商店の看板
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当時、商店の看板と言えば「薬局」,「パン屋」といった素っ気ないもので、「石川商店」といった固有名詞はほとんど見られなかった。デパートというよりも“名店街”といった趣きの国営百貨店などでは、同じ品物を扱う店が並ぶと看板のほうも「織物」「織物」と続くことになる。 (1985年8月撮影・モスクワ)
西側のチェーン店
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ペレストロイカの時期になって、西側の企業がソ連に進出することが容易になり、日本でもよく知られたチェーン店をモスクワなどでも見るようになった。それぞれの商標やロゴ・マークを前面に掲げた店構えもさることながら、それ以前に店員が客に笑顔で対応するということでモスクワっ子を驚かせたものだ。 (1990年12月撮影)
野球試合のポスター
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ペレストロイカの時期に流入しようとしたのはお店ばかりではない。写真はハバロフスク市のホテルのロビーに貼ってあった野球の試合のポスター。相手は愛知県のチームらしい。
ソ連はスポーツ王国とは言うものの野球は殆ど普及しておらず、この時期、日本の団体が用具一式を寄贈したとかいうニュースがときどき報じられたものだが、その後はすっかり音沙汰なくなってしまった。 (1989年8月撮影)
被災者救援
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ペレストロイカの初期の段階でウクライナ共和国チェルノブィリでの原発事故があり、ソ連の国家財政は大きな打撃を受けたが、それに追い打ちをかけるように1988年アルメニアで大地震が発生して、多くの犠牲者が出た。それに対して全国的な支援が呼びかけられ、当時アルメニアとの関係が悪化していたアゼルバイジャンからも支援が寄せられたという。写真はハバロフスク市内の郵便局の窓口に貼られた救援を呼びかける貼り紙。 (1988年12月撮影)
独立運動
ペレストロイカが進むとソ連を構成していた各共和国で独立の気運を生じ、地域によってはソ連軍との衝突という事態に至った。グルジアの首都トビリシでも軍との衝突で市民が犠牲になるという事件があり、それを機に共和国民の独立志向が一気に強まった。写真はその「四月事件」から数ヶ月後のトビリシ市内で見た住宅。1文字のスローガンも無く、ただ民族旗を描いたり掲げたりしているだけなのに、いかなる雄弁にも勝るという印象。 (1989年8月撮影)