ジュネーヴ・国際コンクールとショルティ

 先頃亡くなった、ハンガリーの名指揮者、サー・ゲオルグ・ショルティは、故国のブダペストのリスト音楽院でコダーイやバルトークに学び、指揮者を目指していました。
 一九三九年ショルティ二十六才の頃、ナチスの侵攻を避けて彼はスイスに逃れます。最終的には、当時の多くの人たちと同じく、アメリカを目指していたようですが、ここで動けないまま、数年を過ごしています。
 指揮の仕事も無く、食べることも大変だったことでしょう。大音楽家にもそんな時期があったんですね。

仕方なくジュネーヴ国際音楽コンクールをピアノで受け(一九四二年)、何と優勝をさらってしまうという快挙を軽々と?かどうかは知りませんがやってしまいます。
 まぁ、この辺りが私たち凡人とは違うところですが、指揮者としてよりもピアニストとして先にデビューしてしまうのですから、凄いですね。

 その前、第一回(一九三九年)の優勝者はあのベネデッティ・ミケランジェリで、ショルティが受けた四十二年のコンクールも相当レベルの高いコンクールだったようです。
 審査員にはバックハウスやスイスの大作曲家マルタンなどが席を並べていたそうですよ。それなのに、ショルティは優勝を果たし、最初のキャリアを指揮者としてではなく、ピアニストとして歩み始めたのであります。
 この優勝によってスイスで彼はやっと弟子をとることが出来(それも歌の)なんとか生活が安定することになったのです。労働許可を持っていなかった彼は、歌劇場のコレペティトゥーアのアルバイト(それも正規のではなく専属のコレペティトゥーアの休みの時の代理として)で食いつないでいたようです。
 そしてこの時の優勝賞金で一年間の生活がやっと目処がたったわけですから、それまで歌劇場のコレペティトゥーアとして以外に大したキャリアの無い音楽家にとっては大変ありがたい優勝となったようです。

 このおかげで、スイス各地でのコンサート契約も出来、指揮者としてもヴィンタートゥーアのオーケストラとゲザ・アンダ(ショルティと同国人の名ピアニスト、当時スイスに亡命していた)とモーツァルトの協奏曲をやったり、クラランに住んでいた名ピアニストのニキタ・マガロフ(ジュネーヴ国際コンクールの審査員だった)の自宅に招かれショルティの同国人のこれまた名ヴァイオリニストのヨーゼフ・シゲティに引き合わせてもらったりしています。
 この時、シゲティから伴奏者としてアメリカ演奏旅行に誘われたりしているのですが、彼は指揮者になるためにはピアニストとしてのキャリアを続けることを拒み、これを断っています。これに行っていれば、別のショルティを私たちは知ることになったでしょうが、後に彼の妻となったヘトヴィヒ・エースクリの大変賢明な忠告があったためです。

 ところで余談ですが、一九三九年のミケランジェリの優勝時の演奏が録音されてCDとなって売られています。曲はリストのピアノ協奏曲第一番で伴奏はアンセルメ指揮のスイス・ロマンド管弦楽団でありました。これが実に壮絶な演奏で、録音の悪さを超越して迫力満点の演奏で展開されています。(伊Arkadia/HP-624.1)

 さて、ここに一枚のCDがあります。チューリッヒの放送局のスタジオで一九四七年と一九四八年に録音されたもので、クーレンカンプのヴァイオリン、ショルティのピアノによるブラームスのヴァイオリン・ソナタ全集(と言っても三曲しかないのですがね)であります。(国内盤/DECCA/POCL-4716)

 クーレンカンプはドイツの名ヴァイオリニストです。
 カール・フレッシュ(この人もまた戦前のドイツを代表するヴァイオリニスト)が亡くなったあとを受けてルツェルン音楽院の教授としても有名で、一九四三年からスイスに住んでいました。
 しかしクーレンカンプはこの頃、進行性の脊髄麻痺症に罹っていて、この録音を最後に二ヶ月後亡くなっています。しかしショルティにとっては、このレコーディングが後に大量にデッカに録音する(二百五十以上)その最初の録音、即ちショルティのレコーディング・デビューとなる記念すべき録音であったのです。

  彼の自伝を読んでいると、この時、チューリッヒ・トーンハレを指揮してベートーヴェンのエグモント序曲を録音しているはずなのですが、聞けたらいいのですがねぇ。指揮者としてのこれまたレコーディング・デビューだと思うのですが。

 戦後、すぐにバイエルン国立歌劇場の指揮者として、そしてフランクフルト歌劇場の指揮者として活躍し始めています。すぐに注目に値する仕事を開始した彼はスイス・デッカの社長ローゼンガルテンに呼ばれてこの録音をしたのです。すでに指揮者としての第一歩を刻み始めていた彼は、それでも素晴らしいピアノの演奏を披露しています。

 この録音が生まれたのも、戦中の困難な状況で仕事も無く、知る人もいない外国でジュネーヴ国際コンクールを受け、優勝したことで録音できたのですから、ショルティにとって指揮者のキャリアには役立たなかったかも知れませんが、結果的にはその第一歩となったのですから、良かったとするべきことであったのでしょうね。
 しかし、戦前のドイツを代表する音楽家の最後の録音に、新鋭のショルティのデビューが重なるなんて、何という運命のスクランブルでありましょう。