ドニエプル往復記  (2003)




(05)オデッサ  8月7日(木)

 いままでの朝食のときには気づかなかったが、カーシャがあるではないか。一度ブリヌィをとってもう一度列に並びカーシャをもらう。あとは薄切りのハムとサラミ。それにケフィールを1杯。
 
 8時半、バスで市内観光。下車したのは港のそばの海沿いの並木道だけ。観光客の多いところなので物乞いも多い。あとはずっとバスに乗ったままの観光。市内にいくつもの公園があり、その一つ一つがかなりの広さをもっているのと、さらにいろいろな施設を置かずに木々をたっぷりと植えただけというのが特徴。昨日気づいたように、通りの並木もこの町のは相当立派だから、町全体が緑で覆い尽くされている感じだ。オデッサは人口でウクライナ第三の大都会ということだから、いくら多くの人々をかかえることになってもこういう都市計画も可能ななのだということを示していると思った。
 3時間の予定の市内観光なのにバスを降りずにどんどん進めてこの後どこへ行くのかと思っていたら、港に近い中心部に戻り、土産を買う時間をとるという。とんでもない話だ。こちらにとっては20年ぶりのオデッサだし、次の20年間に再訪する機会があるかどころかあと20年生きているかさえおぼつかない。船が寄港している短い時間の1分1分が貴重なのだ。ガイドのリーナに断って一行から離れ、徒歩でシェフチェンコ公園に行く。ここも樹木の多い広大な公園だが、端は海に面していてオデッサ版「港の見える丘公園」だ。もっとも客船の桟橋は少し離れたところにあって、目の前に見えるのは貨物船とコンテナとクレーン群なのだが、これは本家横浜の公園も似たりよったりの筈だ。
 公園に隣接して戦没した無名水兵の碑がある。セーラー服の若い男女4人が守っているのは20年前に見たときと似ているが、彼女たちときたら立哨中にお互いにおしゃべりはするしで、前とちがってまるで緊張感がない。ま、当時は選び抜かれたコムソモール員が立っていたのだから違うのはしかたないと自分を納得させて、用意しおいた折り鶴を2羽供えて戻ってきた。
 
 オデッサの出港と昼食はともに1時。船がオデッサの街を離れて行く様子をレストランの窓から見ていた。同じ景色であっても、来るときと違って、あれがオペラ・バレエ劇場、あそこがシェフチェンコ公園というのが頭に入っているから、感慨もまた別だ。
 昼食の前菜は胡瓜とチーズのサラダにトマトを添えたもの。チーズは角切りにして少し塩もみした胡瓜に散らし、サラダ・オイルをかける。家でもできそうだ。スープは実だくさんの野菜スープ。メインはスパゲッティにミートソースがかかったものだが、スパゲッティはゆで過ぎのように思われた。デザートはカット・フルーツの盛り合わせ。バナナ、リンゴ、キウイ、オレンジ。
 4時から短時間のブリッジ見学を別にすれば、昼食後夕食までデッキにいた。空の端に浮き雲がいくつも並んでいるから雲量0の快晴というわけにはいかないが、快晴と言って何ら差し支えない上天気で、陽射しも強い。オデッサに入港した昨日よりもさらに波はなく、ベタ凪の状態。アイバゾフスキーの「第九の怒濤」のようなことがこの同じ黒海で起こるとは信じられないほどだ。デッキに立つと微風を感じるが、これは船の進行によるものではないのか。
 オデッサを出て3時間も経つと四方にまったく陸地を見なくなる。見えるのは水平線上に船影が二、三。あと海面に浮かんで翼を休めている鴎の群れくらい。船の進路上にいる鴎を見ていると早々と飛び立っていくもの、船がかなり近づいてからやっと飛び上がるものなど鴎にも個性があるようでおもしろい。ふと船のマストを見上げると、一羽の鴎がとまっていてしきりに翼を繕っている。船で移動する横着な鴎もいるのだ。
 ある本によると黒海の海底で硫化水素が発生し、それが海中の鉄分と化合して海が黒く見えるのだとか。シェレメーチェヴォの待合室で一緒だったこれからヤルタへ行くという日本人の二人連れにその話をしたら、じゃ黒海で泳ぐのは身体にいいはずだ、硫黄泉が身体にいいからと言っていたが、ほんとうにそんなことがあるのか。それはともかく、船から見る海の色は黒ではなく緑色で、ドニエプルの水よりはずっときれいに見えた。
 
