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98.09.23

ほかののを

 夏目漱石の夫人・鏡子さんが、文豪との結婚生活を語った『漱石の思い出』は、さまざまな面白いエピソードとともに、面白いことばに満ちています。
 その一つが、「のの」。たとえばこういうふうに出てきます。漱石の見合写真を初めて見るというところで、

〔前略〕これまできた写真では、この人になら自分の一生を託しようという気を起こさせるほどの人物らしいものもなかったし、父のほうでもそれほど進んでいたものもなかったようでした。ところがこんどの写真を見ると、上品でゆったりしていて、いかにもおだやかなしっかりした顔立ちで、ほかののをどっさりみてきた目には、ことのほか好もしく思われました。(文春文庫 p.20)

 ふつうは「ほかを」というところです。これ、印刷の間違いじゃないかと思ってずっと読んでみると、幾個所も出てきます。もっと後のほうでは、「坑夫」のモデルになった男が妙な言いがかりをつけるので

夏目も業を煮やします。私もおもしろくなく思っておりますと、どう考えたものか翌日になると、今まで帰るところもなかったはずののが急に帰りたいからと申します。いい按排だと思ってそれきり縁をきったわけです。(文春文庫 p.210)

とある。これも「帰るところもなかったはずが」となるところ。
 いったい、これは何だろうか。
 古くから、「先のものも」の「もの」を省略して「先のも」というような言い方はありました(「仏足石歌」や「土左日記」あたりから例がある)。意味は両方とも一緒ですね。「私のものだ」を「私のだ」という言い方も、同様の省略です。
 また、後には、「がの」なんていう言い方もできました。「東海道中膝栗毛」に

ナニ走ったとは、逃げたのか。ソリャ大変だ大変だ。その男の着物といふは俺がのだ。(六編下)

と出ています。この場合、「俺が着物だ」(俺の着物だ)というところを、「俺がだ」としているわけ。数学的にいえば「の=着物」です。単純な省略ではなく、ここでは「の」が名詞の代わりをしています。
 鏡子夫人の「ほかのをどっさりみてきた目」という例も、「ほかの写真をどっさりみてきた目」ということですから、連続する「の」のうち後のほうは「の=写真」ということになります。
 鏡子夫人は1877年広島の生まれですが、小さいころに東京に移っていますから、まあ東京ことばの話し手と思われる。もっとも、この文章は漱石の娘婿・松岡譲(まつおかゆずる)によって筆録されたもので、彼のことばが強く影響しているはずです。
 僕は、松岡譲が新潟県生まれということぐらいしか知らず、いつ東京に出てきたのかも知りません。ただ、『日本方言大辞典』によれば、新潟では「あののを持ってきた」という言い方があるそうです(助詞「の」の項)。とすると、「ほかののを」というのも新潟方言で、それを松岡譲が意識せずに使ったのでしょうか。


追記 佐藤貴裕氏から、新潟出身の先生やご友人が「のの」を使っていたとの情報をいただきました。
 また、松楓庵氏からは、出身地三重県鳥羽市で「のの」や「がの」を使っているとの報告をいただきました。
 鳥羽市では「こっちののも見てみよ(こっちのものも見てご覧よ)」「この車、われがんのか?(この車はきみのかい?)/おお、おれがの車や(ああ、おれの車だよ)」のように使うそうです。「がんの」は「がのの」のことだそうで、とすると「の」にあたる助詞の3連続ということになるわけでしょうかね。

追記2 『日本語の世界6 日本語の文法』(中央公論社)で、北原保雄氏は「ぼくは うなぎが 食べたい」という文を「ぼくは うなぎだ」に変形するにあたり、中間に
 「ぼくののは うなぎだ」
という段階を設けています(p.292)。僕としてはこの段階はことさら必要はないと思いますが、ともあれ、北原氏の語彙にはこの「のの」があるのかもしれません。ちなみに、北原氏もまた新潟の出身です。(99.01.26)

追記3 「のの」について、早く松下大三郎『改撰標準日本文法』(1930)に記述があるのを見つけました。

〔東京語で「自分はないが人がある」などという場合〕この場合の「自分の」「人の」は「自分の物」「人の物」の意で名詞性再名詞である。東海道辺では「自分のの」と云ひ、東北人は「自分がの」と云ひ、四国人は「自分のが」といふ。四国では「が」が形式名詞になる。以て「の」が助辞の「の」から出たものであることが察せられる。(p.246)

 東海道あたりで「のの」を使うとすれば、広く中部地方に分布している(していた)のかもしれないと思います。
 また、四国で「のが」を使うとありますが、香川県高松市出身の僕としては「自分のがはないが……」などという言い方は耳にしたことはありません。(99.02.08)

追記4 大野小百合「現代方言における連体格助詞と準体助詞」(「日本学報」2 1983、3 1984)に詳しい論考があります岡島昭浩氏ご教示)
 全国の方言を調査し、連体格助詞(「の」など)から準体助詞(「がの」など)が成立するする過程について考察しています。その論証は、僕にはちょっと難しくよく分からなかったのですが、そこに準体助詞の方言地図が記載されています。
 ただ、この地図では「のの」のマークがあまり見当たらないような感じです(山口県に1カ所あるのかな)。新潟県ではむしろ「がん」「が」「んが」などのマークが分布しています。「のが」は四国では高知県にある。「太郎ノガモ 花子ノガモ オンナシヨ」などと使うようです。 (99.02.19)

追記5 『日本語道場』という本にもこの話題が。(1999.11.11)

●この文章は、大幅に加筆訂正して拙著『遊ぶ日本語 不思議な日本語』(岩波アクティブ新書 2003.06)に収録しました。そちらもどうぞご覧ください。

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