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00.11.22

駄文か? 金田一氏の文章

 丸谷才一氏の『日本語のために』について以前書きましたが、この本、現在絶版(または品切れ)であるようです。国語教科書を批判したりして、丸谷氏の国語教育論の原点ともいうべき本だと思いますが、ついに絶版とは。何でも絶版になる時代ですなあ。
 おまけに、同書の続編とも言うべき『桜もさよならも日本語(新潮社)も今では手に入らないそうです。僕はこの本を大学入学が決まった直後に買った記憶があり、思い出深い1冊なのですが。
 2つとも、必ずしも正論ばかりが述べられている本ではなく、筆者の認識不足ではないかと思われる個所もあちこちにあります。しかし、問題提起の書としては今でもそれほど古びていないはずです。

 今回は、その『桜もさよならも日本語』にまつわる話を少々。
 冒頭に「国語教科書を読む」という評論が収められています。その中に「名文を読ませよう」という章があって、当時の国語教科書から、名文の例、駄文の例を出してきて論評しています(新潮文庫版 p.33以下)
 名文の例としては、伊藤光晴『日本の農業』ほかの名が挙げられています。また、「その一方、相変らず駄文も収められてゐる」として、「『中学校国語』三の、『日本人の言語表現』」が挙げられています。
 丸谷氏は、この後者の文章を「おもしろい挿話がぎつしり詰まつてゐて、そのくせ全体の論理的構造がぐらついてゐる、変な文章だ」と酷評しています。

 それはどうやら学者が書いたと思われる文章です。その筆者はヨーロッパやアジア(タイ)を旅行し、そこで接したホテルのボーイの態度を対比的に述べています。丸谷氏の要約に沿ってまとめれば、次のような内容の文章です。
 ――ヨーロッパのホテルのボーイたちは、筆者が何か要求をしても、意味が分からないと言って何度も問い返した。筆者はすっかりいやになって、用件をあきらめてしまった。一方、タイのバンコクのホテルでは、ボーイを呼んでバンコクの地図はないかと英語で言うと、「オーケー」と答えてただちに部屋を出て、なぜか水差しを持って来た――。
 この文章の筆者は、タイのボーイのとんちんかんな振る舞いを、むしろ良いものと捉えています。お客がはっきり言わなくても、それとなく察してやろうという姿勢が、日本人に見られる以心伝心の美風と通ずると考えます。
 この「変な文章」は、次のように結ばれます。

 相手のことばが分からなくても、その気持ちを知ろうとする努力、これは貴いというべきではないか。ヨーロッパのホテルは、タイのホテルと違い贅美を尽くしており、そこに勤めているボーイも、日本人だったらテレビのスターになれそうな容貌・身のこなしをしている。しかし、わたしには、そんなものは、人の心を察しようとする思いやりの気持ちに比べれば、三文の値打ちもないように見えたのである。

 丸谷氏はこの意見に対して疑問を並べます。いわく、「西洋のホテルのボーイも筆者に対して親切をしたくて、熱心に問ひ返したのではないか」。いわく、「(タイのボーイが)いちいちこの調子でやつてゐたのでは、仕事は一向はかどらないだらう」。いわく、「今後、世の中が複雑になつて、以心伝心でゆかなくなると、果していつまで美風でありつづけるだらうか」。いわく、「(容貌の話は)西洋人だからごく普通の顔で、つまり顔の話は不必要ではないか」。
 そして最後に、「奇怪な理屈をつらねた不思議な文章」と結論づけます。

 まあ、そう言えば、そうとも言えるんですけどね。
 この文章、筆者の名が紹介されていませんが、じつは、もとは金田一春彦氏の『日本人の言語表現』(講談社現代新書)の一部なのです。同書は、『日本語』(岩波新書)と並んで、金田一氏が日本語の性格を一般向けに分かりやすく説明したもので、僕はたいへんな名著だと思っています。それが「論理的構造がぐらついてゐる」「駄文」とは、困りました。

 金田一氏のこの本は、よくある、日本語の性質に関するちょっと気の利いた程度の評論とは一線を画すものです。古事記・万葉から近代以降の文学作品に至るまでの豊富な実例に基づいて、日本人特有の言語表現の方法を順序よく説明しています。
 とにかく、その用例の量が半端ではありません。たとえば「日本人は論理に弱い」ということを説明するにあたり、「『葉隠』の中に……」「菊池寛の『真珠夫人』では……」「石川達三の『四十八歳の抵抗』の主人公西村は……」「謡曲の『安宅』の富樫は……」などと、次から次へと実例が並びます。1ページの中に3つも4つも例が引かれてくる。それが200ページ以上にわたって続くのです。まさに「博引旁証」。これは、ちょっとやそっとの学識では真似できないでしょう。
 全体を貫くものは、実例に語らせ、筆者は極力黙るという態度です。「実例としてこういうものがある、これらから帰納すればこういうことが導き出せる」というきわめて学者的な文章の運びです。
 ところが、教科書に取り上げられたという「ホテルのボーイ」の話は、この本の中では例外的に筆者が体験談を語っている部分で、いわば余談というべき部分です。「テレビのスターになれそうな容貌」云々も、一種の憎まれ口にすぎないので、それほど真剣に受け取る必要のないものです。よりによってその部分が教科書に取り上げられたのはまずかったかもしれない、しかも、それが論客丸谷氏の目に止まったのは運が悪かったとしかいえません。

 当該の章では、「ホテルのボーイ」の個所に至るまでに、山ほどの実例によって「以心伝心」を貴ぶ日本人の言語表現が明らかにされています。そこまでで筆者金田一氏の言いたいことは尽きているといえます。それ以降の部分は「いやー、それに比べて、ヨーロッパではずけずけ質問されて、見下されているような気がしたよ」という愚痴ではないかと思います。読者は苦笑しながら気楽に読めばいいのでしょう。

 ちなみに、この『日本人の言語表現』は現在に至るも絶版ではなく、売れ行き好調のようですから、お読みになっていない方には、ぜひご一読をお勧めします。

(2002.09.13 改稿)

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