エニセイ紀行 (1993)


 

(31) マキシム・Fの誕生祝い

 

 16時50分、アントンのお母さんナターリヤと彼の妹アーニャの2人がインツーリス

ト・ホテルの玄関に迎えに来てくれました。天候はにわか雨、道路を歩くとき気をつ

けていないと疾走する自動車からせいせと泥水をはね上げられます。2人とも長袖の

コートを着ていて、8月ながらもう完全に秋の装いでした。

 

 アントンのアパートは空港に近いソビエツカヤ通りにあって、ホテルから少し歩い

たところにあるバス停から4番のトロリーバスで行きます。ちょうど退勤時刻と重な

ったせいでしょうか、バスはかなり混んでいました。回数券を人数分切ってそれをパ

ンチ台の近くの人にリレーで渡すとパンチ穴をあけた回数券が戻ってくるというのは

以前のままです。混んだ車内にいて次の停留所で降りるとき、出口側の人に「次で降

ります?」と尋ね「ニェット」という返事だったら、「通してください。」と声をか

けるという習慣もそのまま生きています。日本でだと無言のまま身体でぐいぐい押し

ていくところですが。

 

 アントンは奥さんのアーラと5ヶ月の息子ニキータの3人家族ですが、アーラの祖

父母(父母ではなくです)と同居しています。この日はさらにおむかいのフラットの、

そうあの呼び出しの電話をお借りしている家のおばあさん(おばさん?)も来ていま

した。というのは偶然この日はアーラのおじいさんマキシム・フョードロビッチのお

誕生日で、そのお祝いのパーティーだったのです。ニキータを別にしてもアントンの

側がそういうわけで主賓のマキシム・フョードロビッチを含めて5人、アントンの実

家からお父さんのワレンチン(ホテルには来ないで直接アパートにやってきていまし

た)ら3人、それに私が加わりましたから9人での宴会になりました。

 

 ナターリヤ・ニコラエブナが私を皆さんに紹介してくれて、それぞれの方とのご挨

拶もしました。また彼女は私が前日持って行ったお土産も全部ここへ持ってきて披露

するのです。その中には私が彼女に持って行った扇子もあったのですが、「これはア

キノリ(私のことです)からおばあちゃんへ。」と言って、私のほうを向いてちょっ

と片目をつぶってみせて、アーラのおばあちゃんにあげてしまいました。そして、例

の買い物袋までみんなに見せて、ことの経緯を話してみんなを笑わせました。

 

 そうですね居間は10畳ぐらいの部屋でしたでしょうか、それでも大人9人となると

なかなか窮屈でしたが、そこに大きな机をしつらえ、それにテーブル掛けをかぶせて

花や料理を並べます。お酒は白のワインとウォトカ。料理は全部は覚えきれませんで

したが、メモに残っているものだけ書くと... いちばん美味しかったのが、スモーク

サーモンにクリームチーズか何かと一緒に練って粉状にした焼き玉子をびっしりとふ

りかけたの、何というのでしょうか。ほかには、サラミソーセージ、よく味のしみた

焼き豚風の肉のスライス、生野菜とポテトのサラダ、パセリのような野菜のみじん切

りとクリームか何かをこれも一緒に練ってトマトの上にカナッペのようにのせたもの

(「ような」という語がやたらと出てきてすみません)、大きなインゲン豆とあまり

見たことのない葉野菜を酢か何かに漬けこんだもの、等々..。それにもちろん黒パン

があります。今度の旅のなかでいちばん美味しかった料理がこのときのであったのは

言うまでもありません。

 

 なが年マキシム・フョードロビッチに連れ添ってきたおばあさんが立ち上がってお

誕生日のお祝いを述べ、みんなで乾杯をしてパーティーは始まりました。日本の習慣

では乾杯は冒頭だけであとは歓談ということですが、あちらは宴の途中で幾度も乾杯

があります。ときどき誰かが立って型どおりではあるけどでもそれなりにそれぞれ思

い思いの祝辞を述べ、その都度みんなで乾杯をします。よくはわかりませんが、誰が

先に立っても「僭越ですが」ということはないみたい。

 

 マキシム・フョードロビッチはさきの大戦のときに将校だったそうで、最後にはモ

ンゴルでの対日戦に参加したことがあると言っていました。今から50年近く前といえ

ば彼も相当若かったわけで、その年齢で将校というのはやはりエリートだったのです

ね。私の隣席にいた彼は私にその戦争の話をしようとするらしいのですが(私には話

の内容がよくわからない)、私が日本人なのを気遣ってまわりの人がそれをやめさせ

ようとしているらしいのが感じられます。でも、お酒がまわっているので彼のほうも

なかなか言うことを聞かない様子でした。

 また、マキシム・フョードロビッチは、自分は50年の党歴をもつ共産党員だと言い、

お前の国には共産党があるかとか聞くのです。ソ連の共産党がなくなってしまったの

で世界中の国から共産党が無くなってしまったとソ連人が思うのはしかたがありませ

んね。私が「ありますよ。40万人も党員がいます(違ってたらゴメンナサイ)。」と

言うと「最高指導者は誰か」などまたいろいろ聞いてきます。こういう人達の人生に

とってソ連邦とソ連共産党の解体はどんな意味を持つことになったのでしょうか。

 

