エニセイ紀行 (1993)


 

(16) 朝の体操

 

 8月19日(木)、朝6時半頃に一旦目が覚めたのですが、まだ日が出ていません。もう

ずいぶん北へ来たんだなということを感じさせます。天気は快晴でした。私たちと入

れ替わりに船を下りた人達は川くだりの間に晴れの日は1日しかなかったと聞きまし

たが、これも運なのですね、大違いです。吹いてくる風はかなり涼しいのですが、陽

射しは強い。

 

 8時に朝食をとりにレストランに行き、その後またサンデッキに上がってみました。

 デッキのテーブルの上にラジオを置いて聞いているヨーロッパからのお客が、こち

らが日本人だとわかるとそのラジオをさして「SONY」なんて言ったりします。先

日も書きましたけど、日本製品の“権威”はすごいですね。

 気のせいか川幅は以前より少しせまくなっている感じですが、両岸は相変わらず深

い針葉樹林です。材木を組んだ大きないかだを曳く汽船とすれちがったりします。

 すこしあとになってわかったのですが、右岸の川べりに見えている倒木か流木みた

いのはみんなこのいかだから抜け落ちて流れ着いたものだそうです。しかし、それに

してはおびただしい量で、輸送のおおまかさというかずさんさというか、私など日本

人の感覚ではちょっとついていけない感じです。

 

 9時半からサンデッキで朝の体操。その前に、ロリフがカセットデッキを持って船内

を歩いていたので何だろうと思っていたのですが、これの準備だったのです。日本の

ラジオ体操なら、それこそ「一、二、三」というのにそのままピッタリ合った伴奏が

つきますね。ロリフは、CDを数枚持ってきて、軽くからだを動かすのや、柔軟体操

や、ストレッチなどその時々の種類に合わせて曲を変えるのですけれど、どれも全く

そういうリズムとは関係ない曲なのです。昨晩のあの合唱といい、この体操といい、

旅のいいところはそうした「文化」の違いを膚で感じて自分達自身のことをあらため

て見直したりできることでしょうか。

 でも、体操そのものは決して軽いだけのものではないし、ラジオ体操みたいに短時

間で終わるものでもありませんでした。はじめのうちは手をブラブラって動かす程度

だったから「なんだ」なんて思っていましたが、次第にきついのに移り、ヨーロッパ

側のお客の中にレオタード姿やTシャツに短パンという人がいたのはこういうことだ

ったのかと理解しました。ストレッチの時には、もちろんロリフがそれにふさわしい

やわらかい曲を流してくれて、そこに涼しいというよりちょっとだけ冷たい川風が肌

にさわって通り抜けていくのがとても気持ちよく感じられました。

 体操の仕上げは我々のところでいう「スリー・クッション」。うちのクラブの生徒

達がよくやるのですが、みんなで手をつないで輪をつくり、「一、二、三、二、二、

三、....」とかけ声をかけながら、「一、二」のところでは軽くスキップしていて

「三」では深くしゃがんでまた立ち上がるというあれです。これを何十回ということ

になるとちょっとした「お仕置き」です。船のも手をつないで輪をつくるところまで

は同じですが、かけ声ではなく皆で歌を歌いながらします。ドイツ語の歌なのでなか

みは全くわかりませんが、ある決まった歌詞のところと、「*曜日」というところで

深く腰を落とす。「月曜日」のあたりはいいのですが、あとへいけばいくほど「月曜

日、火曜日、水曜日」と続けざまにしゃがんだり立ったりをしなければならなくなっ

て大変です。腰を落としてはいけないところで落としてしまう人がでたりして大笑い

しながらやっているうちに「日曜日」までいきついてしまいました。

 

 体操が終わってキャビンに戻ると、あのドゥヂンカでの子供達との交流のときにや

はり船室の掃除をしてくれていたメイドさんが洗面所を掃除をしてくれていました。

いつも日に二度、ベッドを組むときとたたむときに来てくれて室内と洗面所の掃除を

して、バスタオルを交換して行くのですが、朝のは私たちが上陸して観光に出ている

とき、夜のは夕食をとっているときですので、殆ど会うことがありません。この日は

午前中に観光が用意されていなかったので。で、彼女に「毎日あなたがしてくださっ

ているのですか」と尋ねると「ダー」という返事でしたので、チップがわりに例の電

卓を一つ差し上げました。笑顔のすごく素敵な人です。

 

