哀愁のヨーロッパ ミラノ・ヴェネツィア篇 第3話 

カナル・グランデの夜は更けて

赤いオレンジジュース

3日目は熟睡して遅く目覚めた。といっても7時50分だから、いつもよりは早いのだけれども。旅行中はどうしても早起きになるのはなぜだろう?  朝食は例によってみんな同じ時間に決められたテーブルで摂る。このホテルではバイキング形式だった。パン、クリームチーズ、フルーツポンチ、ヨーグルト、カフェラッテ、オレンジジュース。他に クロワッサン、バター、ジャム、シリアル、ミルクなどがあった。コンチネンタルはこんなもの。ドイツにはゆで卵やハムがあったけどなあ。不気味だったのはオレンジジュースで、まるでトマトジュースのように赤い。添乗員のHさんが言ってた赤いオレンジジュースだと気づいておそるおそる飲んでみたら、たしかにオレンジ。糖度が高く、なかなかおいしい。いつもの1人旅ならヨーグルトやパンを非常食用にもらっていくのだが、団体行動なので自粛。お行儀よくしていました。

アドリア海へ

いったん部屋に戻り、またしてもお嬢さんたちの部屋のキーを開けてあげ、ロビーに再集合。きょうはバッグをもたず、ウェストポーチだけ。9時15分発予定のバスは、25分に出発。わずか10分の遅れ。あっという間に船着き場に。そこで「プライベートボート」に乗る。ヴェネツィア本島には自動車は乗り入れられません。ここからは船と自分の足で移動することになります。ボートには「日本のテレホンカードをください」という日本語のステッカーがあって、どうやら日本のテレホンカードがコレクションアイテムとしてはやっているらしい。この晩のレストランのウェイターも「ください」と言っていた。お子さんが集めていて学校で見せっこするそうだ。ボートはこれもあっという間にサン・マルコ広場に着いた。カナル・グランデ経由ではなく、ジュデッカ島の北側のジュデッカ運河からサン・マルコに入る進路だったので、あまり岸辺の建築は楽しめなかった。天気も席もよくなかったので、どっちにしろ無理だったけど。

ひょうきんガイドのマルコ

広場には有翼のライオン像を戴いた柱が立っている。聖マルコの象徴はライオンなのだ。なんで聖マルコかというと、その昔、エジプトからヴェネツィア商人が聖マルコの遺骸を盗み出してヴェネツィアに持ち帰ったから。それ以来、ヴェネツィアの守護聖人は聖マルコということになっている。サン・マルコ広場は浸水していた。潮によってはもっと水没することもあり、それも今頃の季節が危ない。広場には橋のように通路がめぐらされ、濡れないで歩くことができるようにはなっているが、細いので観光客が増えると渋滞する。心配した悪臭はそれほどでもない。雨だからだろうか? しばらく待って、ガイドのマルコがやって来た。この間15分ほど待っただろうか。やっぱりイタリア時間だ。マルコはゆっくりだが上手な日本語を話す。歴史とか美術とかには深く立ち入らず、もっぱらうけねらいの変なガイドだった。

サン・マルコ広場。正面がサン・マルコ寺院

ここは孤児院?

最初は予想通り、ためいきの橋。ドゥカーレ(要するに総督の政庁兼宮殿)の中には刑務所とか裁判所もある。死刑囚が法廷に引かれていく時にこのためいきの橋を通り、その小さな窓から自由な世界をのぞき見てためいきをつく、というのがその名の由来。建物の中に橋があるのは、もちろん、運河があるから。なぜ、ここが最初かというと、ドゥカーレの内部は有料だけどこの橋は外から眺められるので、タダだから。マルコは頻繁にジョークを言って笑わせる。なかでも受けたのは「サン・マルコは、聖マルコという聖人です。ちびまる子ちゃんではないね」。う〜ん、なかなか日本の最近の事情にも通じているようだ。つづいてサン・マルコ広場。均整のとれた美しい広場だけど、面白みに欠ける。鐘楼に上ってみるのもいいかもしれない。マルコによれば「エレベーターがあります。歩いても上れます。階段を歩いて上るのはタダね」。そしてサン・マルコ寺院。あくまでも団体行動なので、先頭をマルコが行き、最後尾を添乗員のHさんがしめる。33人がぞろぞろと歩くのは、相当はずかしい。Hさんが「きょうの予定は?」と私に質問を投げかけた。「アカデミアへ行ってグッゲンハイムを回ってトラゲットで運河を渡って歩いてリアルトから駅まで行ってカナル・グランデをヴァポレットでサン・マルコまで」と答える。「はは。ヴァポレットはいま4,500リラでーす」と最新情報を教えてくれる。彼女にとってはこのツアーは変わりものの部類に入るのだろうか? サン・マルコ寺院に入ると、すぐ前の若い女性が突然振り向いて「あの、ここ、どこですか?」と聞いてきた。このへんが団体ツアーの恐ろしいところで、今どこにいるか把握していない人が出てきてしまうのである。「サン・マルコ寺院」と教えてあげると、「ええ!? 孤児院!?」と素っ頓狂な声を上げた。「違う違う。寺院。教会」と言っても「ここ、孤児院なの?」と不思議がっている。なんか微笑ましくなって、そのままにしてあげた。彼女は帰ってから「すごい豪華な孤児院があったのよ」とみやげ話をしているであろうか。ここはモザイクが有名なのだが、説明もそこそこに一巡してしまう。仕方ない。あとでまた来よう。教会はタダだし。

