ドニエプル往復記  (2003)




(09)ドニエプロペトロフスク  8月11日(月)

 早朝目が覚めたときには、船はカホフカ貯水池の広い湖面を航行していたが、朝食の頃には舷側と川岸との距離が短くなっていた。貯水池の上端に接近している兆しだ。もっとも、こちらの河川は勾配が緩やかなので中洲もでき易く、そのために一つ一つの流路は幅が狭くなるということもある。このあたりも大小の中洲がある。
 朝食後の8時半、船内放送でザポロージェの水門に接近すると告げられる。4階前部のデッキに出て双眼鏡を使うと、前方にアパートのような建物が何棟か見えて大きな都市であることをうかがわせる。
 昨日までの好天とはうって変わって全天雲で覆われ、半袖ではいられないほど寒い。ザポロージェの船着き場は水浴場の浜になっているが、さすがにほとんどひと気がない。
 9時頃、雨がポツポツ落ち始め、9時半に船が水門へ入るころ本降りになる。船の水門通過を見るために多くの乗客がキャビンからデッキへ出て来るが、さすがにみんな慣れてきていてカメラをかざす人はあまり多くない。水門の通過には約40分を要し、水門を抜ける頃皮肉なことに雨もやんだ。
 その後、船はザポロージェ貯水池を静かに遡航する。天候は少しずつ回復の方向で、気温も気のせいか暖かくなったように感じる。さきほどの雨は前線だったのかもしれない。しかし、また風が冷たくなったり雲が多くなったりで、どうも天候は不安定。
 このあたりまで来ると、さすがに沼沢地のような風景はたまに川の隅にある程度で、逆に川岸のむこうのゆるやかな丘に大きな耕作地が広がるという懐かしい景色を見ることができるようになる。
 
 12時半、昼食。小さなサイの目に切ったジャガイモと同じくらいの大きさのチキンとミックスベジタブルのサラダ。実沢山の野菜スープ。白身魚のフライ。ただし汁気の多い人参のソースがかかっているので煮魚のような雰囲気。チョコレートムース。
 
 午後も4階のデッキに。両岸にダーチャ群が続く。ダーチャというと私の受け取り方では、ありあわせの材料を使って大工も頼まずに自力で作った掘っ立て小屋というイメージが強い。だからダーチャ群というと粗末な小屋と小さな菜園が密集しているという印象だ。ところが、ここから川岸に見えるダーチャの中には「別荘」と呼び代えても立派すぎるほどのものがある。もちろんモノトーンでなく、色彩も鮮やかだ。なかには四方に城壁のような塀をめぐらせているものもある。家によってはその上に有刺鉄線が張ってあったりで、世が世ならあきらかに「人民の敵」という風情だ。セワストーポリでだったか、リーナがザポロージェのマフィアは大変力が強いということを言っていたが、その辺りの持ち物かもしれない。また、ニューリッチほど悪いことはしてなくても多少要領よく立ち回って小金を貯め込んだ者も少なくないはずで、そういう人達のかなと思われる小ぎれいな、しかしある程度規格化された造りのダーチャはもっと多く見られた。こちらはカラフルではなく、ほとんどモノトーン。昔ながらのダーチャは向日葵をはじめいろいろな花が庭に咲いていてホッとさせられるが、ニューリッチのにはそういうのが無い。
 双眼鏡で岸を見ると、ダーチャだけでなくいろいろ興味深い風景も見えるのだが、カメラのズームレンズは望遠で80mmが限度だから、写真にはならない。以前にも、川旅では船と岸の距離があるから200mm程度の望遠は必需品だと悔やんだことがあるのに学習能力のないヤツだ。
 