 その後もサンデッキにいて何をするでもなくボーッとしていました。空には雲ひと

つなく、しかもその空の色がぐんと濃いんですね。前日のツルハンスクとその少し上

流のあたりはロシアのヨーロッパ部と極東との航空路にあたっているらしく、上空に

いく筋もの飛行機雲ができていくのが見えましたけれど、ここではそんなこともあり

ません。

 

 13時半、昼食。やはり唐辛子をきかせた今度はトマトのスープ、豚肉のフライにコ

ーンと赤カブを添えそれにゆでた馬鈴薯を少し煮崩したものを付け合わせた料理で、

デザートはバナナのパウンドケーキでした。

 

 14時、ほんの一、二戸の粗末な家屋の屋根が小高い岸の向こうに見えるだけの村と

も言えないような場所の沖で「アントン・チェーホフ」号は停船しました。

 

 

 

 

(17) レーベヂ

 

 船が止まったところの岸辺の村はレーベヂという名前です。出発前にもらった日程

表には入っていなかったのですが、こうして当初の予定と違うところに変更になるの

は川の水深が変化して寄港できないせいだという説明でした。でも、村に桟橋がある

わけではなく、また救命艇を降ろしての上陸です。しかも、岸の砂地には椅子とテー

ブルをつくりつけた木づくりの簡素な休憩施設、それも最近作られた様子のものがあ

りますからこの説明が本当なのかどうかはわかりません。

 

 ここでは魚のスープ(ウハー)を振る舞ってくれることになっていて、艇は乗客を

運ぶ前に鍋だのたくさんの皿だの缶ビールだのジュースだのを積み込んでいました。

ディスコバーのウェイトレス、マリーナがふだんのユニホーム姿でなく私服で艇に乗

り込んでいきます。実はこの日の上陸は乗客だけでなく、非番のクルーも遊んでいい

ということになっているらしいことはすぐあとになってわかりました。

 

 私はわりにあとのほうの順番で艇に乗りましたが、その時タラップより舳先の側に

私の部屋の担当のメイドさんの姿をみつけました。向こうも気がついたので、手を振

るとあの笑顔で手を振り返してくれました。彼女も制服でなく紺色のデニムの生地の

上着姿でした。彼女達は乗客のあとで上陸して、勿論ウハーなどには目もくれず、は

じめは岸の上の廃屋の脇の木のところで木の実を摘んでいました。

 

 ウハーは、いろいろな人の旅行記を読むと、日本人には生臭いうという理由でわり

に人気のないものなので、食べ物ならどんなものでも試す(そのかわりアルコールは

駄目です)私も今回ははじめからパスしました。それで、その砂地の浜には長く居ず

に岸の斜面を上がると、少数の廃屋があるだけでその廃屋群の後ろは荒れ地、さらに

そのさきは少し小高くなっている森になっています。ただ、最初の建物のあたり火を

たいた様子があってここが全くの無人の村ではないことをうかがわせていました。

 

 そのあたりの小径を歩いているとレストランのリーザ達がやはり木の実を摘んでい

て、私達に気づくと何粒か手にのせてくれました。紫色の小さな実ですが、ちょっと

酸味があって美味しい。ロシア人は「森の民」で、どこにどういうものがあって食べ

られるのかよく知っている様子です。男の船員の中には川で釣りをする人もいました

けど、やはり森の中に入って行った人が多いようです。お返しにリーザと同僚のスヴ

ェータがヨーロッパからのお客と並んでいる写真を撮りました。

 

 あ、写真のことを言うと、このレーベヂからあとの写真は無事でした。旅のはじめ

から36コマを撮ってしまったので、フィルムを交換した際、電池室が裏蓋の内側にあ

るのに気づいて、これはフィルム交換のときでないと電池も交換できないと思い、念

のためバッテリーチェックをしたら電池が切れていることがわかって交換したからで

す。でも、それまでもシャッターは下りていましたから、このときにはまさか1本ま

るまる駄目になっているとは想像もしませんでした。

 

