホテ

ル「インツーリスト」に着きました。バウチャーにはイルクーツクのホテルに関して

は聞いたことのない名前が書き込んであったけれど、無事なじみの「インツーリスト」

に泊まれるわけです。ホテルは以前とそれほどは変わったようにも思えませんでした

が、売店に中国製の商品がずいぶんたくさん並べられているのには驚きました。中華

料理のレストランもホテルの中にできています。1階の銀行の窓口みたいな風情も何

もない外貨用の売店で1コ10ドルのキャビアを近所,親戚への土産に7つほど買いま

した。あとで小耳にはさんだ東山さんの話ではあまりいい品ではなかったようですが。

 

 19時半、ホテルのレストランで夕食。サラミと胡瓜のザクースカ。トマト,胡瓜,

玉葱を添えたシャシリクにケチャップをかけたのがメイン。夕食ですからスープはあ

りません。チョコレートパウダーをかけたアイスクリームとコーヒーも出ました。

 

 20時40分、外はまだ明るいのですが、このくらいの時間ならもう家にいるだろうと

考えて、アントン一家へのお土産を持ってホテルを出ました。船から出した葉書は着

いていて私が訪ねるのを知っているのでしょうか、それとも郊外のダーチャか遠くの

サナトリウムでたっぷりの夏休みを楽しんでいて一家は留守なのでしょうか。

 

 

 

 

(28) チーホノフ家訪問

 

 夜9時前とはいえホテルを出たときはまだ暗くはなかったのですが、やはり以前と

はちがってロシア国内の治安が悪くなっているのを聞いていますから街を1人で歩く

のは不安がありました。それで、できるだけ外国人旅行者と見られないような服装を

と思ってそれらしい服装(それしか持っていませんけど)をして、もちろんカメラな

どぶら下げずウェストポーチ(これも私は使ったことがありません)など卷いたりせ

ず、そしてゴスチヌィ・ドゥボールで買った例の帽子をかぶって出かけました。ただ、

お土産の量が多く、これを日本のスーパーで売っていたズックの買い物袋に入れて持

ったのでこれがどうかなというのは心配でしたが。顔はロシア人風でなくてもいいの

です。イルクーツクあたりはブリヤート人とか日本人によく似た人種がたくさんいま

すので。あと、言葉が問題ですが、これは会話をしなければ平気ですし。

 アントンのアパートに着くまでの間に2度通りがかりの人に声を掛けられました。

1度目は何を言われたかわからず「ニェット」と答えてやりすごしました。2人目の

男は煙草を1本売ってくれというようなことを言ってきたのですが、これも「ニェッ

ト」と答えるしかありません。答の発音で現地の人間でないことはわかってしまった

でしょうけど、声をかけられるまでは外国人とは思われてなかったかもしれない。

 

 アパートに着く頃にはかなり暗くなっており、各フラットの玄関をつなぐ階段の踊

り場の電球が切れていて表札(といっても室番号だけですが)の数字が読めないほど

でした。玄関の呼び鈴のボタンを押すと中で幸運にも声がして扉をあけてもらえまし

た。両親とアントンの妹アーニャが在宅だったのです。ダーチャに行っていて留守な

のではないかと思ったと言ったら、前日の日曜日までは郊外のダーチャにいたという

ことでしたのでほんとうにラッキーだったわけです。ドゥヂンカから出した葉書はや

はり届いていませんでした。

 

 まず、1年も手紙の返事を書かなかったことのお詫びをしなければなりません。そ

んな不義理のあとなのに、アントンのお母さんナタリヤ・ニコラエブナは「私達もな

かなか手紙を書く時間がないのよ」と言って大歓迎してくれました。

 夕飯は済ませてきましたというと、「じゃお茶かコーヒーは?」と言われたので軽

い気持ちでそれじゃお茶をと返事したのがちょっと間違いでした。どうもロシア人の

「お茶」は、日本の大衆食堂で料理ができるのを待つ間のあのお茶ではなくて、茶道

をたしなむ人が客人をもてなすときの「お茶」のイメージに近いのではという感じで

す。お母さんはアーニャに言いつけて応接間に食事ができる高さのテーブルと人数分

の椅子をセットさせ、前触れのない突然の訪問なのにご馳走を並べてくれました。黒

パンの上にチーズやソーセージをのせたザクースカ、トマトやゆでたジャガイモ、お

茶にはブルーベリーのジャムと桃だか杏のジャムを出してくださってこれがお茶にと

ってもよく合うのです。お酒を飲めないは知っていますからこれは出されませんでし

たが、私が酒好きならウオトカかコニャックが出てきたことでしょう。

 

