万国の労働者、団結せよ!
トヴェリ市内で見かけたマルクス像。その下は難しそうなロシア語なので何が書いてあるのかわからないが、最下部にある絵は「鉄鎖以外に失うもののない」労働者達をしばりつけていた鉄鎖を断ち切るというものであろう。それにしても、ソ連崩壊後十数年を経ているのに、なおこれが残されているのにはどう言ったらいいのか。 (2007年8月撮影)
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チェルノブィリ子ども基金
ミンスク市内の同基金事務所の壁にあった看板。現地語の他に使われているのが英語や日本語ではなくドイツ語という事実が、支援に熱心なのはどこの国民かを示している。 (2000年12月撮影)
チェルノブィリ・ツアー
キエフ市内で見かけた。チェルノブイリの廃墟も今は観光資源らしい。チェルノブイリかあるいはその近傍のプリピャッチあたりへのツアーを専門とする会社の看板。 (2019年9月撮影)
大統領選挙
ソ連から独立直後のウズベキスタン共和国テルメズの役所に掲げられた国旗と大統領選挙を知らせる看板。 (1991年12月撮影)
新しい市名
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ペレストロイカの時代から、革命家や政治家の名前を付けた船や都市の名前を変える動きがあったが、ソ連邦の崩壊でそれが一気に加速した。その最も大きなものはロシア第二の都市レニングラードの改称で、市民の中に様々な議論がある中、元のサンクト・ペテルブルクに戻された。写真は、市内モスクワ駅のターミナル・ビル屋上の駅名表示。 (1993年12月撮影)
古い市名
その改名から10年以上も経った2005年夏、ペトロパブロフスク要塞の敷地内で見かけたマンホールの蓋。市名の書き換えもここまでは手が回らなかったものとみえる。 (2005年8月撮影)
古い市名
市内で見かけたパン屋。こちらは書き換えに手が回らなかったとかではなく、意識的に古い市名を商標にしてそれに郷愁を感じる顧客をつかもうという戦略だろう。 (2020年2月撮影)
ペレストロイカ
シベリアの寒村ヴォロゴヴォで見かけたペレストロイカをよびかける看板。当時の意気込みももちろん伝わってくるけれど、今になってこうして見ていると看板自体が欠けたまま放置されているのはペレストロイカのその後を象徴しているようにも見えて複雑な思いになる。 (1999年8月撮影)
政党の看板
言うまでもなくソ連時代にはソ連共産党しか政党は無かった。今では、思い思いの政党が活動をしている。写真はオデッサ港の埠頭近くにある政党事務所の看板。どんな素性の政党かは私は知らない。 (2003年8月撮影)
消されたレーニンら
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アムール河畔の村ボゴロツコエの映画館跡。館名は「ロシア」。現在は商店として使われている。正面の大きな扉の真上が周囲と不釣り合いな色に塗りつぶされているが、よく見るとここには以前マルクス,エンゲルス,レーニンの肖像が描かれていたことがわかる。ソ連崩壊の時期に消されたのであろうが、当時塗料が不足していたにしても、肖像が透けて見える不徹底さが何やら物言いたげに思えるのは気のせいか。右の写真は左の写真の一部をパソコンで処理したもの。 (2002年8月撮影)
制限時間
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ホテルの車寄せにあった停車時間制限の掲示。そこに長時間車を停められたらいろいろ支障が出るから、なかなか合理的な規則だと思う。 (2006年8月撮影・ユジノサハリンスク)
営業時間
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喫茶店だか軽食堂だかのドアにあった営業時間の表示。これで、月曜から土曜までは11時〜24時、日曜日は12時〜24時と読む。ここの表示は開店時刻と閉店時刻の間を「−」でつないでいるからまだいいが、それのかわりとして「・」もよく使われる。「□10・24■12・02」なんて書かれたら、外国人にとっては暗号みたいなもので、「10月24日が開店1周年のセールで、12月2日はオーナーの一周忌なのか?」とか、とんでもない想像をさせることになりかねない。 (2007年12月撮影・ウラジオストク)