 リーザ達の写真を撮っていた頃、東山さんは私の初めて見るロシア人の男性としき

りに話をしています。やはり、ここで生活している人がいたのです。で、東山さん達

は彼が生活している家に一緒に行くことになったのですが、私はさっきのメイドさん

の写真を1枚撮りたいと思って、一緒に行かず彼女をさがしました。

 さきほどの廃屋の脇の立木のところにはもう誰もいなくて、荒れ地の向こうの森で

大勢の人の声がします。彼女がそっちにいるのかそれとも船に戻ってしまったのかわ

かりませんが、とにかく荒れ地を突っきって森のほうへ行ってみました。ここで皆は

何をしているのだと思います。そう、茸採りなのです。でも、森に慣れている彼らと

違って私には「声はすれども姿は見えず」でいったいどのあたりに誰がいるのか見当

もつきません。

 

 荒れ地とは言っても、短い夏の間に一気に咲いてしまわなければならないからでし

ょうか、いろいろな種類の野草が花をつけています。茨のようなトゲのある植物に気

をつけながら道らしい道もないところを夏の陽射しを浴びながら歩いていたら、ここ

では蚊の格好の餌食になりました。それほど大きな羽音はたててこないのですけど、

何ヶ所も刺されたらしく、ところどころ赤く腫れ上がってしまいました。虫よけは塗

ってあったのに。

 

 結局、蚊の餌にはなり、彼女はみつからないということで、岸にもどってそこで待

ってみましたが、現れない。だいぶ待ったあとでもう一度荒れ地を横切って森の方へ

行ってみた(すごいですね、この執念)のですが、今度はもう人の気配すらまばらに

なっていました。で、やはりきっと早くに船に帰ったんだと思ってあきらめて、これ

も乗客の中ではおわりのほうになりましたが、救命艇で船に戻りました。私よりあと

だったのはあのロシア人と長いこと話してこんでいた東山さん達のグループぐらい。

東山さん達がこちらの船のタラップを上がると、そのロシア人、モーターボートで船

に近づいて挨拶をしてから遠ざかっていきました。きっとすごく懇意になったのでし

ょう。

 ところが、そのあとで、向こう岸にメイドさん達のグループが姿を見せるではあり

ませんか。少し下流のほうの薮から出てきたのですが、バケツにいっぱいの茸を入れ

ています。時間ぎりぎりまで粘って茸採りをしていたとは。

 

 さて、東山さんのほうはかのロシア人からいろいろな話が聞けたらしく少し興奮気

味です。「石川さんもくればよかった。すごくいい話が聞けたのに。」と言ってくれ

るのですが、私のほうは「もう少し遅くまで戻らずにいれば」などとアカデミックで

ないことを考えておりまして..。

 

 ええ、あちらはアカデミックなのです。彼(そのロシア人男性です)はモスクワ大

学かどこかを出た研究者で、渡り鳥の研究のためにこのあたりに常駐しているのだそ

うです。村に人の気配があったのはそのせいでした。その人の説明だと40年前までは

ここにコルホーズがあって商店も学校もあったけど、その後数十km下流のバフタのコ

ルホーズと統合されて今は廃村になっているということでした。「レーベヂ」という

村の名前は「白鳥」という意味(そう言われてみればバレエ「白鳥の湖」は「レベヂ

ーノエ・オーゼロ」でしたっけ)で、白鳥の飛来地にあたり、研究員が4月〜1月の間

滞在しているんだそうです。

 しかし、このところの急激な市場経済化で研究者の生活は難しくなり、この仕事か

ら離れていく人が多いとか。研究所も予算を研究ではなくて観光事業に振り向けたり

していて、彼自身の月2万ルーブルという平均賃金の半分程度の給与も今年になって

一度も支払われていず、研究小屋のまわりの小さな畑でじゃがいもを栽培してそれを

食べているということでした。バフタにある研究施設のパソコンも研究所のでなく、

彼の私物で、彼の首を切ればパソコンが使えなくなるので、研究所を首になることは

ないだろうと言っていたそうです。

 市場経済というと聞こえはいいけど、こうした地道な仕事にはお金がまわらなくな

ります。日本でもそうですよね。

 