 ただ、ご馳走のほうはいただいたのですが、会話のほうは弾んだというわけにいき

ません。当然といえば当然ですが、知らない単語が次々と出てきてその都度私が聞き

返すものだから、他の言い回しをさがしたり、英語に置き換えたり(それでもわから

ないことが多い)で先方もたいへんだったと思います。

 そんな会話でもわかったのは、アーニャが既に音楽学校を終わっていて、中等学校

のほうも来年5月に卒業するけれど、そのあと音楽のほうに進むか総合大学に行くか

迷っているらしいということでした。音楽家の両親の間に生まれた彼女は小さい頃か

らピアノをやっていてこの日もお母さんとの連弾を聞かせてくれました。

 

 去年10月に結婚したアントンは市内の別の地区のアパートに奥さんと一緒に住んで

いるのですが、今年3月に生まれてこのとき5ヶ月になるニキータという名前の男の子

がいるとのこと。ナターリヤ・ニコラエブナは、このニキータが小さい頃のアントン

にそっくりだと言って目を細めます。アルバムを見せてもらいましたが、私もそう思

いました。

 彼女は当然アントンの奥さんアーラのお姑さんにあたるわけですが、アーラのこと

をきれいでとてもよいお嫁さんだと私に言うのです。私はちょっと驚きました。日本

でこういう場合、つまり姑が本人のいないところで自分の息子の嫁のことを客に言う

場合、こうやってほめるでしょうか。それどころか「結婚して半年もしないのに子ど

もが生まれたりして」などと言い出しかねませんよね。

 アントンは小さい頃はトランペットを、中等学校の頃はロックに凝っていたのです

が(前回訪ねたときは私に日本製のキーボードをねだったりしていた)、今は音楽は

やめてしまって、イルクーツク総合大学のジャーナリスト科に籍を置いているそうで

す。アーラは教育大学の学生で将来は学校の先生を目指していると言っていました。

 

 チーホノフ家には新しく電話が引かれていて、お母さんがアントンのところへ電話

をかけてくれました。彼の家には電話がないのですけど、お隣の家に電話があり、日

本でも昔あった「呼びだし」です。電話にはアーラが出ましたが、アントンは今おむ

つだか何だか洗濯物を干しに行っているということで電話での話はできず、翌日の5

時にこちらの一家と待ち合わせをしてアントンのアパートを訪ねることにしました。

 

 持ってきたお土産、お父さんへのハンカチ、お母さんへの扇子、アーニャへの手鏡、

そしてアントンへのレコードと、アーラへということにしてスプーンとフォークのセ

ットを渡して、それからもこれもと言ってそれを入れてきたズックの買い物袋も渡し

ました。じつは前回訪ねたときに先方からのお土産をナターリヤ・ニコラエブナが持

ち歩いたであろうだいぶ年期の入った買い物袋に入れてくださったのです。それを洗

って今回お返ししたのですが、とにかくだいぶくたびれていましたからさらに新しい

のを1枚と考えたわけです。まさか2年ぶりでその買い物袋が帰ってくるとは思わな

かったのでしょう、お母さん、苦笑いしていました。

 

 もう夜半に達した時分、チーホノフ家を辞したのですが、帰りは飼い犬を含めて一

家でホテルまで送ってくれました。街に明かりが少ないだけでなくおそらく空気も澄

んでいるのでしょう、星がたいへんきれいです。空を見上げながら歩いていたら、バ

イカルで見る星空はもっときれいだと言われました。アーニャはつい先頃までバイカ

ル湖畔で休んでいたそうで、満天の星を夜毎に見てきたのでしょう。星がきれいだと

いうのはその通りだろうと思います。

 

 

 

 

(29) イルクーツク

 

 8月24日(火)、朝6時半頃目が覚めました。この旅行、ふだんのパック旅行違って船

のほうを1人部屋で申し込むと往復のホテルもシングル扱いなのです。それにしては

料金が安いので、日本の会社かスイスの会社が手続きをまちがえたのではないかと思

ったくらいです。ま、それはともかく、1人部屋というのは気楽は気楽ですが、うっ

かり寝過ごしたりするリスクは負うことになります。前夜の帰りが遅かったので、朝

シャワーを浴びてちょっとサッパリしました。

 