 6時夕食。Pirate's Dinner とかいう海賊版の夕食で、テーブルの上の食器類はわざわざ散らかしてある。ウェイトレス達は海賊服を着て呼び子を吹くやらフライパンをたたくやらの大騒ぎをしていて、踊りや歌の行進がひと回りしないと食事を始められない仕組み。
 ザクースカはメロンの船に楊枝に指したハムとオリーブの実が帆柱で、海賊船に仕立ててある。メインディッシュはローストポーク。つけあわせはたっぷりのジャガイモ。デザートがエクレア。
 キエフ以来これまで私の食事のテーブルは残り3人分が空席で、いつも一人で食事をしていたが、この夕食からはオデッサから乗って若い夫婦が同席するようになった。キエフまで行くという。はじめ奥さんだけが席についてしばらくは沈黙のままでザクースカをつついていたのだが、あまりにも気まずいので、おそるおそる「学生さんですか」と聞いたのが始まり。「やだ、学校なんて5−6年前に卒業したわよ」という感じの気さくな人で、話しが進み、まもなく旦那も現れて、彼も同じようなキャラなものだから、楽しい食事になった。二人とも同じ海運技術大学出身のエンジニアで、学生時代に知り合ったということだった。
 二人がビールを私にすすめるものだから、例によって心臓が悪くて医者にダメだと言われていると言って断ったら、これまたお前が医者に5ドル払えば飲んでいいと言われたのにという返事がきた。あの話は極東からウクライナまで旧ソ連全土に共通なのだ。
 
 夜8時頃日没。周囲に山などが一切ないので、水平線より上に大陽があるかないかで昼夜の区別がはっきりし、大陽が沈むと一気に全体が暗くなる。ちょうどその頃、右舷前方に石油の掘削基地のような海上施設が二、三あるのに気づいた。照明がともっているので活動しているということだ。北海油田というのはつとに有名だが、黒海油田というのがあったっけか。
 最上階で9時過ぎからネプチューン・ショーをやるというので、夕涼みしながら待っていたら、スイス人だという男性が話しかけてくる。そのうち酒をおごるからという話になり、例によって断ったら、じゃコカコーラかミネラルウォーターかという話になり、あいにくそこへ注文取りのウェイトレスが現れたので面倒になってキャビンに戻ってきてしまった。おかげでネプチューン・ショーは見損なってしまったが、スイス人には悪いことをしたと思っている。
 
 

(06)セヴァストーポリ  8月8日(金)

 目が覚めた6時頃、ちょうど大陽が水平線上に顔を出したばかりの位置にあった。海は相変わらずおだやかで波はない。船体は微かにローリングしているけれど、注意していなければ決して気づかないほどだ。
 
 朝食後8時半からバスでの市内観光。オデッサと同じ港町だから名所もまず港というわけでバスに乗ったとたんにすぐ降ろされ、臨海公園を散歩する。次は港からすぐ近くの小さな丘にあるウラヂーミル教会。ラザレフとか歴代の提督が葬られている所だそうな。まだ修復工事中。その次がいちばんのお目当てのクリミア戦争のパノラマ館。ボルゴグラードのジオラマと同じくらいのジオラマが、そのために建てられた一つの建物の中に収まっている。トルストイの「セワストーポリ」は丘の上の陣地が舞台になっていた記憶だが、この建物もそうした位置に建っているし、ジオラマも丘から眺めた形で描かれている。
 
 12時昼食。小さな金属器にはいった茸のグラタン。肉団子入りの野菜スープ。タルタルソースのかかった魚のフライ。ピラフのようなライスがつけあわせ。デザートはババロア。昨晩とは違って相席のボーバ夫妻とは話が弾まず、黙々と食べる。
 