 彼のモーターボートが下流のほうへ姿を消してだいぶ時間がたった19時頃、碇を上

げた「アントン・チェーホフ」号は再び動き出しました。

 

 

 

 

(18) 真夜中の怪事

 

 レーベヂの村に研究員がいるとは言っても「村民」とは言えませんから、これは事

実上の無人の村。それでも地図の上できちんとみつけることができます。ということ

は、この流域で地図上に何も記載がない部分はほんとうに村も部落もないということ

です。そう思ってもう一度地図に目をやると一つの村から次の村までの距離の長いこ

と。航行している船に乗っていて数時間から半日以上も両岸にまったく集落をみかけ

ないというのもじゅうぶんうなづけます。

 

 19時半、映写室で映画。シベリアのトナカイ飼育にあたる女子青年を描いたものの

ようですが、例によって言葉がわからずで...(それなら見なきゃいい?)

 

 あ、船内での行事といえば、ノートにはっきりした時間が書いてないのですが、こ

の日に読書室で1回目のロシア語教室があったように記憶しています。講師はあの北

極圏越えの儀式で芸達者ぶりを見せた「一座」のうちのひとりガーリャだったと思い

ます。ロシア語のアルファベットの発音から簡単な挨拶まで。外国語というのは音(オ

ン)そのものが日本語にないものがあってこれは聞き分けるのも難しいから当然発音し

わけることも難しくて苦労します。でも、この日は日本人グループの殆ど全員近くが

出席して生徒数が多すぎたせいでしょうか、ガーリャはあまり矯正をせずに「それで

いい」とすませてしまうふうでした。

 

 20時半、夕食。スモークサーモン・ハム・塩づけ肉の薄切り・生野菜の前菜、メイ

ンはなんと焼きうどんで、中国製の割り箸が添えられていました。デザートは苺のム

ース。デザート以外は無料でおかわりができるので、焼きうどんを2人前食べました

が、やはりこれはちょっと食べ過ぎ、あとが少し苦しかったですね。川を下ってきた

グループもあったから我々が初めてではないでしょうが、箸をあやつる日本人を見て

ウェイター、ウェイトレスの諸氏、どんなふうに思ったでしょうか。

 

 夕食を終えた21時半にはすでに日は沈んだあとでした。やはりかなり南へ来ている

といことになります。

 

 前の晩遅くまで起きていた人達が星がとてもきれいだったと言っていたので、この

夜はひとつ暗くなるまで起きていてみようと思いました。2年前に新潟からウラジオ

ストクに渡る船で見た夜空がそれこそ満天の星だったことを思い出してあれをもう一

度見てみたいと思ったからです。小さい頃生活していた鹿児島の片田舎ではあのよう

な星空は珍しくもなんともなかったのですが、都会どころか地方まで夜が明るくなっ

てしまった昨今ではすっかりご無沙汰です。私は生徒達の天文学の授業の野外観測の

付き添いで野辺山とか八海山に一、二度行ったことがあるのですが、そこで天の川を

初めて見たという生徒もいるくらいです。でも、あの日本海の真ん中で見た星空はそ

の比ではありませんでした。空に隙間なく星屑が散らばっているという感じでしたも

の。その船に、提携先のウラジオストクの大学での夏季研修に行く高校生がおおぜい

乗っていたのですけど、彼らがどんなに感激していたかご想像ください。

 

 ところが日が沈むのと空が真っ暗になるのとはまったく別で、いくら時間がたって

も北(西?)のほうがうっすらと明るく、あの満天の星という空にはいっこうになら

ないのです。気温はさがってきますから、キャビンに行ってウィンドヤッケを着込ん

だり、また部屋に行って待機したり..。12時近くなってだいぶ暗くなってきたので、

サンデッキに出てデッキチェアーの背もたれを殆ど真横になるくらい思いっきり倒し、

あたりに誰もいないのをいいことにテーブルの上に足を置いて仰向けになり、星の数

が増えていくのを眺めていました。ヤッケを着ていても風の冷たさが伝わってきます。

 

