エニセイ紀行 (1993)


 

(21) エニセイスク

 

 8月21日(土)。朝7時頃起きました。この日も快晴。7時半朝食。

 

 8時半頃、右舷側の岸(左岸)に昨日のヤールツェヴァよりもさらに大きな、これは

もう集落というよりも市街が見えてきて、まもなくいつものように浮き桟橋に接岸し

ました。桟橋の奥にはロシアのどこにでもいる抜け目のない「土産売り」が乗用車の

ボンネットの上にマトリョーシカだの絵はがきだのをならべて乗客の上陸を待ってい

ました。この光景もドゥヂンカからヤールツェヴァまでは無かったですから、それだ

け都会にやってきたということでしょうか。事実、ここエニセイスクでは道路は舗装

されていますし、路線バスが運行していて、四つ角には信号機さえありますから、こ

れまで見てきた町や村とくらべればまさに「大都会」です。

 

 ここもバスでなく徒歩で市内観光をしましたが、各自自由行動というのではなく、

ローカルガイドの案内で団体行動をしました。ガイドはオリガとかいう若い女性で、

なぜかその妹さんも一緒です。

 

 市内のあちこちの建物の壁には依然として「19**年にボリシェビキの活動家**が

ここで組織活動をした」といったプレートがあり、町の広場にはレーニン像も健在で

した。

 また、探検家ナンセンが北極探検の帰途に立ち寄って講演をしたというギムナジウ

ムの建物も残っていました。

 

 食料品店も1〜2軒のぞいてみましたが、やはり思ったよりもずっと品数は豊富で

す。ヤールツェヴァのところでも書きましたが、こういう街の中のごくふつうのお店

に外国製品が氾濫しているというのはこれまでのソ連では考えられなかったことです。

ヤールツェヴォの船着き場近くのよろづ屋さんに「TDK」だの「SONY」のビデ

オテープがありましたし、エニセイスクの食料品屋さんの棚には「ネスカフェ」商標

の缶がたくさん置いてありました。よもや偽物ではないのでしょうね。

 

 市の一角にある程度広い敷地を持っている男子修道院に入れてもらいました。観光

客を入れて、その観光客から1人2ドル程度の寄付をしてもらって修道院の再建に充て

るつもりらしいのです。私は貴重なドルは温存して2000ルーブルを置いてきました。

そういうわけですから、中へ入れてもらってもイコンで飾った豪華絢爛の祈祷室があ

るわけではなく、まだ改修の手のはいっていない鐘楼の危なげな階段を登っていくぐ

らいのことしかできません。鐘楼からは市のかなりの部分が見通せて眺めはそれなり

に良かった。観光客がそこにある鐘を勝手についたりするのですが、それも自由にさ

せるままです。その音を聞く近隣の信者なんかどう思うのでしょうか。いくら再建の

ためといっても私は何か割り切れない思いです。その修道院からそう遠くないところ

にもう一つ正教の教会がありましたが、そちらは「ここは祈りの場所で観光客に見せ

るところではない」と言われて入ることができませんでしたけど、私は2000ルーブル

の修道院よりこちらの教会のほうに共感を覚えました。

 

 修道院と教会をつなぐ往来で野苺大小1瓶ずつとトマト1袋、にんにく1袋だけを

売っているおばあさんがいました。東山さんから言われて値段を聞くと大きい瓶の野

苺が1500ルーブルということでした。ソ連で買い物をするときには日本のように紙袋

などは勿論くれず悪くすると新聞紙に包むということもないということがありますか

ら、袋などの用意がないと果物などなかなか買おうという決断ができない。ところが、

目の前で1500ルーブルのほうを買った婦人におばあさんが袋を渡そうとした(その婦

人は用意してきているからと言って結局受け取りませんでしたが)のを見たので小さ

いほうの瓶を買うことにしました。 値段は100ルーブル。少なく見ても大きい瓶の三

分の一はあった気がしたのですが、それとも種類が違ったのでしょうか。お金を渡し

て私にも袋をくれるかなと思って待っていると、おばあさん何か言うのですが私にそ

れが通じません。まわりで見ていた中年の女の人達が「この人わからないようねぇ」

というのだけがわかるので、しようがない「ごめんなさい。わかりません。」と言っ

たら、結局瓶ごと持って行けということのようでした。

 

 船のほうへ戻ると船着き場の近くに大きなルィノック(自由市場)が開いていて、

上陸したときには想像もつかなかったほどのにぎわいになっています。中央アジア人

のような男の果物売りが手招きしてくれます。こちらは船に帰らなければいけない時

間だし、キロ単位での買い物などできないから遠慮しようとするのに、売りものの果

物を剥いて差し出してくれました。「グルーシ(洋梨)?」って聞いたら「ダー」と

いう返事でしたけど、みずみずしくてとても美味しかった。

 

 野苺は船に戻ってからキャビンの洗面台で洗ってから食べました。いかにも「野」

イチゴという感じで、ほのかに甘味のある素朴な味でした。

 

 

 

 

(22) レソシビルスク

 

