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01.04.04

「とりな」の作者

 1980年、香川県の中学生だった僕たちは、定年間近の書道の先生から、ひらがな・カタカナの書き方を徹底して教えこまれました。
 「活字のかなを真似てはいけない。たとえば、『し』はこんなに鉤が急ではないんだ。『き』と『さ』の形の違いは、棒が1本多いか少ないかだけではないんだ」
 というような話は新鮮でした。手本に従って半紙に練習したものを提出しにゆくと、「お前はひらがなが巧いのう」と言われ、それ以来かなを書くのが好きになりましたから、大恩のある先生です。
 さて、その先生は、ひらがなの手本として「いろは」を使われました。一方、カタカナの手本としては、「いろは」ではなく、目慣れぬ歌を使われました。

トリナクコヱス ユメサマセ
ミヨアケワタル ヒンカシヲ
ソライロハエテ オキツヘニ
ホフネムレヰヌ モヤノウチ

 「いろは」と同じく、日本語のかなを1回ずつ使って作った歌です。漢字仮名交じりに直せば、
 「鳥鳴く声す、夢覚ませ。見よ明けわたる、東を。空色映えて、沖つ辺に、帆船群れゐぬ、靄の内」
 となります。
 目慣れぬ歌――というのは語弊があるかもしれません。僕は、この1年か2年前に、NHKの「ホントにホント」というクイズ番組を見て、「いろは」と同じ方式で作られた「とりなくこゑす」なる歌があることは知っていました。
 ただ、この歌が、公教育の場で書道の手本として用いられている場に立ち会ったのは、そのときが最初でした。
 「とりなくこゑす」は、1903(明治36)年、「萬朝報」が、「いろは」の歌に代わる新しい「国音の歌」を募集したとき、1等に選ばれた作品です。作者は埼玉県児玉郡青柳村の坂本百次郎。このことは、小松英雄『いろはうた』(中公新書)p.22にも触れられています。
 坂本百次郎は数学を専門とする教員でした。『児玉小学校102年誌』(児玉小学校開校百二年誌編纂委員会、1976)の年表によれば、1904.06〜1908.08の間、児玉尋常小学校の校長を務めています。この『102年誌』には、飯野五市という坂本百次郎の教え子で自身も教員だった人の回想録が載っており、「とりなくこゑす」の作歌事情が詳しく語られています。

〔明治36年の〕暮から正月へかけて夜は一つランプの下で遅くまで、先生は作歌に専念され私は勉強していました。出来た歌は幾つもありまして、私の名前で出したのもありました。正月頃同新聞社は中間発表をしましたが、「急げうなゐらいざあゆめ云々」というのが出た時など「こんなすぐれたのがあっては、おれのはおぼつかない」などといわれました。ところが、いざ発表となったら一等になったのです。(「坂本百次郎先生を懐しむ」)

とありますから、「萬朝報」で当選作が発表されたのは、僕は見ていませんがきっと1904年であり、坂本百次郎が校長に就任してから後なのか、それより前なのか、ちょっと微妙なところです。
 百次郎の作歌方法は、かなを記した48枚の正方形のカードを組み合わせたり、さまざまに動かしたりしながら作ってゆくというものだったようです。また、「朝霞酔顔相映紅。先覚満堂和気融。詩就東窓磨墨坐。群雲忽漲硯池中」という元旦を詠じた詩(百次郎の自作?)にヒントを得ているのではないかということです。
 1等入選後は、全国からこの歌を揮毫してくれという要望が集まり、作者は日曜日などに、飯野氏に墨を磨らせながら、届けられた用紙に染筆していたそうで、「とりなくこゑす」がいかに評判が高かったかがしのばれます。
 公教育でも取り上げられました。

 中等学校で国語の教材として取扱われ、習字の教科書に採用され、又学生生徒等の姓名をいろは順でなく、とりな順を用いたところもありました。

 「いろは」に合わせて「とりな」と3文字で呼ばれていたことも分かります。「いろは」は「色は」だから3文字でもいいのですが、「とりな」は何だか中途半端です。
 ともあれ、香川県の中学の書道の先生が、戦後35年経って授業で「とりなくこゑす」を手本として使っていたのには、こうした歴史的経緯があったことが分かりました。この歌が教育の場で使われるのは昔からのことだったようです。

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