 ほぼ12時くらいでしたでしょうか、突然うんと明るい照明がつきました。あわわて

てとび起きると、照明は右舷の救命艇のところのもので、こんな真夜中に救命艇を水

面におろしていきます。照明がそこだけを照らすので艇の様子はわりによくわかるの

ですが、何人かの水夫が艇を降ろしたりの作業をしています。水夫の中にあのサーシ

ャも見つけました。いつのまにかは知りませんが、本船は停止状態です。やがて艇に

は3人の水夫と私の知らない女性1人が乗り込み、それにレーベヂでウハーを食べる

のに使ったのではないかと思われるバケツいっぱいの皿を積んで、岸に向かいました。

右舷側の岸(左岸)はまったくの無人のところでないことは所々に明かりが見えるの

でわかりましたが、ボートが向かったのは何もない崖状の川岸。闇夜ですが、船から

サーチライトで照らすので何となく様子がわかります。岸までたどりつくと艇はその

まま川上に移動し、サーチライトがそれを追いかけます。ところが、突然サーチライ

トが消され、向こうで何が起こっているかは見えなくなりました。

 

 だいたいこの船はこれまでも怪しいことがありました。昼間ですが、得体のしれな

いモーターボートが接舷して厨房の人や士官の制服を着た船員と取り引きらしいこと

をしたと思うと船に魚を積み込んだり(この船の食材はヨーロッパから運んでくるの

ではなかったのか)何やら隠すようにして逆にボートに積みこんだり。いま、ロシア

に流行るマフィアがここにもかなどと思ったものです。(ははは、実際はそうではな

かったでしょう。魚はクルーの食事の材料ということもありますし。)

 

 やがて救命艇が岸から本船に戻ってきましたが、3人の水夫は乗っていたものの、

そこには女性の姿はなく、皿もバケツごと消えていました。エニセイの岸で闇に葬ら

れてしまったのか。ボートがサンデッキの元の位置に格納されるまでの一部始終を私

は見ていましたが、デッキに他の乗客はいず、もし見てはいけないものを見てしまっ

たのなら私も闇に乗じてエニセイ川に投げ込まれ川底深く沈められる危険があるので、

このときばかりは周囲に非常に気を配ったことは言うまでもありません。もちろん作

業をしていたサーシャにも声をかけていません。彼がマフィアに関係してたら、やは

り私の運命はさっきの筋書き通りになってしまいますから。

 でも、どう考えてもマフィアとバケツいっぱいの皿とは不似合いですね。

 

 ボートの格納が終わり、照明も消されて、何事もなかったかのように船が動きだし

たとき、私もそっと船室に戻りました。その時もまだ空の星の数はじゅうぶんではあ

りませんでした。

 

 

 

 

(19) ヤールツェヴォ

 

 8月20日(金)。朝7時に目が覚めたときにはもう既に日が昇っていました。この日の

天候ははじめのうち少し曇っていて風も冷たく感じたのですが、そのうちすっかり晴

れました。陽射しはやはり強い。7時半に朝食、9時半にはサンデッキで昨日と同じよ

うにロリフの指揮で体操をしました。10時、読書室でクラスノヤルスクに関する情報

交換会。

 

 その後昼食までの間はまたサンデッキに上がり、昨晩星を見ていたときのようにデ

ッキチェアーを思いきり倒して、ただ時の流れに身をまかせて過ごすという贅沢を繰

り返しました。ただ、連日こういうことをしていて、しかも好天続きですから、この

日ぐらいになるとさすがに日焼けが進んで露出部の皮膚がヒリヒリする感じになりま

した。

 このあたりまでくると以前よりは頻繁に両岸に集落を見かけるようになりましたし、

その集落の建物も小綺麗なものが見られるようになっています。また牧草地や耕地ら

しい場所も時折見かけます。太陽の南中高度もずいぶん高くなっています。

 

 サンデッキにある船の大きな煙突には真新しい青い帯が塗られていてそこにソ連の

シンボルのカマとハンマーが取り付けられています。でも、考えてみると妙です。行

き交う船には煙突にソ連の旗でなくロシアの三色旗を描いたものが多くなっています

し、ソ連の旗を描いたままなら青地ではなく赤地ですから。だいいち、1992〜93年に

改修してソ連のマークというのがおかしい。このカマとハンマー、光沢も古びてはい

ませんでしたから、わざわざ外人観光客向けに残したかあるいはひょっとして作り直

したのではないでしょうか。

 