 12時の昼食は、チーズとハムとキャベツのサラダ、シャシリクにカレー味のついた

ライスを添えたもの(この米粒が白・黄・ピンクの3色に染められている)、生クリ

ームを添えたフルーツコンポートのデザートでした。

 

 昼食後はまた例によってサンデッキで日光浴です。エニセイスクを出てからも左岸

(右舷側)には製材コンビナートの積み出し施設が延々と続き、かつてのように樹林

ばかりが続いたところから抜けでて人の多い地方に来ていることがわかります。これ

は結局次の寄港地レソシビルスクまで続きました。

 

 15時、レソシビルスクに接岸。ヤールツェヴォ、エニセイスクと同様、やはり浮き

桟橋の船着き場です。船を桟橋に近づける作業を中甲板から見ていると1層下の主甲

板で作業をしていたサーシャが私に気づいて、下から声をかけてきました。「....招

待....」というところだけ聞き取れたので「ウクライナへ?」って聞いたらそうじゃ

ないという返事。彼は日本語の単語を小さなメモ帳に書き付けていて、私にロシア語

が通じないとみるやそれを取り出して「よんひゃくよんじゅう....」とか言い出すの

です。「ウクライナへいらっしゃい」というのじゃなくて「四百四十..」とは何だろ

うと思ったのですが、じつは441号室が彼の船室でそこにいらっしゃいということでし

た。それで、その夜23時にレセプションの前で待ち合わせて招待に応ずることにしま

した。

 

 レソシビルスクの船着き場にはやはり少なくない子ども達が集まっていました。で

も、子ども達の数が多いので中にはあぶれてしまって外国人観光客に相手にしてもら

えない子も出てきてしまうようです。船着き場からバスの待っている道路までの細い

階段を登っていると、前を歩いている小学校低学年ぐらいの女の子が連れの同級生ら

しい子に「英語を勉強しなくちゃ」と言っていました。

 

 ここでは徒歩でではなく、イガルカ以来のバスでの市内観光でした。まずはじめに

市場へ。今回の旅に限らず日本人の観光客は市場とかデパートが好きですね。ガイド

が「どこへ行きますか」と尋ねて候補地の中にそういうのがあるとわかるとたいてい

そちらを選びます。それで、市場や店からバスにもどると「これは**ルーブルだっ

た」とかいう会話、いつまでたっても私は馴染めませんが..。 というわけで、ここ

でもまずルィノック(市場)へ寄ったのですが、ガイド側としてはごく短時間と思っ

たのでしょう、出発時刻を決めてなかったので、大方の人がバスに戻っても二、三人

が市場内のどこにいるか見つからず出発ができなかったので、車内は一時ちょっと険

悪な雰囲気になりました。

 

 ルィノックはおそらくエニセイスクの船着き場のそばで開いていたのより規模が大

きそうで、食べ物や衣料品などやはり品物は豊富でした。市場の中を見て回っている

と私と同じくらいの年輩の男の人が近づいてきて「日本には品物が豊富にあるだろう」

と言うので、「ここだってあるじゃないか」というと「こちらはあっても質が悪い」

と言います。このところのロシア経済が混乱していることも拍車をかけていると思い

ますが、いまのロシア人には日本の経済システムや日本人の生活を実際以上に理想化

してとらえている傾向が強く、この手の話はいつも気が重いです。日本の経済なんて、

もし、深刻な冷害に見舞われときに国際的にも穀物の需給が逼迫していれば1億人が

すぐ飢えてしまうほど脆弱なのにです。(でももとよりそういうことが言えるほどの

語学力はありませんし。) 話がだんだん「日本に招待しろ」という方向に向きかね

ない雲行きだったので「バスが出る時間だから」と言って退散しました。

 

 つぎに寄ったのは地元の画家による美術品の展示場とかいうあやしげなところです。

最近のロシア旅行ではいろいろな都市でこの手の訪問場所も多くなりました。おそら

くガイドなり地元の旅行社なりがこういう展示場と結びついているのでしょう。絵や

工芸品を見せるという形はとっていますが「即売」のほうに主眼があるのはあきらか

です。そういえば、昔ソ連時代にはお土産は「ベリョースカ」という外貨店で買うも

のと相場が決まっていましたが、昨今ではベリョースカそのものが西側との合弁の店

などに追われて少なくなった上に、「ベリョースカは高いから」などという口実でバ

スをベリョースカにはつけずにそういうあやしげな店に回すことが多くなりました。

「美術品」などは値段があってないようなものですから先方にしては好都合なのでし

ょうが、こちらは困ります。1包み80カペイカの紅茶だとか、1個2ルーブルの小さ

なマトリョーシカといったたくさん買って皆にあげる式の安いお土産がすっかり手に

入れにくくなりましたから。

 この「展示場」の入り口にもやはり大勢の子どもがたむろしていて、バスが着くな

りまつわりついてきました。

 