 1時半からバスでバフチサライへ。と言っても、行ったのはクリミア汗の館だけで、前回訪れた崖に彫られた教会とか山の上の遺跡へは行かなかった。バフチサライへの道路はよく整備されていて、快適なドライブができる。まわりは、急峻ではないにしてもある程度の高低差のある地形で、高地は概して石灰質のように見える。作物の端境期のなのか、耕しただけの畑地も多いが、土地が乾燥している様子がうかがえた。コンクリート製の支柱を規則的に置いたブドウ畑とかリンゴか何かの果樹園が広がる景色を何度も目にした。天候が良いせいか暑く、バスの冷房がありがたかった。
 船に戻ってから夕食までの間にレーニン通りを歩いてみる。我々の船が着いている桟橋より湾の奥側は軍用になっているようで、アレクサンドル旗をかかげたロシアの艦船が何艘も停泊している。黒塗りの潜水艦も二、三見える。
 
 6時夕食。半切りトマトの上にチーズか何かの練り物をのせたザクースカ。牛肉のソテーにマッシュポテト添え。デザートはバナナ2切れを添えた例によってやや大きめのケーキだった。
 
 食後は臨海公園に行って涼む。防波堤のむこうの黒海にきのうと同じくらいの赤さの大陽が沈むところだ。港の入り口にある背の高いモニュメントのそばで誰かがパラシュートを楽しんでいる。これが上昇気流への乗り方が上手いのかいつまでも滞空している。パラシュートがあんあに長い時間空中にいることができるとは思わなかった。
 公園にはたくさんの出店が出ていて、いろいろなお土産を売っている。通りにはアルプカとかヤルタとかいろいろな所へのエクスカーションを売り込む出店も多い。セワストーポリが閉鎖都市だった時代、クリミア観光の拠点はシンフェローポリだったが、これからはこの街がとってかわるのかもしれない。
 
 9時から臨海公園内の元のピオネール宮殿の建物でロシア黒海艦隊歌と踊りのアンサンブルのコンサート。建物はコンサート用でない上に、近くで打ち上げ花火をやっていたり、隣からはロックのパーカッションの音がかすかに聞こえるなど条件が悪いところへ、さらにマイクが用意してあってそれにエコーがかかっていたりで散々だったが、演奏そのものは素敵だった。曲によってコーラスの中の別々のメンバーがソリストにもなるのだが、もちろんはじめからマイクなど要らない声量で圧倒される。踊り手の動きも非常によくて、こちらも楽しめた。オデッサで見たバレエよりもこちらの水兵さんのほうがよほど動きがいいと思えたくらいだ。もっとも当の踊り手達は汗だくだったが。コーラスと独唱と踊りだけでなくバラライカの演奏があったり、ハミングの伴奏でピアノを聞かせたりとなかみも多彩。
 コンサートの余韻を楽しみながらまだ人通りの絶えない臨界公園を歩いて帰ってきたのは11時近くだったと思う。
 

(07)ヤルタ  8月9日(土)

 朝食を終えてキャビンにもどろうとするとき、キエフ河港で一緒に接岸していた僚船「ゲネラル・バツーチン」が着岸するところだった。着岸と言っても船着き場にはキエフのようにいく艘分もの幅があるわけでないから、例によって船を串刺し型にして串の部分を人が渡って上陸するやり方だ。つまりバツーチンは直接に接岸しないで、我々ルィバルコに横付けする。昨日こちらのマーシャル・ルィバルコがセワストーポリに着いたときに、波止場に薄黄色の制服を着た十数人の吹奏楽団員が歓迎の演奏をしてくれたが、それと同じような曲が船内に聞こえる。一方、バツーチンの乗客達はデッキに出て、一曲終わるごとに拍手している。しかし、バツーチンのデッキから波止場は見えないはずだ。ヘンだと思って最上階のデッキに上がってみたらなんと昨日の団員がこちらの船のデッキに整列して演奏していた。我々は今日は地元側なのだ。
 