 ドニエプロペトロフスクの街では、ドニエプルにいく本もの橋がかかっている。それらをくぐって河港に接岸したのは4時。すぐにバスで市内観光へ。でも今日は月曜日で全市の博物館が休館だとか。最初にバスから降りたのは歴史博物館。もちろん休みだが、屋外に10〜11世紀のポロベツ人の石像がある。次に連れていかれたのは第二次大戦のドニエプルでの戦いのジオラマ館。入り口に月曜休館の掲示があるのにヘンだなと思ったら、ロビーに土産屋が待っている。要するに土産店に連れていかれたわけ。隣接する場所に再建中のプレオブラジェンナヤ教会も見る。全部手作りだというイコノスタスがほぼ完成していたが、真新しいだけにあまりありがたみがない。最後は中心部のレーニン広場にバスを停めて30分の自由時間。このあたりを貫くカール・マルクス通りというのがすごい。キエフのシェフチェンコ並木道のように上り線と下り線の間の分離帯が並木道になっているのだが、この「分離帯」というのが中央に上下の路面電車の線路があって、その両側にたっぷりの幅の歩道があるのだ。その歩道の外側が並木で、さらにその外側がさきほど言った上下2車線ずつの自動車道。そしてその外側に普通の歩道がある。ドニエプロペトロフスクという町についての予備知識はなかったが、勝手にかなり実用本位にできた無機的な工業都市という予断を持っていた。ところが、こうやってまわってみると、ウクライナの他の多くの都市と同じくたいへん緑の多い町なのがわかる。
 
 6時半夕食。千切りキャベツにマヨネーズと崩したゆで卵をかけたサラダ。鶏のクリーム煮。何かの野菜をまぜて緑色にしたマッシュポテトとグリーンピース、サイの目の人参が添えられている。ドーナツ型のエクレア。
 
 食後、デッキへ上がる。河港のすぐ西を走る鉄道・道路兼用箸の向こうに陽が沈むところ。河港ターミナルの屋上のあたりをおびただっしい数の小鳥が鳴き声をあげながらまるでウンカのように脈絡なく飛び回っている。飛び方がツバメに似ているようでもあるが、日本のツバメよりはひとまわりからだが大きいように見える。
 日没後暗くなると橋の街路灯が点灯して、その明かりが川面に揺れる。道路の下の鉄道橋はちょうど鉄でできた篭のような構造になっているから、その中を夜汽車が走っていくとその明かりが「篭」に遮られて点滅し、何となく銀河鉄道を思わせる。
 
 9時過ぎから最上階のホールで、クラシック・コンサートの夕べ。ドニエプロペトロフスク弦楽四重奏団といのが演奏してくれた。はじめがモーツァルトの「クライネ・ナハト・ムジーク」、2曲目はクライスラーの「愛の喜び」で、あとは知らない曲が続く。ガーシュインどころかグレン・ミラーまで演奏する。え、クラシックの夕べじゃなかったのかと思ったが、グレン・ミラーは今や立派なクラシックだろう。演奏は、はじめの2曲ぐらいはただ力強いだけで上手なのかどうかわからないじゃないのと内心思いながら聞いていたが、音楽の土壌豊かなウクライナで、しかもヨーロッパからの耳の肥えた聴衆相手では下手な演奏はあり得ない。聴かせる曲を後ろにもってくるプログラムにしてあって、ことに第一バイオリンと第二バイオリンのソロがすごい。最後はビバルディの「四季」のうち「夏」を第二バイオリンが旋律を担当して聴かせ、やんやの拍手を受けて終わった。
 
 コンサートが終わった後一旦寝たのだが、途中で目が覚めて時計を見ると12時15分前。出港が12時なので着替えてデッキへ。河港のすぐ上流側の兼用橋が可動式になっていて、中央をせり上げないと船が通れないのだ。デッキへ出ても、船は舫は解いてあるものの、エンジンは止めたままだし、もちろん目の前の橋も降りたままだ。理由はすぐにわかる。まもなく左岸側からドニエプロペトロフスク行きの郊外電車が橋を渡る。さあこれで橋が上がると待っていたら、次に同じ向きにたいへん長い貨物列車が通り、さらに長距離の旅客列車が通過。その次に逆向きの貨物列車が通る。エンジンを動かさなかったので気づかなかったが、マーシャル・ルィバルコは舷側の排水を使って川の中央まで移動している。舳先の錨巻き上げ機のところには2人の若い水夫が現れたので、いよいよ橋をくぐるのかと思ったら2人は酒瓶を持っていて、そこへ座り込んで話しをし出す始末。橋はまだそのままで、さらにドニエプロペトロフスク方面への長距離列車が2編成通過し、その後でようやく橋が上がった。上がったと言っても下の鉄道橋の床を上の道路橋までの高さの半分ぐらいまで上げるだけ。必要最小限というわけ。ところが船は動かない。まもなく前方から赤と青の舷側灯が見え、貨物船がこちら向きに通過してきた。こうやって待っているときの連中の船足の遅さったらない。深夜の甲板だから冷えるし。2艘目の貨物船とすれちがってからようやく本船が動き出し、橋の作業員に敬意を示す汽笛を鳴らしながら橋をくぐった時には私がベッドを抜け出してからゆうに1時間以上は経っていた。
 いつも感心するのは、船のマストはもちろん折ってあるが、その状態での船の構造物の中で最高のもの、具体的にはアンテナの先端などと橋桁との間がほんとうに僅かしかなく、ぶつかるのではないかと思うほどなことだ。橋だけではない。両方の川岸に送電用の鉄塔があると電線は垂れて川の中央で最も低くなる。このときもアンテナが電線に触れそうなくらいなのだ。こういう点は細かく計算して設計されているようで、たとえば水門の幅は18mなので、川船は原則16.5m、最大でも17.5mの幅で建造するように設計されているのだという。
 もうひとつ、昨日デッキにいて、すれちがう船の数がボルガやアムールに比べて少ないような気がした。そのときはウクライナ経済が悪いからなのか、それともウクライナは陸上交通網が密に発達していて水運の需要がないからかなどと勝手な想像もしたものだが、ドニエプルの中央に位置するここの橋が真夜中でさえこれだけ開けにくかったら水運にとっては大きな支障だろう。そういう事情もあるのかもしれない。
 