 その次はこの町の観光のメインメニューである製材コンビナートです。広大な敷地

に工場群があるのですが、この日は土曜日で操業していないためよけいだだっ広く感

じられました。それで見学したのはエニセイの川岸の積み出し施設とコンビナートの

文化会館。会館には工場の製品の家具が展示されていました。こういうところでも単

に木材を売るのではなくて、付加価値の高い商品の生産へと向かっているようで、木

質繊維板とか家具などを最近になった作り始めたようでした。文化会館に展示されて

いた戸棚,机,椅子,ベッドなどの家具はイタリアとの提携によるものとかでシンプ

ルではあるけれどデザインとしてもそれなりにあか抜けしたものでした。でも、ガイ

ド嬢はコンビナートからの帰途のバスの中で、自分の給料の2年分もの値段なのでと

ても買えないと言っていました。やはり、ちょっと気のきいた商品になるととても買

えない多数者とそんなものを買の何でもない少数者の分化が急速に進んでいるようで

す。

 

 そう言えばこの船にはヨーロッパからと日本からの観光客の他に親子3人のロシア

人の家族が1組だけ乗っています。挨拶をしても儀礼的なのが帰ってくるだけで、外

国人の客とは殆ど交流がないので素性はわかりませんが、おそらく新興資本家か何か

の家族なのでしょう。我々が払ったのよりずっと安いヨーロッパ側の価格でも1人2,

000ドル、2,000,000ルーブル近い値段でロシア人の平均給与の3年分ぐらい、それを

子供1人を含むとはいえ3人分払うわけですから。

 

 そのあと市の博物館に寄って船に戻りました。17時30分出航。

 

 18時半、夕食。ソーセージを浮かせた一風変わった味のスープが出ました。メイン

は何かの魚を照り焼きのように揚げたもの(矛盾した表現ですね)にグリーンピース

とじゃがいもを添えた料理。デザートはシナモンの味つけをした焼き林檎でした。

 

 あとで書く事情でイルクーツクのレーナに渡すつもりの手鏡が手元に残っていない

ので、やはりレーナのところへ立ち寄ったときのために買っておいたキャンデーの缶

のうち1缶はこの晩サーシャのところへいくときの手土産にすることにしました。で、

アントンのところへ持っていくつもりのもう1缶は船の中でウェイトレスやメイドを

している女性達に渡してもらうことにして、夕食が終わったあと売店に行ってアンジ

ェリカに託しました。サーシャのところへキャンデーの缶だけというわけにはいかな

いので、バーへ行ってワインを1本買いました。銘柄はツィナンダリだったかグルジ

アニだったか忘れましたが、とにかくグルジアの紛争以後日本では手に入りにくくな

ったグルジアワインが棚にずらっと並んでいました。

 

 21時半、上甲板のディスコバーで、「船員によるショー」。もちろん出演はせんだ

っての「北極圏越え」の儀式に出てきたあの芸達者の一座です。これがパントマイム

をしたり、寸劇を演じたりですが、そのおかしいことと言ったら見にきていた船長

(彼は毎回見ているのではないかと思うのですが)も含めて会場にいるみんながおな

かをかかえて大笑いするほどで、仕事中のウェイトレスのエラやマリーナも笑いをか

み殺すことができないといった風でした。ことにおもしろかったのは「馬の曲芸」と

「映画スタジオで」という2つのタイトル。

 前者は、モスクワサーカス(ボリショイサーカス)などで舞台(といってもサーカ

ス小屋では中央の円形の部分ですが)に馬を走らせて曲乗りをするのをご覧になった

方も多いと思いますが、馬3頭のかわりに食堂の粗末な椅子3脚を置いて、そこであ

たかも走っている馬上でするような「曲乗り」をするのです。もちろん「剣の舞」か

何かのBGM付きで。これがもう迫真の演技でほんとうに椅子が馬なのではないかと

思えるくらいです。

 「映画スタジオで」は、人妻が間男と密会している現場を夫に見つかって男は夫に

よって射殺される場面を撮影するという設定で、登場人物は監督、助手、カメラマン、

それに俳優。それで、ひと通り撮り終わると監督がNGを出して「ダメダメ、もっと

悲しそうに」というと今度はキャストだけでなくカメラなどのスタッフも含めて極端

に悲しそうに演技をする。当然また「駄目」がでて今度は「そんなに悲しそうにでは

なく」と言われると今度は極端に楽しげにやるという具合で、「もっと遅く」だの

「速く」だの何度も繰り返すのですが、最後まで少しも飽きさせずに見せてくれまし

た。

 

 23時、キャンデーの缶とワインをかかえて主甲板のレセプションでサーシャを待ち

ました。今まで気づかなかったのですが、レセプションの後ろキオスクとの間に階下

に下りる階段があって下のフロアーが船員の居住区になっているようです。そこから

先日のロシア語の先生、そう、お掃除おばさん兼歌手の彼女が出てきて「お休みなさ

い」の挨拶をして通り過ぎて行きました。

 

 

 

 

(23) サーシャの船室を訪ねる

 