 12時昼食。前に書いたように昼食と夕食は2交替制ですが、旅の半ばでシフトがか

わり、私達はこの日から前半になりました。赤カブ,コーン,キャベツのサラダ、肉

(一説によると七面鳥とか)を卵でまぶして焼いた料理にスパゲッティを添えたのが

メインディッシュでした。デザートは缶詰の桃と生クリームを添えたアイスクリーム。

 

 昼食後もサンデッキで横になっていると右舷の側(左岸)に出発地のドゥヂンカを

別にすれば最も大きい集落が見えてきました。いく艘ものボートが置いてある川岸が

長く続き、クレーン船も一、二見えます。そして単発ながら飛行機が村に降りていく

のも見えましたから、飛行場もあるらしい。船着き場があれば村の名前がわかると思

って、それがないか気をつけていたら、村のいちばん上流側のはずれに近いところに

浮き桟橋があり、地名を読むとそこが上陸予定のヤールツェヴァでした。

 

 船着き場には決して少なくない数のこども達が集まっています。このあと各地で体

験することになるのですけれど、この子ども達がバッジとか何かを差し出したりペン

やガムをねだったりと観光客にまつわりつくのです。彼らの身なり、貧しいというよ

りも、清潔感がなく、見ていてもなんとも複雑な気持ちになります。だいたいこれま

でのロシア(正確にはソ連)旅行ではとにかく子ども達がかわいいというのが常にみ

んなの一致した意見で(その分おとながにくらしいなどと言う人もいましたけど)旅

のあとで写真交換会なんかすると子どもの写真が随分たくさん出てきたほどです。け

して華麗に着飾っていたりするのではないのですが、質素でも清潔な身なりで女の子

なら頭に真っ白な大きなリボンをつけたりして両親の愛情を一身に受けてだいじに育

てられていることがよくわかるというふうだったのです。今回の旅で見た子ども達は

概してその印象がないのです。親達も生活の糧を得るのに精いっぱいなのでしょうか。

 

 市内(村内?)観光といってもとくに見所があるわけでもなく、ガイドもつきませ

んから一人で適当に歩き回りました。川岸の村とはいえシベリアの夏は大陸性の暑さ

がありますし、何と言っても昼下がり、地元の人は暑さを避けてかそれほど往来に出

ていません。道は舗装されていませんからバイクは車が通ると大きく埃を舞い上げま

す。道のところどころに落ちている牛糞とあたりにただようその臭い。でも、吹いて

くる風は乾燥していて心地よいものでした。

 家々の柵で隔てられている牛どうしがお互いに鳴きかわすような声をあげます。家

の前に出されている子牛たちは親牛よりは元気とみえてお互いにじゃれあったりして

いる。そのそばの低い枯れ枝には無数の雀たちが群がってその鳴き声が軽快な音楽の

ように聞こえます。いっぽう、屋根や電柱の上には大きな烏がこちらは声も出さずに

翼を休めています。

 

 淀んだちょっと大きめの池(川?)にかかる古びた木の橋からは2グループ、あわ

せて十人弱ぐらいのワンパクどもがおとなしく釣り糸を垂れていました。

 もうまもなくの冬の準備でしょうか、建材にだってなりそうな太い丸太を切って、

さらにそれを斧で薪にしている男の人も見かけました。

 

 ある民家から出てきた女の子たちの一団はこちらが「こんにちは」と声をかけると

警戒するかのように「こんにちは」と形式的な挨拶を返してどこかへ行ってしまいま

した。あとで船着き場にもどったときにそこにいたように思いましたから、きっと船

が来たのを知ってそちらに急いだのでしょう。この船が運航を始めてまだ何回にもな

っていないでしょうし、水深の関係で寄港地が変わるのなら毎回ここに来ているわけ

でもない筈なのに、地元の人達は船のことをよく知っているらしい。ある民家の前で

5歳ぐらいの子どもの写真を撮っていたら母親がどこから来たのか聞くので日本から

だと答えると「チェーホフ号で?」と言っていましたし。

 