 

(10)キエフへ  8月12日(火)

 昨夜の夜更かしが効いて、今朝は7時の起床を告げるラジオで起きた。シャワーを浴びてから朝食。食事中の7時40分頃ドニエプロジェルジンスキー水門に入り、約20分あまりで上の貯水池へ。風は冷たい。船内放送では15℃とか。鴎や例のツバメのような鳥が飛び回っている。これらの鳥はかわいいけど注意しなければいけない。昨日は鴎の「爆撃」が私の上着を直撃したから。
 
 8時半から読書室でウクライナについてのレクチャー。私は下りの船でイギリス人の家族と一緒に聞いたから2度目だ。しかし、今回はイギリス人のかわりに在米アメリカ人の一団体がいるので、質問も鋭く、やはり延々2時間半におよんだ。話すほうも聞くほうも熱心なものだ。前回との違いは歴史の部分が割愛されていること。それはそうだろう。リューリック朝成立の話をウクライナ人にあらためて講義することはない。したがって全ソ連的に成立・結合していた分業システムが破壊されて一国での産業が困難に陥ったところから話が始まった。国営企業を民営化するにあたって国民に株式のようなものが配られたが、みんなはそれが何かもよくわからないうちに少数の者によって買い占められた。その結果中産階級が激減し、ウクライナの人口もここ十年余で何百万人も減ったという。ひとつは自然減だが、もう一つの理由は国外への人の流出だという。教師とか医師とかの給料が安いので、そういうウクライナにとって最も必要とされる人がどんどん国外に出てしまう。急激なインフレが起こり、それがおさまった後でも物が不足し、リーナの住むセワストーポリでは、ふた冬にわたってガスも石油もなく大変な寒さだったと。電気は日に2時間しか流れず、料理することさえままならなかったという。ビジネスマンがウクライナ産の小麦を大量に輸出している一方で、商店の棚にはものがなく値段が跳ね上がるという事態が生じた。クチマ大統領は国民の生活には月170〜180グリブナが必要だしそれは保障すると約束したのに、リーナの息子は月120グリブナしか受け取っていない。ウクライナのルィノックは最も「教養ある」市場だそうだ。なぜかというと、そこでは教師や医師が生活のために身の回りの物を売ったりしているから。だから今では誰もクチマ大統領やその政府を信頼していないとリーナは言っていた。
 観光旅行の中でこういう政治的な話をはっきりするのもおもしろい(彼女は、首相は毎年のように交代しているが、今の首相は大統領としても期待できるとまで言った)し、当然客側の反応も様々で、自分の意見を述べた後「リーナの意見は聞かせてもらわなくていい」と遮る場面もあったくらいだ。女性客の一人が、そうは言っても街で見かける人はきれいな服装をしているじゃないかと女性らしい質問をぶつけると、中国やトルコから非常に安い品物がはいってくるのと、中古品市場が非常に発達してしまったことが背景にあるという返事。それにウクライナ人は食べるものを切り詰めても身なりはきちんとしなければという考えがあるとリーナが言うと、そこにいた在米ウクライナ人達はみんな一斉にそれは非常によくわかると頷いた。
 経済だけでなく言語など文化の問題にも話が及び、ウクライナ語が公用語になっているけれども、中央からウクライナ語でくる文書をロシア語にしないと用が足りなかったり、学校でもウクライナ語を教えるのだが、肝心の教師のウクライナ語がおぼつかなかったりするのだと。子ども達の様子も変わってしまって、昔は子どもといえば野山でも海でもどこへでも出かけたものだが、今はディスコへ行くだけとかコンピュータにかじりついたりでと嘆いてみせた。
 しかし、彼女は、ウクライナは独立してからまだ12年しか経っていない。これから10年、20年経てばきっと素晴らしい国になると言って話をしめくくった。
 