 9時から朝食。 十分な量のチーズ、挽き肉を巻き込んだブリヌィ、紅茶、黒パンと

バターでした。

 

 10時よりバスで市内観光。バスに乗り込んで発車を待っていると物売りの青年が車

内まで入ってきて商売を始めます。運転手やガイドとじゅうぶん通じあっているか、

あるいはガイドの会社の人かもしれません。以前のソ連旅行でしたら現地で仕切って

いるのは全部インツーリストでしたけど、今は群小の会社がたくさんできているらし

く我々をバイカル湖やイルクーツクの街に案内してくれているのも新興の小会社のよ

うです。通訳のアルトゥールも「会社から言われているので」と言って車内(船内)

で本の宣伝をしたりします。

 

 市内観光はいつものお決まりのコースで、まず市中心部のキーロフ広場近くの教会

群へ。聖スパスキー教会の外壁のフレスコ画が修復されているのが目新しい点です。

 大祖国戦争戦没者慰霊の「永遠の炎」はまだ燃え続けていますが、コムソモールの

少年少女による「警備」は2年前に廃止されたそうです。前夜見せてもらったアント

ンのアルバムには彼がその任に就いたときのやや大きめの写真があり、また当時母親

のナターリヤ・ニコラエヴナがそのことを誇らしげに手紙に書いてきたものでしたが、

今はどう思っているのでしょうか。我々の前後に外国人観光客だけでなく、ロシア人

の観光団もそこを通り過ぎて行きましたが、そんな中1人の現地の青年が長い時間祈

るようにしてその場にたたずんでいるのに気づきました。私は「永遠の炎」の前に折

り鶴を1羽置いてきたのですが、後続のロシア人の観光団の何人かはそれに気づいて

ガイドの説明そっちのけで折り鶴を話題にしていました。

 

 そのあとは、キーロフ広場からそう遠くないところにあるズナメンスキー寺院へ。

ここもいらしたことのある方が多いと思います。そう、流刑になったデカブリスト、

トルベツコイ伯爵とともにシベリアまで来てこの地で亡くなった夫人エカテリーナと

3人の子どもの墓のある教会です。駐車場から教会までの小径や教会の入り口のおお

ぜいの物乞いがいます。かつては見なかった光景ですが、いつもはまつわりつく「子

どもたちの相手をしないで」というアルトゥールも、いくらかの喜捨をしてもいいよ

うなことを口にします。それにしてもアンガラやエニセイの河畔に次々と新築されて

いく瀟洒なダーチャ群のこれらの物乞い達との落差に何か割り切れない気持ちにさせ

られます。

 教会の内部、ことにイコンの幾重にも重なる祭壇のあたりは心なしか以前より豪華

になったように見え、そこで訪れた信者が静かに祈りをささげています。なのに、隅

のロウソクや聖像画を売る小さな窓口で、大きな声であれこれを物色する我々のグル

ープのごく一部の人の無神経さ、やりきれませんでした。

 

 市のメインストリート、レーニン通りは以前と変わらぬにぎわいを見せていました。

マルクス通りとの交差点にある大きなレーニン像がここでも健在です。

 

 レーニン通りがアンガラの岸に突き当たる所にある郷土史博物館も見学。じつは10

月革命後の内戦時に、この郷土史博物館(煉瓦造りの赤い建物)が白軍側、道を隔て

て反対側のかつて総督府だったという白い建物(通称ホワイト・ハウス)が赤軍側で

(すみません、池袋の西武と東武みたいな話で。)、その間で激しい戦闘がありまし

た。それが階段の踊り場から2階にかけて展示されているのですが、通訳のアルトゥ

ールはその史実はおろか展示のことさえ知らなかったのです。時代の流れですかね。

 

 そのあとみんなでシベリア鉄道のイルクーツク駅に行ってみました。パステルカラ

ーのロシアにしてはなかなかあか抜けした駅舎です。駅の内外は例によってものすご

くたくさんの人が行き来していて、かなりの混み方です。改札はありませんから、地

下通路を通ってホームまで出てみました。ちょうどウラジオストク発モスクワ行きの

列車(ロシア号ではありません)が出発するところでしたが、「*番線からモスクワ

行きが発車します」というアナウンスの直後にもう列車は動きだし(発車ベルはあり

ません)、アナウンスの終わりの「どうかお幸せな旅路を」という頃にはかなりの速

度になっていました。ま、アナウンスがあるだけでもよしとしなければいけないので

しょう。

 

