永遠の炎を守る (オデッサ)




 1980年代の後半、ソ連各地の都市では第二次世界大戦(大祖国戦争)の戦没兵士の碑をコムソモールの若者などが交代で「守る」のが流行した。次の当番者が交代に来るまでの一定時間身じろぎもせずに立ち尽くす。そして交代の時は、モスクワのレーニン廟の衛兵の交代を模したような「儀式」があるのが通例だった。そして、この役は選ばれた者だけが担うことができ、それをできるのは名誉なこととされた。海の町オデッサには戦没水兵の碑があり、写真はその碑の警護にあたる女子コムソモール員。  (1985年8月撮影)

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永遠の炎を守る (キエフ)



 キエフの戦没者慰霊碑の警護にあたる少年。雪の舞う冬の立哨はラクではないはず。  (1988年1月撮影)

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永遠の炎を守る (イルクーツク)



 シベリアの冬となるといっそう辛いはずだが、2人とも身じろぎせずに立ちつくしていた。もう春がそこまできているからか。  (1984年3月撮影)



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永遠の炎を守る (ハバロフスク)


 ハバロフスクでこれが行われるようになったのは他の都市よりだいぶ遅れてであった。そして、すぐその後にペレストロイカ、ソ連邦崩壊と続いたから、子どもたちによる永遠の炎の警護も短期間で終わってしまうことになる。背後の壁には戦没者の名前が刻まれている。  (左・中:1987年8月,右:2002年8月撮影)


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永遠の炎を守る (ブレスト)


 ブレスト要塞の「永遠の炎」での立哨を終えて詰め所に戻る若い兵士達。  (2000年12月撮影)


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戦没兵士の記憶 (コムソモリスク・ナ・アムーレ)



 その土地から出征して帰ることのできなかった兵士の名を刻んだ碑は旧ソ連全土のいたるところにある。この写真はハバロフスク地方コムソモリスク・ナ・アムーレのもの。名前を書いた石板はカメラの背後にも複数列あり、戦線から遠く離れたこんなに東の端の土地でもおびただしい数の戦死者が出たということを伝えていた。   (2002年8月撮影)



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戦没兵士の記憶 (ムィシキン)


 ボルガ河畔の小さな村ムィシキンに、戦勝60周年を記念して建てられた大きな兵士の像と、その周囲にある戦没兵士の名を刻んだ壁。こんな小さな村でもこれだけの人がと思うほど、おびただしい数の名前があった。  (2009年8月撮影)


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戦没兵士の記憶 (ベラジョールスク)


 ベーロエ湖畔の村(ここでも現地の人は語気を強めて「町」だと言うが)ベラジョールスクの戦没者慰霊碑。クレムリンの土塁のすぐ外にある。きっと人々のつながりが強い地域なのであろう、戦後60年以上経つというのに、多くの名前のところに色とりどりの花が挿されていた。  (2009年8月撮影)

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