 12時半昼食。洋梨の形のりんご(あれは絶対にリンゴだ。洋梨の味ではなかった。)を2つ割にし、芯を抜いてそこにマリーナみたいな赤い果実を置きスメタナをかけたのがザクースカ。私はいきなりデザートが出たのかと思った。スープはボルシチ。小さくカットした豚肉をやわらかく煮込んでソースをかけたのが主菜。蝶の形をしたパスタと千切りのキャベツ,人参がつけ合わせ。デザートは前回同様凝っていて、プラムか杏にチョコレートのような衣をかぶせたボール場のものを4つカクテルグラスに入れ、その上に生クリームをかけて、クルミの実をひとかけら置いてある。
 
 天候は不順。風は冷たいばかりでなく非常に強く、デッキに長時間いると体温を奪われる。これが黒海でなくてよかった。黒海でこの天気だったら船が揺れただろう。ここでは、これだけ風が吹いても波がない。昼食中に雨が降り出し、一旦やんだが、また強く降ってその後は雲の間から陽が差したりもしている。文字通りの「通り」雨だ。
 
 午後3時頃かなり大きな町に接近し、前方に可動橋が見える。だとするとクレメンチュクだ。私は今朝通った水門がクレメンチュク水門だとばかり思っていた。船内放送ではたしかにドニエプロジェルジンスキーだと言っていたのだが、ドニエプロペトロフスクからドニエプロジェルジンスキーまで6時間もかかるわけがない、何かの間違いだろうと思っていた。ただ貯水池が下りのときに見たクレメンチュク貯水池より小さく思えてヘンだという気もしていたのだ。
 船が橋に接近しても昨日と同じで簡単には開かない。船が投錨しないで同じ位置を保つのも大変だが、こちらは上りだから流れにさからってスクリューをまわせばいい。橋のむこうにも下りの同型船がいるが、あちらは同じ位置を保つのがもっと大変だ。双眼鏡で見ていると、同じ位置にはいながらしきりに向きを変えている。長い貨物列車が通過してしばらく経ったあと、昨晩と同じカーンカーンと金属をたたく音がする。何かの点検をしているか、それとも閂みたいなのを抜いているのか。橋の上に2人の作業員が徒歩で歩き回って作業をしているのだが、いたってのんびりやっている。ようやく橋が開いても下りが優先と決まっているらしい。まず先方が通ってからこちらが橋をくぐった。橋を上げるまであんなにじらせるのに、下ろすのは早い。通り終わってふと振り向くともう元通りになっていた。
 
 天候は雨が降ったり晴れたり雷が鳴ったりほんとうに不安定。風はやはり強く冷たい。
 橋をくぐっているときドイツ人らしい男の人が声をかけてきて、自分の日本人の友達が横浜に住んでいると話しかけてきた。自分には日本に行ったことがないけど、彼は頻繁にドイツに来るそうだ。
 橋を通り終わって船がクレメンチュクの河港にかかるとき、在米ウクライナ人の男性が声をかけてきて、自分の息子が日本タバコのジュネーブ支社だかジュネーブ法人だかの副支配人をしている言った。自分自身も2年前に東京に行ったことがあると。日本の大企業が多国籍化するにつれ日本と何らかのかかわりをもつ外国人も多くなっているというわけだ。
 