 約束の23時をほんの少し回った時間にレセプションにサーシャが現れました。さっ

き気づいた階下への狭い階段を下りると船員の居住区です。サーシャの部屋へ行く途

中で意外な人に会いましたが、それは次回に書きます。迷路のような通路の奥にサー

シャの部屋441号室がありました。

 

 彼の船室は私達の客室とほぼ同じ大きさの部屋で、2段ベッドが置いてあって2人

が共同で生活するようになっています。部屋を訪ねたときは彼だけしかいませんでし

たが、その後同室の人や彼の仲間が入れ替わりたちかわり出入りしたので、結局その

うちの誰が彼の同室者なのかは私にはわからなくなってしまいました。

 

 ウクライナのニコラエフという都市を私は知りませんでしたが、有名な海港オデッ

サから100kmほどのところにある大きな都会都市らしい。 彼らの通う大学はマカロフ

名称(記念)ニコラエフ造船大学という名前ですが、このマカロフというのは1905年の

対馬沖の海戦で戦死した提督の名前だと言っていました。日露戦争史に詳しいどなた

か、そういう名前の提督が日本海で戦死していますか?その提督がウクライナのニコ

ラエフ出身だったのでしょうか。

 

 同じ大学から10人がこの船に乗り組んでいて、3人が機関室で、7人がマドロスとし

て働いているそうです。 また女子学生も2人乗っていると言っていたけれど、私は水

夫姿の女性を見たことがありませんから、彼女達は機関室にいるのでしょうか。また、

彼の仲間の中には結婚していて(あちらは日本に比べると概して早婚で学生結婚は珍

しくない)夫婦で船に乗っている人もいます。サーシャの部屋に寄った仲間の1人が

自分の妻がむこうの部屋にいると言っていました。

 

 サーシャは写真が趣味だと言って自分で撮って自分で焼いたたくさんのモノクロ写

真を見せてくれました。この船内のどこに暗室があるのでしょう。サーシャ達が初め

てドゥヂンカまで下ったのは6月で、そのとき撮ったドゥヂンカ港はまだ一面の流氷

で覆われていました。これはこの部屋の窓から撮ったのだと言っていましたが、主甲

板の更に一層下の部屋の喫水線のすぐ上の丸窓からの撮影ですから、氷が迫ってくる

ような感じの写真でした。わずかふた月前にこんなだったとはちょっと信じられない

風景でした。

 ほかにいろいろな寄港地の風景の写真もたくさんあり、ことにウクライナの人には

やはり珍しいのかタイガの森の写真が少なくなく、そのうちの一、二枚を記念にとい

って私にくれました。機関室や外で作業をしている写真も何枚かあり、その中に川岸

に船からヘンな柱のようなのを渡す作業をしているのがあって、彼は「明日あなたが

たはこうするんだ」と言っていたのですが、意味がよくのみこめず、それがどういう

ことかわかったのは実際翌日になってでした。

 それから先日のレーベヂのようにクルーも上陸するという機会が幾度もあるようで、

そういうところで造船学校の仲間だけでなくウェイトレスなどの仕事についているク

ラスノヤルスクの女子学生とも一緒の写真もたくさんありました。20歳前後の男女が

同じ船で数ヶ月も一緒に仕事をするわけですが、そこには単にロマンスにとどまらず、

愛憎劇というかもう少し複雑な人間関係を生じても何の不思議もありませんね。見せ

てもらった写真にはオクサナやリューバ、ことに我々のテーブルの担当のリューバが

何度も登場するのですが、一緒に同じテーブルを受け持っているリーザの写真は1枚

もなかったから、リーザとリューバはきっと別々の仲良しグループなのです。そんな

ことを考えていると、さきほどの夫婦者の学生も、ウクライナから2人でやってきた

のではなくて、もしかして船に乗ってから夫婦になったのではないかなどと想像した

りしましたが、どうなのでしょう。

 

 サーシャ達がエニセイ川のこの船に来たのは5月で、10月のはじめまで航海(実際

は川ですから何というのでしょうか)があり、その10月のうちにウクライナに帰ると

言っていましたから、もうそろそろ半年ぶりで故郷の土を踏んだ頃でしょうか。船の

勤務は6時間働いたら12時間休むというシフトで、勤務時間が6時間ずつずれていくや

り方。でもそんなにきつくはないと言っていました。

 

 持っていったワインをあけるかと思ったらそれは開けずに、部屋に置いてあるウォ

トカを飲むかというので(私は下戸ですから)これは遠慮しました。そしたら、日本

ではみたことのない種類の果物とリンゴのミックスジュース(かなり濁って濃い味)