 彼はお酒がかなり好きなようでごく短時間のうちにワレンチンと2人でウォトカ2

瓶(でも1本は500mlです)をたちまち空けてしまい、3本目を出せと言ってダメとい

うアーラやナターリヤ・ニコラエヴナとしばらく「言い争って」いましたが、結局瓶

に半分ぐらい残っていた3本目を飲んでしまうとそのまま酔いつぶれてしまいました。

 

 マキシム・フョードロビッチがきちんと寝てベッドに移るまでということで、アン

トン夫妻とアーニャとの4人で一旦アパートの外へ出ました。はっきり外庭という仕

切りがあるわけではありませんが、アパートの外は草地になっていて白樺の木が疎ら

にはえています。アントンがギターを持ち出して奥さんのアーラと向き合いでベンチ

に腰掛けて小曲を弾いたりする様子は、白樺の白、草の緑、アーラの赤い衣服、アパ

ートの古ぼけた色がうまくミックスされていい写真になりそうですが、なにしろこの

あたりは蚊が多く、写真を撮られるほうは蚊を追い払うのに懸命で、いい顔をするど

ころではありませんでした。この蚊がエニセイの川岸で見たのよりずっと大きい。そ

れをアントンに言うと「レナ川のはもっと大きい」だなんて、返事になっていません

よね。ところが不思議なことに室内でこの蚊をまったく見ないのです。室内にいたら

赤ちゃんが寝ているわけですし、大人たちは気が気ではなかったでしょうに。蚊取り

線香も焚かないのにどうしてなのでしょう?

 

 アントンの奥さんアーラは、背はそれほど高くはないのですが、利発そうな美しい

女性です。一児の母という雰囲気はまだ全くなく、ほんとうに女学生なのですが、女

子学生ということで立派に通用する容貌です。

 カムチャッカ半島のペトロパブロフスクの出身で、中等学校のときまではそこに住

んでいたと言って、カムチャッカの絵はがきを私にくれました。父親は、夏は海で、

冬はタイガで猟をするロシア人で、今はベーリング海峡のむこうのアラスカに居ると

言ってアラスカからの手紙も見せてくれました。米露の関係が以前の米ソの関係と逆

転したので、こういうことが可能になっているわけです。

 脇からナターリヤ・ニコラエヴナが口を出して、アーラの父親はとても博識な人で、

音楽にも通じていてコントラバスを弾いたりもすると話してくれました。音楽に造詣

が深いというのは音楽家のチーホノフ家の人達には好い印象なのでしょうね。

 

 ナターリヤ・ニコラエヴナが私に「アントンのお嫁さんはどう?」と聞くので、美

しくて素敵な人だと答えると、彼女「ぜひそれをアキノリの口からアントンに言って

やってほしい。」というのです。前日の“賛辞”と同じ「文脈」ですけど、あそこで

も書いたように私はこういうのに慣れていませんから、すっかり感心して、なにか明

るい気分になりました。

 アントンは、船で知り合ったサーシャとは違って、今でも無宗教で、去年秋の結婚

式も教会では挙げなかったそうです。

 

 お茶には、大きなチョコレートケーキ、ブルーベリーか何かのピローグ(「揚げ饅

頭」と訳されることが多いようですがこの場のはむしろケーキに近いものでした)、

小さな桜んぼのコンポートが出されました。その前にテーブルをうずめた料理同様み

んな手作り(既製品を売っているコンビニがないので当然ですが)ですから、どれも

美味しくすっかり満腹になってしまいました。

 

 そのあともう目をさましたニキータをみんなでかわるがわるだっこして写真を何枚

も撮りました。アーラがカムチャッカの両親に送りたいというので、帰国してからず

いぶんたくさん焼いて送ってあげましたが、今の郵便事情ですから無事に着いている

かどうか。(今日現在、この夏の旅で会った人への郵便の返事はクラスノヤルスクの

タチヤーナから届いているだけです。)

 

 22時頃、皆さん(と言っても深い眠りに落ちているマキシム・フョードロビッチは

別です)にお別れを言ってアパートを出ました。おばあちゃんとナターリヤ・ニコラ

エブナはニキータのおもりでアパートに残り、ワレンチンとアントン夫妻、それに妹

のアーニャがフョードロフの分院まで送ってくれました。

 別れるときにナターリヤ・ニコラエヴナがお土産をくれました。木の板に素朴なか

わいい絵を描いたものでこれはまな板でしょうか、用途がわかりません。もちろん、

実際にまな板としてはもったいなくて使えませんから、わが家では壁掛けになってい

ます。もう一つはジャガイモをすりつぶすのに使うという丸棒で、これも綺麗な塗り

の文様が施されています。それを手近にあった袋に入れて私に渡すとき、「この袋は

返さなくていいから」とつけ加えるのを彼女は忘れませんでした。

 