 4時半頃雷鳴と激しい雨の中クレメンチュク水門に接近。例のツバメのような鳥と鴎とがそれぞれ大変な数飛び回っている。ツバメのようなのはかなりの高さまで上がるのに対し、鴎は水面からそう高くは上がらないという違いがある。暗雲がたれこめ、稲妻が走るのを背景にツバメが乱舞するのはM・ゴーリキーの「海つばめの歌」の光景のようだ。
 船が水門に入ると上流側の水止めをこえて水が不規則に落ちているのがわかる。規則的に落ちるのなら単なる水漏れだが、不規則に落ちてくるということは、上の広大なクレメンチュク貯水池には波が立っているということだ。実際水位が上がって船から湖面が見えるようになると、黒海でも一度も見なかった白い波頭が一面に見える。幅18mの水門に幅16.5m,長さ120mの船を出し入れする操船技術はたいしたものだと思っていたが、この強風下ではそうもいかないらしく、水門から船を出すときに二、三度船体をコンクリートの壁にぶつけたようで、小さからぬ衝撃があった。ここで船体にヒビが入って浸水すればタイタニックというわけだが、航海士らが船内を見回って船は航行を続けているので何事もなかったのであろう。
 上の湖面に出て気づいたのだが、朝のドニエプロジェルジンスキーと今のクレメンチュクの上流側の造りがあまりにもよく似ていて、これでは自分が勘違いするのも無理ないと思った。水門に続く堰堤や防波堤の向きや造りがほんとうにそっくりなのだ。まさか同じ一枚の設計図で造ったわけでもないだろうが。その防波堤を出ると、船は今回の旅で初めて揺れるようになった。雨だか波のしぶきだかわからないのがキャビンの窓まで当たる。さきほど見つからなかった船体の小さな亀裂がこの揺れによって拡大しないことを切に願う。
 
 6時からキャプテン・ディナー。レストランの入り口でシャンペンを受け取り、中で、船長、主任マネージャー、各国語の通訳が一列になって待ち受けているところで一人一人とグラスをぶつけていく。
 ザクースカは蟹のサラダ。大きなカニ脚2本が添えられていると思ったらカニ蒲鉾だった。イクラのカナッペ。卵と椎茸を使ったソースのかかったビーフステーキ。つけあわせは小さなブロッコリーなどの温野菜と何かよくわからないが美味しい揚げもの。デザートはすぐには出てこないで、まず照明を落として各卓にワイングラスに固形燃料を浮かべたランプを置く。次に厨房から金属のトレイにのせた巨大なアイスクリームが持ち出される。アイスクリームの四方にはやはりランプの炎がゆらいでいるし、花火まで仕掛けられていてレストランの中を披露してまわっている間にそれに点火するという演出。あとでそれを切り分けてコケモモのソースをかけたのが各自に出された。
 
 波は多少おさまったようだし、船の揺れもいく分やわらいだけれど、風はやはり強く冷たくデッキにいることはできない。ほんとうは今夜あたりが満月なのだが、雨がたたきつけたりやんだりという天候では月どころではない。
 最上階のホールで今回の旅行のビデオを見えるというので行ってみたが、大半は別の時期に撮影・編集してあるものに今回撮影したものを挿入するというやり方で作ったもの。ナレーションもBGMもしっかりしていて、かえっておもしろくない。そもそも行ってもいないヘルソネスの遺跡などが出てきたりして興ざめだ。
 
 9時半から同じ最上階のホールで、乗組員と乗客達の出しものがあった。はじめはクルーのほうだ。レストランで我々のテーブルを担当しているスヴェータがえらく芸達者で、何遍も登場し、ロシア民謡からカルメンまで歌ってみせた。乗客達もそれなりに力が入っていて、私のキャビンに近い読書室からはよく練習の歌声が聞こえたものだ。フランス、ロシア、スペイン、ドイツの順に進み、最後が在米ウクライナ人の一行。これが今夜の圧巻。全部で4曲歌った。2曲はコーラス。1曲は男声と女声のかけあいにバックコーラスが入る。もう1曲は、あの豊岡に娘さんがいたという女性のソロ。ハーモニーはきれい、声量はある、男声の重みも十分に効いている。ことにソロでは会場がシーンと静まりかえって聞いた。ウクライナ人の音楽性だけでなく、祖国への思いもこの歌声を作り出したのだと思う。
 
 11時頃お開き。 外は真っ暗で雨風が混ざる中、マーシャル・ルィバルコは黙々と進む。明朝にはキエフだ。  



目次へ戻る