をご馳走してくれて、そのあと紅茶と、魚をペース状にしたものを塗った黒パンを出

してくれました。夕飯は済ませてきているからと言ったのですが、ロシア人はいつも

客には食べ物はしつこく勧めますね。ついつい好意に甘えて食べ過ぎます。

 私の狭い経験ですが、ロシア人は食べ物は熱心に勧めるのに、酒は飲めないという

ともうあまり強くはすすめない。日本でのように「まぁ、1杯だけ」だの「つきあい

だから」とかしつこく食い下がられたことがありません。いつでしたかシベリア鉄道

の車中でロシア人の青年達と「宴会」になったとき、「私は酒が飲めない」というの

がロシア語で言えないので「医者が駄目だと言っている」と言おうとして「医者が言

うには..」まで言い出したら彼らが一斉に「ネリジャー(いけないって)」と言い返

してきたことがあります。ロシア人も飲めない人は同じ口実を使うらしい。でも、そ

れでおしまい、あとは絶対にすすめてこないのです。

 サーシャの紅茶の入れ方が面白い。これがどこかの家庭を訪ねたのなら、煮だした

紅茶をサモワールで沸かしたお湯で薄めるのですが、もちろんサモワールを置くスペ

ースがキャビンにあろうはずがありません。果物のシロップ漬けか何かが入っていた

にちがいない大きなガラス製の空き瓶に紅茶の葉(インド産で高価なものだと言って

いました)を入れ、それを給湯室かどこかに持って行きました。部屋に戻ってくるま

でに時間がかかりましたから、もしかすると湯を差しに行ったのではなくて、わざわ

ざ湯を沸かしていたのかもしれません。湯を入れた大きな瓶を持ち帰ると、それを厚

手のバスタオルで丁寧に包んで保温するという気のつかいようです。

 

 彼らと話をするとどうしても話題が日本の工業製品や経済生活のことになります。

持っているカメラはいくらするのかとか、テレビの値段はとか、自動車はという話で

す。私の月給はいくらかと聞いて、それじゃ1ヶ月分の給料より少ない額でここ(エ

ニセイ)まで来れるわけだという話になります。物価が桁違いで、収入の何分の一も

家賃やローンに持って行かれるとか子どもの教育費が目の玉の飛び出るような金額に

なるとかロシア人には信じられないような話もしたいのですが、そんな語学力はなく

もどかしい限りです。

 社会が大きく変動している時期で教会の影響力が強まっているという報道に日本で

も接しますが、サーシャともう1人の友達は自分はキリスト教徒だと言っていました。

あなたの宗教は何かとも聞かれましたが、なにしろこちらは七五三はお宮へ、葬式は

坊さんを呼んで、しかもクリスマスも祝うという“適宜”派ですからこれも返答に困

りました。

 

 サーシャの友達とチェスの「国際試合」を一勝負だけしましたが、長考にもかかわ

らず、これは日本側の負け。見ていた仲間の1人を指して「彼はすごく強い」と言っ

ていましたから、私の相手はロシア側の大将ではなく先鋒だったらしいのに。

 そのあと、サーシャのカメラと私のカメラの両方でお互いの写真を何枚かずつ撮っ

て、1時30分頃でしたでしょうか辞してきました。

 

 

 

 

(24) タチヤーナの思い出

 

 サーシャの船室を訪ねた21日より2日前の19日、上陸したレーベヂの岸や奥の森であ

の素敵なメイドさんをさがした(待った)ことは一度書きました。気のせいでしょう

か、そのとき私の周囲にいたいく人かのロシア人クルーの視線がちょっと皮肉っぽく

感じられたのは。「アントン・チェーホフ」号から救命艇に移るとき彼女を見つけて

一度ならず思いっきり手を振ったら彼女のほうでも手を振り返してよこしたのを誰も

が見ていますから、昨日書いたような小社会ではそれが短時間のうちに噂話として肥

大していくことも有り得ないことではありません。

 

 翌20日の朝の体操のあとキャビンに戻ると船室前の廊下で彼女が同僚と立ち話をし

ているところでした。それで彼女に「写真を撮らせてください」とお願いすると「私

を?」とちょっとびっくりした様子でしたが、応じてくれました。でも、一緒にいた

人は私の知らない人ということもあって、写真は彼女だけにお願いしたから、もし上

の噂話があったとしたらさらに火種を提供することになったかもしれません。

 それはともかくとして、日のあたっているほうの舷側に出て数枚の写真を撮りまし

た。そのときは薄いグリーンのワンピース型の制服姿で、掃除などの作業時にはこれ

を着ているようです。

 私は写真を撮るといつも住所と名前を書いてもらってあとで送るようにしており、

この時もメモ帳を出して書いてもらいました。彼女はクラスノヤルスク市に住んでい

て、タチヤーナ・ゲンナジエブナ・ラスコーリニコヴァという名前ですので、ふだん

は「ターニャ」さんとよばれているのでしょうか。ちょっと興味をそそられたのは姓

で、ドストエフスキーの小説にラスコーリニコフという青年が登場するのは知られて

いますが、実在の人でこの姓に出会ったのは初めてです。私はドストエフスキーがラ

スコーリニク(分離派教徒)という意味をじゅうぶん意識して作品上で創った姓だと

思っていましたが、ロシアではふつうにある名字なのでしょうか。

 