 13時、ホテルのレストランで昼食。生野菜のサラダ、ヌードルの入ったスープ、と

てもかたいビーフステーキにフライドポテト・キャベツ・トマト添え、紅茶。

 

 14時半から市内「買い物ツアー」の予定になっていましたので、私はデパートやル

ィノックのあるあたりまで一緒にバスに乗せてもらって、そこでみんなと別れ、花束

か何かを買ってその足でスリコフ通りのレーナの家を訪ねてみることにしました。で、

時間にホテルの玄関へ出てバスが出るのを待ったのですが、時間を過ぎていくら待っ

てもグループの人達が部屋から出てきません。

 

 

 

 

(30) 「ホテル事件」

 

 いつまで待っても皆が来ないので部屋のある階に戻ってみました。そうしたら、廊

下で我々のグループの何人もがロシア側の旅行社(M社と契約した現地エージェント)

の係員やガイドのアルトゥールを相手に談判中です。通訳の本山さんは「もうここは

私の責任外」というふうだし、AT社の中山さんは間にはいっていかにも困った風。

 

 事情はこういうことでした。その係員がやってきて我々が今使っているホテルを引

き払い、リストビャンカのホテルか市内の「フョードロフ」に移ってほしいと言って

きたのです。途中でホテルを替われというのも乱暴な話ですが、ことにロシアのホテ

ルの内実をハバロフスクで知ってしまった旅行客側は「それは違約」だと強硬に抵抗

しています。ホテルには我々の使っていた部屋を使うことになっているらしい次の団

体も入りはじめ、部屋を掃除するメイドさんたちもなんとかしてほしいという感じで

す。でも、我々がいくら強硬に主張してみても、直接の交渉相手はその小さな会社で

すが、ホテルを管理しているのはインツーリストですから、これはどうにもなるもの

ではありません。結局大もめにもめた末、1泊分を現金で返すということで私達は別

のホテルへ移ることになりました。

 でも、私は内心この話はこちらに分がないと思いました。というのは当初のバウチ

ャーにはフョードロフ」というホテル名が記載してあり、それを言ってみれば先方の

好意でインツーリスト・ホテルに変更してもらったのですから、それが元に戻るのに

1泊分返せというのはどうでしょうか。ま、あの小会社の社員(兼経営者かな?)、

市場経済の怖さをじゅうぶんに知ったことでしょう。

 

 でも、ホテルの変更はその日の夕方インツーリストホテルの玄関でナターリヤ・ニ

コラエヴナ達と待ち合わせてアントンのアパートへ行く約束をしてあった私にとって

は困った事態です。ことにイルクーツクから数十kmも離れたリストビャンカのホテル

「バイカル」に移動などということになったらどうしようもありません。

 

 幸いみなさんの結論はバイカル湖畔ではなくその「フョードロフ」とかいうホテル

にしようということになり、しぶしぶトランクをつくった後、だいぶ遅くなってしま

ったけれどバスで「買い物ツアー」に出かけることになりました。

 この件ですっかり時間を削られた私はもうレーナの家を訪ねるのはあきらめて、こ

のままホテルでアントンのお母さん達を待つことにし、アントンのアパートからその

「フョードロフ」へ帰るために「フョードロフ」が市内のどこにあってバスかトロリ

ーバスの何という停留所で降りるのかアルトゥールに詳しく聞きました。すると、彼

がバスの運転手にホテルの所在地を確かめる会話の中で「ミクロヒルルギヤ・グラザ」

という語が聞こえるではありませんか。市内の地図にこのホテルが出てこないわけが

わかりました。3年前にハバロフスクで泊められたフョードロフ博士の眼科病院の分

院がイルクーツクにも新設されているのです(注;#239,08/31)。みんなはインツー

リストホテルに居残ることができなくてどんなひどいホテルに連れていかれるのかと

少々気落ちしているのですが、私はバスの最前列にいた飯山さんご夫妻に「そんな悪

いホテルではないと思いますよ」と言い残してバスを降りました。

 

 まもなくみんなを乗せたバスは出発していきました。

 


 

次のページへ    目次へ戻る