 

 

 

(32) 終章

 

 4番と1番のトロリーを乗り継ぎ、アンガラ川をせき止めるイルクーツクダムの堰堤

の上を通って22時30分頃、ホテル(?)「フョードロフ」に無事着きました。ハバロフ

スクの分院同様、ここも屋上に目の形の看板があり、客室(病室?)の仕様もあちら

とまったく同じです。客室2室で洗面所1ヶ所を共用という点が不便ですが、ロシア

のホテルにしてはこぎれいでその他には不満のない施設です。なのに、昼間の経緯で、

私にはシングル料金ということで65ドルが返金されました。ロシア旅行の経験は決し

て少ない回数ではありませんが、現地で現金が返ってきたのは初めてです。ま、花束

を買ってレーナのところへ行ってみようという計画がつぶれてしまったのでから貰っ

てもいいかと思って受け取りました。

 

 最終日25日(水)、朝6時半に起き、7時半にフョードロフをバスで出て、8時にインツ

ーリスト・ホテルで朝食でした。イルクーツク〜新潟は週1便の飛行なので、この日

のホテルや空港にはシベリア遺骨収集団をはじめいくつもの日本人グループがいまし

た。朝食は、ソフトサラミ、トマト、細かく刻んだベーコン入りのオムレツ、黒パン、

バター、ケフィール、紅茶。このオムレツが厚焼きのうえ焼き立てのあつあつで好評

でした。

 

 8時半、レストランを出てバスで空港へ。朝は薄曇りの天気ですこし寒い感じでした

が、空港の待合い室で待つ頃にはかなりあたたかになりました。

 

 空港での通関,出国の手続きは比較的スムーズ。これまでソ連に旅行したあとパス

ポートには日本側の出入国記録しか残らなかったのですが、今回はロシア側の入国,

出国の各空港のスタンプが押されているのに気づきました。制度が変わったのでしょ

うか。

 ところが待合い室に通されてからがいけません。定刻になろうがそれを過ぎようが

何の連絡もないのです。

 その間に待合い室の隣で売店をみつけたので見に行くと、塗りの木製のスプーンの

小さいのが1本0.5$です。この旅の途中どこかの売店で見たときは2$でしたから、イ

ンフレで値づけがいい加減なのか、品が違うのか知りませんけど、とにかくクラブの

生徒にちょうど良い土産と思って26本仕入れました。

 「技術的な理由による」遅れだそうで、新潟行きのアエロフロート機は12時30分に

イルクーツクの空港を離陸しました。

 

 アエロフロートの国内線が分割民営化されているのではないかと先日書きましたが、

もしかすると国際線もでしょうか。往路のハバロフスク行きの便とではスチュワーデ

スの制服が違うように思いました。それに、はっきりとは聞き取れていないのですが、

機内放送でも「アエロフロート」という語がなくて「バイカル・エアライン」とかそ

んなふうに言っていたような気もするのです。

 

 機内放送と言えば離陸後の案内放送で「*時間後に“朝食”が出ます」というのが

あったのです。この“朝食”というのは解せませんね。イルクーツクを12時半に出た

この機は、現地時間でも新潟時間でも(あ、同じでしたね)仮にモスクワ時間でも、

朝食の出る時間には飛んでいない筈ですから。この謎は14時頃飲物が出たその30分後

に食事が運ばれてきて解けました。焼いた肉のかたまりにライスと大きな胡瓜を添え

たもの、大きめのサラミ3切れ、黒パン、焼菓子、チョコレートキャンデー、紅茶と

いうメニューで、間違ってもディナーにはならない、その通り「朝食」のなかみでし

た。

 

 佐渡が見える頃になって着陸予告のアナウンスがあり、新潟の気温が29℃だと知ら

されました。飛行機を降りたら夏と再会です。

 

 このTU-154型機、定刻より2時間遅れの17時に新潟空港に着きました。

 いつものように、舞い降りるような見事な着陸ぶりでした。

 

 

 

 

(33) お礼

 

 この夏のエニセイ川の旅の報告、これでおしまいです。片方では忙しさもありまし

たが、もともと文章を書くのが不得手ということがあり、いささか間延びした書きっ

ぷりでしたのに、最後までお付き合いくださったみなさんに御礼を申し上げます。

 

 私のロシアというか旧ソ連旅行は今回で19回目になり、その早い時期から同僚に旅

に出たらその記録をまとめておくようにアドバイスされていました。過去一、二度そ

うしようと思って書き始めてみたこともなくはないのですが、結局日記で言うと1月

の松が取れたぐらいの日付にあたるようなところで挫折してしまって、これまで一度

も旅行の記録をまとめあげたことがありません。

 

 今回、その内容や質はともかくとしてとにかくなんとか「帰国」できたのは読んで

くださっている方がいらっしゃるというのがささえになってだと思います。そういう

わけで、当フォーラムのみなさんにあらためて御礼を申し上げて筆(キーボード?)

をおきたいと思います。ありがとうございました。

 

 

 


 

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