ヴェヴェイのシューリヒト

 シューリヒトという名指揮者がいます。ウィーン・フィルと録音したブルックナーの交響曲などまさに至宝とでも言うべき録音など、今世紀を代表する一人ですが、ドイツのダンツィヒに一八八〇年七月三日に生まれ、子供の時から才能を示し、十四歳の時に作曲した二つのオペラが認められて、パトロンがついたそうで、大変な才能の持ち主だったようですね。
 マインツの歌劇場でコレペティをしながら学び、後にはベルリンで、歌劇「ヘンゼルとグレーテル」で有名なエンゲルベルト=フンパーディンクの作曲も学んでいます。
 31歳の時にはヴィスバーデンの歌劇場の音楽監督に就任し、一九四三年までその地位にありました。
 その間、ウィーン・フィルをはじめ多くの一流オーケストラにも客演したり、フルトヴェングラーと共にブラームス・フェスティバルを企画したりしています。
 しかし、一九四四年の秋にスイスに亡命、レマン湖畔のジュネーヴに移ります。そしてアンセルメのオーケストラに客演したりしますが、この亡命の年、チューリッヒでMaria Martha Banzと結婚しています。

 戦後もスイスのこのレマン湖畔が気に入ったのか、ヴェヴェイに住み続け、一九六七年一月七日、同地で亡くなっています。
 ヴェヴェイにはお墓もあります。多分、駅の裏手、少し登ったところの教会の墓地ではないかと思うのですが、残念ながら見つけられませんでした。
 ヴェヴェイと言えば、ハスキルも住んでいて、共演した演奏会のライブ録音も残っていますから、まさにご近所つき合いしていたのではないでしょうか。
 とは言え、ハスキル同様、戦後はザルツブルグ音楽祭のオープニングでウィーン・フィルを指揮したり、親交の深かったフルトヴェングラーの追悼コンサートの指揮をしたりと、巨匠の中の巨匠として皆の尊敬を一身に集めていたのであります。
 ウィーン・フィルにとっては、最大級の客演指揮者の一人として、またフランクフルトやベルリンでもその丁寧で実直、野心の欠片もない謙虚で暖かい人柄が楽員たちから愛されたと言います。
 七カ国語を流暢に操るという頭の持ち主でもあったと言います。

 ヴェヴェイはジャズ・フェスティバルで有名なモントルーの隣の街で、少しローザンヌの方に行った古い町です。モントルーと違って古い町並みが湖畔に残り、高台には一一七〇年に建てられたという聖マルタン教会(今世紀に入って改築されてはいますが)があり、美術館などもある、なかなか魅力的な街です。
 そうそう、チャップリンもここに住んでいたそうで、湖岸のプロムナードに銅像が建っています。
 この近くにはオートリー・ヘップバーンの住んでいたそうですから、多くの文化人に愛された街だと言えるのではないでしょうか。
 今年(一九九九年)ヴェヴェイの通りでハスキルの写真を見つけました。「あっ」と思って近寄ってみるとクララ・ハスキル・コンクールのポスターでありました。
 旧市街の一角に楽器屋さんがあったりすると、こんなところにハスキルが下宿していたのかもしれないなぁと思ったりしてしまいました。
 ヴェヴェイと言えばネスレの本部のある街ですが、文化が息づく素晴らしい町並みを、大音楽家シューリヒトが愛し、そこを終の棲家としたのは、訪ねてみて、何とはなくわかったような気になっています。

 この重々しくならない町並み。夏も涼しげな風がレマン湖を渡ってやって来、冬は南向きの斜面に燦々と太陽の光がやってくる。こんな街だからこそ、シューリヒトがドイツに帰ることなくここに住み続けた意味を、私なりにではありますが、納得できたのであります。

 スイス・イタリア語放送管弦楽団を指揮して、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第五番「皇帝」をバックハウス(ジュネーヴ在)と共に演奏したCDを聞きながら、その素晴らしさに引き込まれながら、ヴェヴェイの思い出に浸っていた次第です。