 さっき、船から見ていて飛行機が着陸するのに気づいたので飛行場をさがしに少し

川下のほうへ歩いてみました。広い砂利道の脇にある村の空港は短い滑走路が1本、

それに燃料タンクがあるだけです。滑走路のまわりは夏草が生い茂っています。管制

塔はなく、ターミナルと呼ぶには抵抗がある老朽化した木造の「駅舎」が滑走路脇に

あり、そこに通信用らしい空中線が張られています。「駅舎」の滑走路側にはいちお

う「ヤールツェヴォ」の表示がありますが、道路側には「空港」の看板もなく、写真

の撮りようもありません。中に人の気配がありましたからもちろん営業しているよう

です。滑走路の端には信頼性の高い機と言われる複葉のアントーノフ2型機が1機エ

ンジンを止めて駐機しています。尾翼の国旗はちゃんと三色旗に、主翼の機体番号も

CCCPではなくロシアのRAになっていました。

 

 空港から今度は川岸に出て川沿いに歩いて船に戻ることにしました。岸に流れ着い

ている木片を投げてみると思ったより流れの速いことがわかりました。モーターボー

トが沖を通ると、意外に大きな波が岸に打ち寄せます。この村でも、非番のクルーは

自由時間をもらえたようです。船にもどる途中、ビキニ姿で川遊びをしている年齢不

詳の女性4人のグループが私に気づいてお互いに笑っていましたから、きっと彼女達

も船で働いている人のうちの誰かだったのでしょう。

 船着き場に近いところに「何でも屋」風情の商店があり、観光客のほかにやはりク

ルーも大勢立ち寄っていたようです。外出のときはサングラスをかけて変身してしま

うレストランのリーザも衣類や装飾品を物色していました。値段がどうなのかはわか

りませんが、品数はじゅうぶんにあることと、それにこんな片田舎なのに外国からの

輸入品があふれていることに驚きました。でも、商店の数だって比べものにならない

はずの大都会クラスノヤルスクを生活の本拠にしているリーザ達がこういう店で一生

懸命ものをさがすのはなぜなのでしょう?都市と村では物価がかなりちがうのでしょ

うか、それとも僻地(このあたりはもう僻地でないかもしれませんが)には優先的に

物資が届くのでしょうか、あるいはとにかくこういう機会には商品棚をくまなく見回

って欲しいものがあったらそこで買ってしまわなくてはという「習性」なのでしょう

か。

 

 船着き場にもどると相変わらず子ども達だのバイクに乗った若いのだのがいて観光

客に声をかけたりしています。あのもののしい迷彩服の「ネプチューン」氏達の仕事

がここでわかりました。そうした現地の人達が船に入り込んでくるのを防ぐのも仕事

の一つらしいのです。

 どこへ行っていたのかあのメイドのターニャも船にもどって行って、もう岸には村

の人以外は殆どいなくなってからも私は船に乗らずにいたら早く乗船するように促さ

れました。あとでわかったのですが、私は中山さんから16時45分まで自由行動と聞い

ていたのに本当は16時半出港予定だったのだそうです。船を下りるときにはレセプシ

ョンにルームキーを預け、かわりにホテルカードのようなものをもらいます。ですか

ら、そのカードがレセプションにかえっていなければ誰かが船に戻っていないとわか

る仕組みになっています。

 乗船口には水夫の制服姿のサーシャがいました。今回は非番ではなかったらしい。

昨日レーベヂに下りなかったのかと聞いたら「疲れていて寝ていた」と身ぶりで答え

てくれました。

 

 16時半に船は岸を離れました。村に行く前に虫よけを塗った筈なのに、気づかない

うちにずいぶん喰われたようで、あちこちが腫れていました。

 

 

 

 

(20) 歌手と店員

 