 ドゥヂンカからかなり南下してきているとはいえ北のシベリアですから、太陽の高

度は高くないことを忘れていました。なのに日のあたるところへ出て逆光にならない

ような向きで写真を撮ったので、彼女にとっては非常に眩しく、極端に目を細めた表

情になってしまいました。写真を撮らせてもらったあとこれがいつまでもいつまでも

気になるのです。もし、もう一度機会があったら撮り直させてもらおうかと思ったり

しました。

 

 その機会は思いのほか早くやってきました。この日の夕食のあと21時前でしたでし

ょうか、例のトレーナーを買いに主甲板の売店に行こうとして階段を下りるとレセプ

ションのところで、レセプションの当直の女性と売店のアンジェリカとターニャがお

しゃべりをしています。このときのターニャは、レセプションの人と同じ黒のスカー

トに白のブラウスという制服でした。とりあえずアンジェリカに売店に戻ってもらっ

て買い物を済ませから、もう一度写真を撮らせてほしいと頼んでみました。「なぜ?」

とは聞かれましたけど、今度も応じてくれたので、今度は日が直接当たるところはま

ずいと思って日の当たってない側へ出てやはり数枚を撮りました。こんな時間でも昼

間のようにじゅうぶん明るいのです。このとき彼女が「太陽の向きが..」と言ったの

ですが、実際私が壁側にいて彼女が舷側の手すりのところという位置関係で撮ったの

で焼いてみるとひどい逆光の写真になっていました。結局撮り直しのも含めてきれい

に仕上がった写真はなく、日本製の写真材料なので現像段階で辛うじて救ってもらえ

たという程度のものでした。

 

 この写真を撮ってお礼を言うと彼女が「貴方はロシア語が読めますか」と聞きます。

もちろん駄目ですからそう答えました。彼女がそう聞いたのは私に本を贈りたいとい

うことだったので、重ねてロシア語は読めないというと、写真の多い本なのでそれを

見ればいいと言って、今自分の部屋へ取りにいくからと行ってしまいました。

 どうも、前日にチップ代わりにあげた電卓のことを気にしているのかもしれません。

この間のドゥヂンカでのピオネールの子ども達や引率者風の大人もそうでしたし、イ

ルクーツク行きの機中で知り合ったブラーツクの男の子もそうだったように、ロシア

人は好意をすぐに贈り物の形にすることが多い。それも月収と比較すると結構な値段

のシャンペンをまるごと1本とか、初対面なのにこんなものまでもらっていいのかと

いうことが少なくありません。これまでにも、車中で仲良くなった若い男性から電気

剃刀一式を贈られたとか、これはロシア人でなくアゼルバイジャン人ですが、折り鶴

のお返しにアルメニア・コニャックとロシアのウォトカ1本ずつがきたなどというこ

とがあり、こちらのほうが焦ってしまいます。

 こちらもただ貰いっぱなしにはできないので、イルクーツクのレーナに会えたら渡

すつもりだった手鏡をお返しに上げることにしました。本を持って部屋に来てくれた

ときにその手鏡の入った包みを差し出すとちょっと困惑した表情になりましたが、で

も受け取ってくれました。

 本は写真集といってもちょっと学術的なもので、イルクーツクなどシベリア地方の

民家の窓に手彫りのレース状の飾りがついているのはご存知の方が多いと思いますが、

クラスノヤルスク地方の窓飾りを集めて分析した本でした。私にとっては宝物みたい

なもので、スーツケースの奥深くに大事にしまって持ち帰りました。

 

 この本の見開きのところに彼女が「『アントン・チェーホフ』号でのエニセイの旅

の思い出に」と書いてくれてあったのですが、肝心の彼女の署名がありません。今度

はこれがまたいつまでも気になるのです。彼女が部屋の掃除などに来るのはこちらが

上陸しているときとかレストランで食事をしている時なので、このあと会えるかどう

かもわかりません。それで翌21日の夕食に出るときに、テーブルの上に本とボールペ

ンを置いて、「“ターニャ”ってサインをしてください」と書き置いて出て、食後に

部屋に戻るってみると“タチヤーナ”の署名が添えられていました。

 

 レーナに渡すはずの手鏡がないとなると残っているのはキャンデーだけなので、そ

れだけ持ってというのは変ですし、第一レーナにもアントンにも会える保証がないわ

けですから、このキャンデーも船で世話になった人達にあげることにしました。で、

1缶は昨日書いたようにサーシャの仲間達、つまりウクライナから来た学生達に、そ

してもう1缶はクラスノヤルスクから来ている学生達にお礼として渡そうということ

に。

 それで、21日の夕食後に1缶だけもって売店に行って、アンジェリカにみんなで分

けてほしいと頼むことにしました。でも、語学力の無さからこれがなかなか伝えられ

ないのです。苦労してやっと「これのほかにもう1缶あって、それは今夜11時に私が

自分で441号室に持っていく」と言うと、彼女なんと「タチヤーナのところに?」とと

んでもないことを言い出すのです。やはり噂になっていたらしい。

 

