なんでもない通りの風景だけれど、やはりソ連時代とは何かが違う感じがする。 (最下段左及び中:2017年1月,同右:2020年2月,その他:2013年8月撮影)
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私の人生で最後のペテルブルク訪問になってしまう可能性の高い2020年の旅の折りに撮った街の様子。 (2020年2月撮影)
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市の中心部で見かけた郵便局。中央局ではなく、日本で言えば特定局にあたる小さな局。なぜ郵便局の写真など撮ったのかというと、ヨーロッパでは珍しくないらしいホルンのシンボル・マークがロシアではとても珍しかったから。 (1999年12月撮影)
市内で見かけた子ども広場。入口の構えはいかめしいが、中を見ると建物に囲まれてはいないものの、ロシアの都会によくある中庭(ドゥヴォール)の風情。 (2020年2月撮影)
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市内で見かけた教会や聖堂。由緒あるものかどうかは知らないが、一見して最近になって建てられたかあるいは復元されたという感じだ。 (上・中段:2011年12月,下段:2020年2月撮影)
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市内にあるイスラム教のモスク。 (左右:2020年2月,中央:2011年12月撮影)
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モスクワ大通りにある。19世紀前半の露土戦争の勝利を記念したものと言われる。 (左及び中:2016年12月,右2017年1月撮影) 前のページへ 次のページへ 目次へ戻る
モスクワ凱旋門のすぐ近くにある記念碑。モスクワ大通りはそのままモスクワへ向かう街道につながるから、このあたりに関所を設けたということなのだろう。 (2017年1月撮影)
いずれも冬季の写真。左の写真で川面に湯気のようなものも水面に見えるのは、川には都市型の温排水も入るからか。中・右の写真は、左の写真を撮ってから30年以上経過した後での厳冬期の写真だが、川面の凍結のしかたが左の写真に比べれば緩い感じがして、地球温暖化のせいなのかとちょっと気になる。 (左:1987年12月,中・右:2020年2月撮影)
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ネヴァ川に面したワシーリー島の岸辺。 (2011年12月撮影) 前のページへ 次のページへ 目次へ戻る
ペテルブルク市内には、ネヴァ川にかかるものだけでも、何本もの橋がある。橋によっては、欄干に綺麗な透かし彫りがあったり、夜になると電飾が点いたりと、きれいなのもある。 (2011年12月撮影)
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ペテルブルクは町の創建以来幾度も高潮による洪水に見舞われてきた。左の写真は、ことに被害が深刻だったとされる1824年の洪水で、水位がここまで達したということを示すプレート。下方の細い横線がその最大水位。プレートは、ドストエフスキーの小説『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフの下宿があったとされる建物の壁に取り付けられていた。右の写真のうち、大きなレリーフとその下の銘板は、この建物がラスコーリニコフの下宿だったということを示していて、その左側にこのプレートが小さく見える。 (2000年12月撮影)
アレクサンドル・ネフスキー修道院内の墓地にある。 (左:1985年8月,右:2017年1月撮影)
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同じくアレクサンドル・ネフスキー修道院内の墓地にある。 (1985年8月撮影)
同じチフヴィン墓地にある作曲家グリンカの墓。 (左:1985年8月,右:2017年1月撮影)
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やはりアレクサンドル・ネフスキー修道院の境内のチフヴィン墓地にあるムソルグスキーとボロディンの墓。右側がムソルグスキー、左側のがボロディン。ボロディンの背面の楽譜は歌劇「イーゴリ公」の中の「ダッタン人の踊り」。 (左:1985年8月,中及び右:2017年1月撮影)
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