ルツェルンとクーレンカンプ

 今世紀前半に活躍した、ドイツ系ヴァイオリニストの代表格はアドルフ・ブッシュとゲオルグ・クーレンカンプであります。
 彼らは、シュポア、ヨアヒムにつながる伝統の継承者でもありました。アウアー、イザイといったロシア系、あるいはベルギー系とはまた違った音楽の系譜で、こういった面から色々なヴァイオリニストの演奏を聞くのも面白いですね。まあ、最近はガラミアン一門(というように十派ひとまとめにするのは随分乱暴なことなんですけど)があまりに多く、ジュリアード出身者ばかりになって、こういった面白さが半減しているのですが…。

 スイスに縁のあったヴァイオリニストとしては、ドイツ系のヴァイオリニストで十九世紀終わりから今世紀前半にかけて活躍したカール・フレッシュ(名ヴァイオリニストのシェリングなどがお弟子さんで、ムターはその孫弟子にあたります)がルツェルン音楽院で教えていて、一九四四年からはクーレンカンプ、一九四八年からはウォルフガング・シュナイダーハン、そしてその弟子のバウムガルトナーと一貫してドイツ・ヴァイオリン奏法の伝統を守っているのがルツェルン音楽院なのであります。

 ゲオルグ・クーレンカンプは一八九八年にドイツのブレーメンに生まれました。ベルリンでヨアヒム門下の逸材と呼ばれた名教師ウィリー・ヘスについて学んだ後、十八才でブレーメン・フィルのコンサート・マスターに迎えられ、一九一九年にはベルリンに赴き、ソリストとして活躍するとともに、一九二三年から一九二六年の三年間と一九三一年から一九四三年の十二年間に渡って後進の指導を母校のベルリン芸術大学で行っています。

 この時代のドイツの音楽家は全てナチとの関係を問われるという宿命を帯びています。もう一人のドイツ系の大ヴァイオリニストのアドルフ・ブッシュはアメリカに亡命したのですが、クーレンカンプはドイツに残り活動を続けました。
 ヒットラーが「私の愛好するアーリア人の名手」と呼んで大切にしたという経緯は有りますが、ナチの忠実な下僕にはならなかった、大変高い人格の持ち主であったと考えられます。何と言っても一九三七年頃だったと思いますが、ベルリンでメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲をテレフンケンに録音までしているのですから、大したものであります。
 フルトヴェングラーも度々共演し、クーレンカンプが愛したシベリウスの協奏曲の録音も行っています。クーレンカンプはわざわざフィンランドに赴き、シベリウス本人に演奏上のアドバイスを受けたそうですから、実に誠実な作品の再現者たらんとしていたことがわかります。
 この真摯な作品への態度がクーレンカンプの演奏の最大の特徴と言えるでしょう。

 クーレンカンプを巡ってもうひとつ有名な話は、シューマンの晩年のヴァイオリン協奏曲の蘇演を巡るお話ですね。一九三七年にその少し前に発見されたシューマンのこの晩年の作品を、だれが初演するかで、政治が絡んで争奪戦が繰り広げられ、結局はナチがクーレンカンプにこの曲を初演させ、録音もさせたのであります。

 しかし、元来の病弱な体質だったこともあり、更にはドイツの状況に絶望して一九四四年一月、スイスのダヴォスに逃れたのです。
 でも、世間は彼を放ってはおきませんでした。一九四四年十一月十四日、ルツェルン音楽院で教鞭をとっていた名教師カール・フレッシュが亡くなったのです。
 「その後を受けて、是非指導をして欲しい」という要望がダヴォスのクーレンカンプの元に続々と届けられ、彼は病弱の身をおしてこれを引き受けています。

 戦後、ドイツでの演奏活動も再開したのですが、病気のせいで活発と呼べるほどのものではありませんでした。ショルティの弾くピアノとの共演でのブラームスのヴァイオリン・ソナタ全集の録音はこの時期の録音であります。
 甘美な音色で感覚的に演奏するのではなく、いかにも思索的で造形を大切にした演奏は、ドイツ・ヴァイオリン界の伝統を背負っていると言えますし、クーレンカンプは更に磨き抜かれた音色、考え抜かれたアーティキュレーションとフレージングで、作品に対する実に真摯な態度を保つのであります。

 難しげで退屈な演奏とも違う、音楽の再現者としての理想的な姿がそこにあったのであります。

 彼の演奏する先のブラームスや、戦争中、ナチの妨害にもめげず録音したメンデルスゾーンの協奏曲、フルトヴェングラーと共演したシベリウスのヴァイオリン協奏曲など、またS=イッセルシュテット指揮のベルリン・フィルとの共演によるベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲など、まさに至宝と呼ぶべき演奏の数々であります。

 最後の演奏会はシャフハウゼンで開かれたそうで、一九四八年の九月二十二日、四十度の高熱をおしてバッハの無伴奏ソナタ、パルティータを数曲弾いた直後に倒れ、十月五日の夕方、チューリッヒの病院で脊髄麻痺の為亡くなったそうです。五十才の若さでありました。したがって、健康の思わしくなかった晩年の演奏ですら、決して音楽的にもヴァイオリンの奏法的にも衰えは聞かれなかったといって良いと考えます。

 バーゼル出身のエドウィン・フィッシャーが追悼演奏会でバッハのコラール前奏曲「おお人よ、汝の罪の大いなるを嘆け」とベートーヴェンの最後のハ短調のソナタを弾いたそうです。