 この晩23時にレセプションでサーシャと待ち合わせて彼の部屋を訪ねたのは昨日書

きましたが、あの細い階段を下りて迷路のような通路に出たところで日本の高校生も

着るような柄入りの赤いパジャマ姿のターニャに会いました。彼女もびっくりした様

子で、「お休みなさい」と言うと「お休みなさい」という不機嫌そうな返事が返って

きました。これが今回の旅で彼女と言葉をかわした最後の機会でしたけれど、クルー

の居住区に行ってたまたま廊下で彼女だけに会ったというの、偶然にしては少し出来

すぎのような気もしています。

 

 ドゥヂンカで乗船したとき、彼女達は受け持ちの階に立って歓迎をしてくれました

ので、クラスノヤルスクでの下船のときも同じ場所で見送ってくれるものと思ってい

ました。でも、乗船時には案内が必要だが下船の際にはそれが不要だからか、あるい

は23日の下船が早朝でメイドさん達はまだ寝ていたせいか、それともヨーロッパの客

より日本人が1日早く下船してしまったためか、いずれにせよ船を下りるときに彼女

には会えずお礼も言えませんでした。

 彼女の姿を見たのは、下船の前日、船長主催のパーティーに行く途中でレセプショ

ンのところでやはり同僚と話をしているところを見かけて互いに軽い会釈をかわした

のが最後になってしまいました。

 

 23日の早朝にキャビンを引き払うとき、「スパシーバ(ありがとう)」と「ダ・ス

ビダーニャ(さようなら)」の2語だけを書いたメモと折り紙の束から金色のと銀色

のを抜き出して折った2羽の鶴をテーブルに置いてきましたが、ターニャが見てくれ

たでしょうか。

 

 

 

 

(25) 船での最後の一日

 

 8月22日(金) 「アントン・チェーホフ」号での最後の一日。ゆうべよく眠れなかっ

たのに、朝6時半頃目が覚めました。久しぶりに曇の天気で、こうなるとさすがに空気

が冷たく感じられます。

 

 7時半、朝食。食事のあとでデッキに出てみると、サーシャ達がもう甲板洗いの仕事

についていました。

 

 9時半の体操の時間までキャビンに居て、時間前にまたサンデッキに出ました。この

日の体操は、簡単なウォーミングアップの後はゲーム形式で、甲板に置かれた小机の

上で賽子を振って、出た目によってやることが違うというものでした。具体的に言う

と、1が出たらジョギングで船内一周、2ではサンデッキと上甲板の間の階段の昇り

降り4回、3は煙突の回り5周、4は斜め懸垂10回、5は腹筋5-10回、6がでるとお

休み1回。そしてどれか1つの種目を6回やるか、あるいは1〜6を少なくとも1回

ずつこなせば上がりということで早く上がった人から順位がつくという仕組みです。

そう、お気づきの通り6を6回続けて出すと何もしないで上がれるのですが、私はと

うとう最後まで6は一度も出なかったのであの賽子はイカサマではないかと疑ったく

らいです。

 

 10時半、船はターシキノの岸に碇を下ろし、昨晩サーシャが見せてくれた写真にあ

った木製の角柱を岸に渡したかと思うとその上にたちまちタラップを組み立てて船か

ら直接歩いて岸に上がれるようにしてしまいました。船が接岸した右岸の対岸、つま

り左岸側には集落が見えるのですが、こちらはただの原っぱとそれほど密でない森が

見えるだけです。でも、原っぱにはフットボールのゴールのような木枠が置いてあり

ましたし、草地も林もかなり人の通ったあとがありました。また脅かされていた蚊も

いません。

 レーベヂのときと違ってロシア人スタッフは殆ど下船してきませんでした。おそら

くここには茸などがないのを知っていてなのでしょう。かろうじて自由時間の終わり

近く船にもどろうとする時に、制服姿のしかし見覚えのない女性が野の花を摘んでい

るのに出会ったぐらいです。

 大勢の観光客が歩いていく方向から離れて徳山さんと2人で森の中を散歩したあと

川沿いに少し下流のほうに歩いてみました。私たちのさきのほうを例のロシア人の3

人家族だけが歩いていました。途中であの体操を指揮しているロリフを含む数人がか

なりの速さでジョギングをしてくるのにすれ違いました。もう何度目かの「寄港」

(港はないですが)で、そういう周回コースを彼は知っているのですね。その先には

農家(もしかして夏用の小屋?)が1戸だけあって、そのときには近くに人がいる気

配はありませんでしたが、十数頭の豚が一生懸命餌を食べていました。

 

 11時45分に船に戻り、12時に昼食。チーズ,キャベツ,キュウリのサラダ。すりつ

ぶした挽き肉と何か(?)をこねて油で揚げた食べ物にきしめんみたいなヌードルを添

えたメインディッシュ。生クリームを添えたチョコレートとバニラのアイスクリーム。

 