 8時半にバスでヤルタへ向けて出発。
 7年前にやはりセワストーポリからヤルタをめざしたとき、海が見えてきてすぐのあたりで道よりかなり高い所にある教会に寄ったのを覚えている。バスを最初に停めたのは今回もそこだが、教会までは行かずに、下の道路にバスをとめて、ここから写真を撮るにようにとのことであった。じつはこのあたりの道沿いの何kmかは道路の比較的近くまで山が迫っていて、海岸に向けて白っぽい地色を剥き出しにしたほぼ垂直とも思える、しかもかなりの高さの崖が続く。景色としてはこちらのほうがヤルタよりも印象が強いのではないかと思えるくらいである。閉鎖都市セワストーポリに近すぎて開発されなかったか、それとも崖と海岸との間の幅に余裕がなくて開発できなかったのか。もっともこの後で見たヤルタの様子などを考えると開発されてないことにむしろ価値があると言えるかもしれない。
 車がヤルタに近づくにつれ、ソ連時代からあったサナトリウム群に加え、ニューリッチ族の別荘とか様々の建物が増える。夏休みの時期だからそうだが、道々には警官の数が多く、時にはパトカーに先導された黒塗りの車がロシア国旗をはためかせて通り過ぎたりもする。
 バスを次に停めたのは「燕の巣」のところ。これも「燕の巣」までは行かずに降り口にバスをとめ、ここから写真をと言う。驚いたのはその降り口一帯の変わりよう。たくさんの土産物屋がズラリと並び、もう観光地然としている。肝心の「燕の巣」への降り口を見つけにくいくらいだ。セワストーポリの臨海公園でも思ったが、このあたりの土産物店には、ロシアやウクライナの他の地域で見ないものが出ている。たとえば篭に盛った色とりどりの貝殻とかそういういかにも海の産物というのも目につく。ただ成田で測ったトランクの重量が19.7kgだったので、土産を買い込むわけにはいかない。
 
 オデッサからは私たち英語グループも市内観光がワゴン車でなく大型バスになった。オデッサから加わった十数名の一団といのが正体不明の人たちだ。まず英語用のバスに乗っているので英語を完全に理解する。しかし、仲間どうしの会話にはロシア語がひんぱんに使われるが、これを母語としている人達に比べるとクセがある気がする。さらに何語かわからない言葉で会話するときもあるみたいだ。白系ロシア人の二世なのかどうかは知らないが、とにかく陽気な人達なのだ。
 燕の巣では15分の休憩で10時半にはバスは出発ということになっていたが、10時半にバスにいたのは私とイギリス人の一家とあとは二、三人。大多数は10時半などというのを気にする風もなく、バスが出たのは10時40分を過ぎていたと思う。たまりかねたのかガイドのリーナさんが次のリバディアでの見学のはじめに、みなさん、我々の置かれているシチュエーションをきちんと理解しておいてほしい、船は5時にはセワストーポリを出なければならない、そのためにどんなことがあってもヤルタを2時半には出発しなければならないことをわきまえてほしいと説教したほどだ。
 リバディア宮殿というのはヤルタ会談の行われた場所として有名だが、十月革命の前にはニコライII世の別荘だったところで、ソ連時代は素通りしていたニコライII世やその家族の居室部分の説明にもかなりの時間が当てられた。ここも観光地化が一層進んでいて、見学コースの最後のいく部屋かは土産物店で、そこを通らないと出口に行けない仕掛けになっていた。
 