 これまでの船旅では横浜〜ナホトカ航路の2泊というのが最長ですので、あまりあ

れこれは言えないのですが、船旅というと列車や飛行機の旅とは違って船内でいろい

ろイベントがあるようです。上記の航路や新潟〜ナホトカ・ウラジオストクの船では、

夜のロシア民謡の夕べとかバンド演奏でのダンスパーティー、映画会、簡単なロシア

語教室、ブリッジの見学などがありました。そう思って今回のをみるとそのどれもが

あって、やはり同じような感じですね。横浜航路のときには乗客を甲板に集めて実際

に救命胴衣をつける避難訓練(これはイベントじゃないか)があったけど、これだけ

は今回ありませんでした。川船だからでしょうか。

 

 17時から中甲板前部の読書室で2回目のロシア語教室。前日のがあまりおもしろく

なかったのでしょうか、この日の参加者は半分程度に減っていました。先生も前日と

は違う年輩のご婦人で、名前は忘れてしまいましたが、昼はお掃除のおばさんをして

いて夜はステージで歌手をしている人だ紹介されました。そうか立派なドレスを着て

いたから気づかなかったけど、あのロシア民謡の夕べで歌っていたのはお掃除のおば

さんだったんですね。

 この日の「授業」内容は「生徒」の希望に沿ってということで、誰かが商店に行っ

て買い物をする場面がいいと言ってそうなりました。「生徒」側としては棚にある希

望の商品を指さしてそれが買えればいいというつもりだったのですが、この「先生」

なかなか厳しくて簡単に買わせてくれないのです。たとえば果物屋さんで「りんごを

ください」という。こちらは「ああ、それはキロ1000ルーブルです」ぐらいの答を期

待しているのに、「『りんご』といっても種類はたくさんあります」と言って林檎の

種類を次々ロシア語でならべられるいった具合で、その熱心さに通訳の本山さんもち

ょっと辟易気味でした。

 

 夕食の時間が近づいたということで教室がおひらきになり、ふと外を見るとエニセ

イの右岸(左舷側)はこれまで見てきたのより小高くなって岸は岩壁になっていまし

た。ドゥヂンカを出て初めて見る景色です。

 

 シフトが交替したせいで18時半に夕食です。遅い夕食に慣れてしまったせいかあま

り食欲が出ません。小海老と貝のシーフードサラダ、ローストビーフに五目野菜を炒

めたのと玉蜀黍をつぶしたのをねったようなものが添えられていました。デザートは

シナモンの味付けをしたアイスクリームに干したプラムを添えたものでした。

 夕食のあとまた短時間デッキに出ていました。

 

 主甲板のレセプションの後ろに小さな売店があって絵はがきやお土産を売っていま

す。2〜3時間ずつ1日に3回の営業なのでたった1人の女店員は交替するでもなく

いつも同じ人のようでした。

 この売店に「チェーホフ」号の文字と船の絵をデザインしたトレーナーを売ってい

たので、長袖を持ってこなかった私は買いたいと思っていました。帽子を別にすれば

ロシアで衣類を買ったことはないのですが、これがロシア製ではなくスイススタイル

だと書いてあったのも買う気になった理由の一つです。ところが置いてあるのはサイ

ズLばかりでM(これでも私には少し大きめでした)がありません。彼女にMは無い

のかと聞くとここにはないけど、船のマネージャーに聞いてみるからまたあとで来て

ほしいという返事でした。それから、私は午前・午後・晩と何度ここへ足を運んだで

しょう。その都度「まだ聞いてない」とか「マネージャーはまだ寝てる」とかで、ト

レーナーをようやく買うことができたのはこの日の夕食後でした。

 この店員、アンジェリカという名前で、クラスノヤルスクで学校の先生をしている

んだそうです。私の同業者だとは知らなかった。もっとも科目は外国語だそうです。

彼女、我々のグループでも評判の愛想のいい明るい女性ですが、しかし、このトレー

ナーの件でわかるようにちょっと調子がいいということも否めません。でも悪気では

ないんですね。トレーナーと一緒に同じデザインのTシャツとシベリアについての写

真入りの本を買ったのですけれど、その本のほんの1〜2ページにかすかな皺がよっ

ているのを知っていて、クラスノヤルスクにいけばちゃんとしたのが入荷するからそ

れから買ったらと言ってくれたりもしました。ヨーロッパからのお客とちがって私達

日本人グループはクラスノヤルスクに着いたらすぐに下船してしまうことをどうも知

らないようでした。

 


 

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