 食事のあとは、15時から短時間、機関室と厨房の見学に行った以外はキャビンとサ

ンデッキで過ごしました。相変わらず曇っていて風が冷たく感じられます。それでお

なかを冷やしてしまったようで少し具合がよくない。

 川幅も日本の川で見られる程度には狭くなってきていますが、それでも水量は日本

で見てきた河川より多いようです。両岸に、樅の木はすっかり影をひそめ、松、それ

にところどころ白樺が見えます。中州には牛が放牧されていたり、川岸のまばらな木

々の向こうは広い耕地だったりして、もう中部ロシアと言っても通用しそうな風景が

広がっています。川面にはエンジンを止めたモーターボートがいてじっと釣り糸を垂

れていたり、あるいは全速で疾駆するボートとすれ違ったりします。

 

 機関室は油まみれの機械室を想像していましたが、大きな音はたてているものの整

然とした無人のエンジンルームとその全体を見渡せる位置にある小さなコントロール

ルームとから成る構成です。コントロールルームには無数の計器とスイッチがあるの

に、ほとんど当直1人で対応しているようでした。エンジンルームに通じる小さな扉

を締め切るとエンジン音も遮られて相手の話がじゅうぶん聞き取れるほどになります。

 厨房も作業後には丁寧に磨き上げられているようで清潔な感じがしました。説明に

あたったドイツ人の料理長は、乗客・乗員分あわせて1日に四百数十食(バイキング

形式の朝食は勘定に入れずに)をつくると言っていました。我々のレストランの他に

船内のどこかに船員用の食堂がある筈です。厨房に隣接してパン焼き窯の小さな部屋

があり、焼きたてのパンの香ばしいかおりが漂っていました。また、肉,野菜,乳製

品などそれぞれ専用の食糧庫も扉を開けて見せてくれました。調味料の倉庫には段ボ

ール入りの「キッコーマン」が何箱か置いてありました。

 

 この日だけは早めにシャワーを浴びて18時からのキャプテン・ディナーに臨みまし

た。乗船した日と同じくウェイトレスの人達は民族衣装姿になっています。いつもは

バーで働いているオクサナも応援にかやはりこちらへ来ていました。レストランの入

り口には大きめの「募金箱」が置かれてクルーへのチップを入れるようになっていま

す。そこを過ぎると介添え役のリューバからシャンペンのはいったグラスを受け取り、

船長をはじめ船や旅行社の主だったスタッフと挨拶を交わしてから席に着くようにな

っています。ロリフも勿論そこにいましたし、通訳の本山さんもこのときはスタッフ

側です。

 「最後の晩餐」ですから、メニューもちょっと豪華で、ザクースカ(前菜)は小さ

なブリヌィ3つのそれぞれに、みじん切りのゆで卵、生クリーム、キャビアをのせた

もの。スープは、赤かぶをたっぷり使いニンニクをじゅうぶんにきかせたボルシチ。

メインは、ビーフステーキ(これは「ロシア風」ではなく肉が柔らかい)にマッシュ

ルームのソースをかけたのと、インゲンのベーコン巻き、ポテト、トマトとコーンを

添えたの。デザートは3段重ねのアイスクリームをブランデーで浸した台にのせて火

をつけたもので、一説によるとこれは船旅の終わりの時に恒例のものだとか聞きまし

たが、そうなのでしょうか。

 レストランでずっとお世話になってきたリーザとリューバにはお礼に例の電卓を一

つずつ差し上げました。

 

 この頃になると両岸の景色もめまぐるしく変わるようになってきました。ずっと続

く集落や川沿いに伸びる道路があるかと思えば、切り立った崖になったり、迷路のよ

うに分岐する水路の周辺が根元まで水没した潅木の群れだったりです。耕地もぐんと

広くなって人の営みが活発なことをうかがわせています。はるか向こうの地平線のか

すみのような雲の中に没していく小さな夕日も印象的でした。

 20時半頃、突然船は大量の川霧に包まれました。川面に冷気が流れ込んだのでしょ

うか。ことに主甲板など低い位置にいると両岸が見えかくれし、幻想的な雰囲気にな

ります。舳先では「アントン・チェーホフ」の銘のはいった鐘をつるしてある金属製

の柱に風にたたかれたロープがぶつかる音が単調なリズムを刻んでいて、その向こう

には霧のほかに何も見えないのに船がどんどん進んでいくのはちょっと不思議な気さ

えしました。川霧の向こう、ちょっと小高くなった右側の岸のちょっと遠めのところ

に教会のシルエットが見えたりしてますます絵のような眺めになりましたが、やがて

霧は薄らいでいきました。

 

 22時すぎからディスコ・バーで最後のパーティー。はじめ今朝の体操の「表彰式」

があり、参加者十数名全員にシャンペンが1杯ずる振る舞われました。もっともタダ

ではなくて、その前に先日の輪になっての「月曜日、火曜日、..」の体操をひと通り

やってからでしたが。そのあと各国別の出し物というのもあって、私たち日本のグル

ープを代表して石山さんの奥さんが浴衣姿で日本舞踊を見せてくださいました。さす

がにこのときは場内シーンとなって、石山さんが演じ終わると大きな拍手。やはりヨ

ーロッパの人には珍しかったのでしょう。

 

 あと数時間でクラスノヤルスクの河港です。

 


 

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