 ヤルタの旧市街にはいるとまもなくバスはイギリス人家族4人を降ろした。彼らはヤルタで1週間を過ごした後、父と長男のマックスはモスクワへ向かい、母親と次男のベンはロンドンへ帰るそうだ。
 バスはヤルタ港からほど遠からぬ、しかし閑静な裏通りに停まって乗客をおろした。駐車場所は予め決められておらず路上駐車できる場所を現地で見つけて、客に渡す地図にマークをつけ、ここへ戻れというやり方だ。2時半までの約2時間が自由行動。
 すぐに港へ出た。ヤルタの人口は十万弱だが夏にはその3〜4倍に増えるというだけあって、港はたいへんな人出だ。海岸通りのベンチに座って、今朝船で渡されたパックランチを食べる。ハンバーガーのように丸いパンのあいだにサラミとチーズをはさんだのが1個。ゆで卵。トマト1個。胡瓜1本。フルーツヨーグルト1個。他にオレンジ1個とミネラルウォーター1本がついていたが、これはキャビンに置いてきた。
 このあとホテル「ヤルタ」の近くに見える教会に行くか、それとも2人乗りロープウェイで高台に上がるか迷ったが、あとになってこの迷いの時間のツケがまわることに。キオスクで地図を1枚買い、ロープウェイの乗り場を見つける。ロープウェイは往復10グリブナ。これが思ったより時間がかかり、山頂駅に着いたのがほぼ2時。普通なら全市を見下ろせる展望台に行くところだが、すぐに下りの乗り場に。ところが上りは前後に誰も人がいなかったのに下りはゴンドラ待ちの列が出来ていて5分ほどのロス。観覧車やロープウェイに乗ったとき普通はできるだけ長い時間乗っていられるのを望むが、このときほど早く着いてほしいと思ったことはない。ロープウェイを降りて小走りにバスまで急ぎ、2時25分に着いたが、さきほどの燕の巣とは様変わりでもう全員が乗車していて、リーナを含む2,3人が歩道に出て私を探しているところであった。
 
 6時夕食。紫キャベツ、キャベツ、生の人参、胡瓜をそれぞれ千切りにしたサラダ。小さなパスタのはいったスープ。主菜はメンチカツ。薄切りポテトとベーコンをいためたのと、ミックスベジタブルのクリーム煮がつけ合わせ。ケーキ。
 
 6時半にセヴァストーポリを出港。今回の船旅では出発のときにあの壮行歌のような音楽が流れたことが一度もない。かわりにいつも同じ非常に優しい感じの曲が船内放送で流れる。つまり港側は出港にあたって何もしない。
 防波堤を出るとおそらく1〜2mの波高と思われる波があったが、船が揺れるほどではない。ただ波が船体にぶつかる音と砕けたしぶきが海面に打ちつけられる音がちょうど嵐の日に雨風が窓にぶつかるのに似ている。8時頃日没。気のせいだろうが、大陽が海に向かって沈んでいくときに比べ、一旦大陽の下端が水平線に接してから完全に没するまでの速さが早いように思える。赤熱したかたまりが海水に接して急にしぼんでしまうように見える。
 

(08)ヘルソン  8月10日(日)

 この日も好天。昨晩に比べ、波は静かになっている。
 
 朝食後の8時半に英語グループは読書室へ集まれという指示だったので行ってみる。あの一団の一人に聞いたところ、アメリカに住むウクライナ人だという。ほとんどが私より年配に見える。
 じつはここでたいへんなことがわかった。今日ヘルソンに寄港したときに私はドニエプル・デルタの小旅行をパスして、ニコラエフに住むサーシャと10年ぶりに会うつもりだった。彼はそのつもりでニコラエフから60km以上の道のりをかけつけてくれる。ところがこの場でリーナから聞かされたのは、船はヘルソン港に入らないということ。以前ヘルソンに寄ったときに乗客からこんな所へ寄って何の意味があるのかと言われたし、ちゃんとしたバスもないからだと。それで、船は川の途中にとまって、そこから小型船でドニエプル・デルタの村へ行くのだそうだ。それじゃサーシャはどうなるのか。
 キエフまでの行程についてひと通りの説明のあと、火曜日の晩のキャプテン・ディナーの後、クルーも出しものをするけど客も必要なので練習をという話。在米ウクライナ人の一行はウクライナの歌を3曲ほど歌うことになり、その練習を聞いたが、上手いことと言ったら!20人足らずの一団の名かにソロやデュエットで十分聞き応えのある歌を歌える男女が2人も3人もいるし、みんなで歌えばすぐにハーモニーになる。これがスラブの人達やドイツ人などと日本人がいちばん違うことの一つだと思う。
 
 午前9時頃、船はあの砂州の内側に入り、もはや大きな波の心配をすることなく、穏やかに船は進む。しかし、黒海に比べて水は断然汚くなった。12時の昼食まで3階のデッキ。
 
