プーリアへ行こう!目次 プーリアの歴史 旅のエピソード リンク集バジリカータ州の街
フォッジァ地方の街 バーリ地方の街 ターラント地方の街 ブリンディジ地方の街 レッチェ地方の街

Otranto

オトラント  <1997年>戻る

何もない、誰もいない

オトラント駅を降りると、そこには何もなかった。正確には駅舎と畑だけがあった。”街はどこだ?”
バッグをリュックスタイルに変え、長距離歩行態勢に入る。少し行くと”Otranto>”の道路標識が。そう、右へ行けばいいわけね。でも、ちょっと待ってくれ。ここはオトラントじゃないのか?

標識に従って道を行くと、やがて港に出ることができた。意外に街は近かった。と安心したものの、街の様子が変。店が全部閉まってる。そして、ホテルも閉まってる。街には人の姿が見えない。完全に休み切っている。どうしよう。

観光客は一人だ!

結局、しばらくウロウロした後で、あるホテルの裏口の戸をたたく。宿泊OK。どうやら、その日(1997年3月)、オトラントに宿泊した観光客は私一人だったようだ。その晩、一件だけ開いていたレストランの客は私と地元の人1名だけ。そのホテルの朝食も私一人分しか用意されていなかった。
大聖堂

モザイクに感動

そんな辺鄙なところ(実際、イタリアの東の果て)までやって来たのは、この大聖堂がどうしても見たいと思ったから。
床のモザイク画がすばらしい(暗くて写真は撮れなかった)。モザイクと言っても、本家ビザンツ帝国流の絢爛豪華なものとは異質のもの。ゲルマン的な素朴さが入り交じっていて、独特の魅力がある。描かれたのは12世紀で、ビザンツ帝国領からノルマン人の支配下に移行した時期。その時代的な背景がよく現れているように思う。作者は地元の工匠パンタレオーネ。

オトラントは、1480年オスマントルコによって占領され、住民800人が殺されるという事件を経験している。犠牲者の頭蓋骨は、大聖堂の奥にある礼拝堂の壁一面に安置されている。
アラゴン時代の城 オスマントルコ軍はアラゴン家によって敗退させられ、その後、この城が造られた。
オトラントの旧市街は、すごく狭くて家が寄り添うように建っている。街を歩いてみると、街全体が一つの要塞になっているように思える。中世ヨーロッパの都市は、どこでも城壁を備えた堅固なものだけれど、この街の構造にはさらに強烈な緊張感が感じられる。
戻る


旧市街内の住宅

<旅行メモ>

レッチェからSud-Est線で。途中、Soleto,Maglieでの乗り換えに注意が必要。