 昼食のザクースカは蟹のフレークと野菜を四角く固めたもの。サリャンカ。ロールキャベツ。焼き梨。
 
 リーナの話では、我々をドニエプル・デルタに運ぶ2艘の小型船がヘルソン港から来る。この船が港を出る前にサーシャが事務所に尋ねてくれれば彼をマーシャル・ルィバルコに運んでくることができるが、それをされなければもう方法はないとのこと。祈るような気持ちだ。
 
 1時、船はドニエプル・デルタにに入る。両岸に芦の茂る幅の狭い水路を船は進む。リーナの説明ではデルタには大きく4つの水路があり、そのうち2つは大きな船が通行できるとのこと。
 昼食後もデッキ。2時くらいには遠くにヘルソンの港のクレーンが見えてくる。デルタの中でマーシャル・ルィバルコは船足を落とし、3時頃、風景から察すると港からそう遠くないと思われるあたりで投錨。前方から2艘の小型船が接近してきてルィバルコに横づけになるが、結局サーシャは乗っていなかった。
 
 3時半からこの小型船に乗り換えてデルタの村に行くエクスカーションが予定されている。私は一旦は気分が乗らないので船に残るとリーナに言ったのだが、彼女はむこうに行けば楽しいと熱心に勧める。ヘルソン港で係員がサーシャのことを何度も呼んだのに誰も返事をする者がいなかったのだから仕方ないとも。でも、これはほんとうかどうかわかりかねる。現場でやってもいないことをやったように報告する習慣はあのノルマ制の時代に身にしみこんでいるはずだし。
 結局リーナの熱心な勧めに応じて村には行くことにした。小型船はデルタの中の迷路のような非常に狭い水路を縫うようにして進む。実はこれがサービスだというのは帰りになってわかる。帰りはそういう水路は一度も通らず、大型船でも通れそうな幅広の水路だけを使ったから。その狭い水路の両側には人家があり、子ども達がこちらに手を振ったりしてくれる。ほんとうなら写真を撮りたくなるところだが、そんな気分にはならず、ただじっとしていた。
 かれこれ30分も乗ってお目当ての村に着いたが、船着き場からの道はにわか作りのお土産屋が並ぶ。船会社が村人と契約しているのだろうから船が着く度に外国人客が来るとわかっていて、300ドルとかいう毛皮も地べたに並べる始末だ。中学生ぐらいの子どもにカメラを向けて撮っていいかと言うと2グリブナくれればいいとか。まったくもって村中がスレている。そもそも小型船を下りるとき船内で大儀そうに土産物の商いをしている男から5グリブナの絵はがきを買って10グリブナ札を出したらこまかいのがないと言ってヘルソンのバッジを押しつけてよこした。旧ソ連でこういう習慣があるのは承知だが、コペイカじゃなくてグリブナだ。冗談じゃないよまったくと余計暗い気分になって船を下りたら今度はこの村というわけだ。
 やはり船会社が契約している1軒の農家に入る。庭にテーブルがしつらえられていてピローグとかピクルスとか果物とかが並べられている。ワインとウオトカもテーブルの上にあったが、ウオトカは瓶のラベルとなかみとは全然関係なく、サマゴンカだそうだ。私は食欲もなく、二、三の果物に手をつけただけ。
 さきほどの在米ウクライナ人の中の一人の女性が、自分は大阪や京都や姫路に行ったことがあると言う。娘さんが英語教師として豊岡に1年滞在したそうだ。だから城崎なんていうローカルな地名も知っている。
 
 宴たけなわの頃、リーナが私のところへ来て、サーシャがルィバルコに来ていると意外なことを言う。ああ、やっぱり船に残っているべきだったのだ。すぐ席を立って船着き場へ戻り、小型船に乗ったが、みんなが乗らなければ船は出るわけもなく、それを待つののもどかしかったこと。
 小型船がルィバルコに着いたら一番で出られるように出口のところで頑張っていると、前から顔には見覚えのあるちょっと枯れた感じの男性が話しかけてきた。スペインからの乗客で、ロシアが好きで、この4月にはモスクワとサンクト・ペテルブルクを訪ねたという。ロシアの自然も人々も教会もみなすばらしいと。ロシア語が少しできるというから、どこで習ったのか尋ねると、毎日の労働が終わったあとで外国語を勉強する専門の学校でだそうだ。かなりみっちりやるらしい。ロシア語を「少し」と言っていたのに、トルストイでもドストエフスキイでも翻訳で読むのと原著で読むのとでは全然違うと言うから「少し」どころでないのは確か。ゴンチャロフが戦艦パルラダに乗って日本に行ったときの記録は読んだかと聞かれて赤面。日本人の私は読んでないのだ。かろうじて「『オブローモフ』は読んだ」というのが精一杯。
 サーシャはマーシャル・ルィバルコの船べりで待っていた。10年前の面影を残しているし、eメールで写真ももらっているのですぐわかる。なにしろ我々が乗ってきた小型船で港へ戻る以外に足がないのだから、彼は5時間も私を待ったというのに今はごく限られた時間しかない。すぐにキャビンへ。彼は鞄をあけてもってきた土産をくれた。手彫りの大きなスプーン、ニコラエフの絵はがき、家族の写真、それにダーチャの庭の樹になったに違いない果物。絵はがき以外はみんな手作りのものだ。ところが、こっちから渡したのは、日本人形、手鏡、浮世絵の風呂敷、等々みんな市販のものばかり。それから舷側へ出て写真を撮る。そこへリーナが現れたので、サーシャを紹介すると「波止場であなたのことを呼んだのに」「いや、ずっと波止場にいたけど、そんなのは聞いてない」という案の定の展開。「ま、終わりよければ..」というサーシャのひと言で言い合いは終わったが。そうこうするうちに村から戻った乗客の下船が終わってサーシャが小型船に乗り移る。エニセイ以来10年ぶりの再会はあっという間に終わりだ。小型船が遠ざかって彼の姿が認められなくなっても手を振り続けた。

 6時半、マーシャル・ルィバルコは錨を上げて再び動き始める。同時に夕食。村で食べてきたせいか、皆の出足が鈍い。赤・黄・緑のピーマンのサラダ。ポークソテーにフライドポテトとミックスベジタブル添え。タルト。
 
 食後にデッキに出ると前方に橋が見える。おそらくドニエプルにかかる橋の中で最も下流にあるもの。その少し上流に鉄道用の橋も見た。この鉄道橋の橋脚が川の中にあるのはわかるが、川岸の向こうまでドミノ倒しの前のドミノのようにずっと橋脚が並んでいる。このあたりはデルタの湿地帯だからこうしないと鉄道が通せないのだ。
 日没近くまでデッキにいて、その後キャビンに戻り、サーシャからもらった果物の袋2つのうち1つをあける。日本では見ないほど小ぶりの桃と村でも出された琵琶のような果物。熟れすぎて少しいたんでいるものも多いが、それくらいが甘くてうまい。青いうちに収穫してポストハーベストの化学薬品をたっぷりかけて時間をかけて店頭まで運んでもいたまないというほうがよほどどうかしているというものだ。
 9時頃、キャビンの前のデッキに涼みに出る。十三夜か十四夜の月が左岸の上に出ていて、水面に月の影が揺れている。トレチャコフ画廊かどこかに「ルンナヤ・ノーチ」という真っ黒な画面に月明かりで白くその筋だけが見えるゆるやかに蛇行したドニエプルを描いた絵があったと思うが、今この川を小高いところから見たらあんなふうに見えるのかもしれない。
 月を見ていたら突然船内から中学生ぐらいの女の子2人がデッキへ飛び出してきて、私がそこにいるのもかまわず半ば笑いころげながら川岸に向かってカチューシャともう1曲名前は知らないが聞いたことのあるロシア民謡を大声で歌ってまた船内に戻っていった。それがロシア人とは思えないくらい下手で、おそらくわざとぶち壊して歌っていたのだろうが、私はウオトカでも飲んで酔っているのではないかと思ったほどだ。でも、船内に通じるドアを開けてみると、踊り場のところに座り込んでギターを抱えて今度は私の知らない歌を歌っている。何かきっと特別楽しいことがあったのだ。
 
 



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