単独離脱

添乗員のHさんとマルコと少し話す時間があって、美術館の開館時間が変わっていることがわかった。アカデミアは午後6時まで、グッゲンハイムは午後9時まで、ドゥカーレは午後3時半まで。これなら、このまま一緒に団体行動をつづけてそれからの自由時間でもアカデミアもグッゲンハイムも見ることができる。Hさんは「よかったね」と言ってくれたが、私は信用していないのであった。なにしろここはイタリアだ。ツーリスト・インフォメーションですら、正しいとは限らない。ヴェネツィアは今日1日しかない。私は予定通り、ガラス工場見学をパスすることにした。ツアーは広場周辺の店の案内に移る。有名なカフェ・フローリアン。マルコの大学の同級生がやっている宝石店。そしていよいよガラス工場へ向かうところで、Hさんにさりげなく挨拶してツアーをそっと離れた。これは、他のみなさんには内緒なので、おおっぴらに「じゃあ、ここで」というわけにはいかない。秘密は洩れなかったようで、夕食の時にガラス工場の話になったときには「そうですよね」と感想を聞かれて窮してしまった。そこは旅行会社の保証付きだけあって、すごく高かったそうだ。ちなみに、ヴェネツィアン・グラスにはピンからキリまであり、なかには悪徳業者もいて、送ってくれるはずが着かなかったり、着いても壊れていて、取り替えがきかなかったり、品質がよくないのにぼられたり、苦情が続出しています。この手の話はトルコの絨毯とか、問題が多いようなので、買う人は注意してください。私は、必要なものしか買わない(買う金も置くところもない)、たとえ必要でもしばらく我慢する、という主義なのでほとんど買い物をしません。ただし、ブルゴーニュに行ったときにワインを買うとか、目的があるときは別で、事前に予算や運送、関税などを調べます。それでも、完全に成功したとは言い難い。買い物はとにかく気をつけて。といっても、このツアーのみなさんはショッピングに情熱を傾けていますから、きょうの自由行動でも買いまくるんだろうなあ。

《嵐》よ

11時5分、単独行動開始。サン・マルコ広場から西に抜ける。ひたすら「ACADEMIA」の標識をたどる。いくつかの運河を渡り、いくつかのカンポ(広場)を通り抜ける。猫やカモメやカラスや犬が行き過ぎる。やっとヴェネツィアらしい風景に出会った気がする。しかし、なにしろ気がせいていて、風景を楽しむ余裕がない。もし、アカデミア美術館が12時半までだとしたら、急ぐのだ。とはいいながら、しっかり写真を撮っているのだった。実は、経験上、記憶に深く残ることは目的地よりも途中に出会った人やものであることが多い。また、写真に撮ったものは忘れやすい。だから、決して急がず、出会うものすべてを楽しもうとする、また写真よりもよく見て味わうという姿勢が大事。でも、私はこれをどうしても忘れちゃうんだな。おおっと、行き過ぎたのではないかと、いったん戻り、船着き場(おそらくはトラゲット乗り場)まで行ってアカデミア橋を確かめる。まだ先だ。再び西へ。やっとアカデミア橋に着いた。木造のクラシックな太鼓橋。大運河(カナル・グランデ)にかかる橋はそう多くなく、このアカデミア橋とリアルト橋、スカルツィ橋ぐらいなので、いい目印になる。11時30分、橋を渡ったその目の前がアカデミア美術館だった。12,000リラ。元は美術学校だったので、結構入り組んでいる。あまりに嬉しくて展示室に直行してしまい、いつまで開館しているかの確認を忘れてしまった。のんきにも、見て回っているあいだ、「いつ閉館してしまうのか?」という疑問は一度も浮かばなかった。いま考えると実に怠慢だった。勇んで見て回る。ピエロ・デラ・フランチェスカ《聖ジロラモ(ヒエロニムス)と信者》、マンテーニャ《聖ジョルジョ(ゲオルギウス)》など、初期ルネサンスのいい作品が揃っている。そして、いよいよジョルジョーネの作品だ。

ジョルジョーネ《嵐》部分

《嵐》の前にはカップルが陣取っていたので、まず《老婆》から見た。《嵐》のなかの乳飲み子を連れた女性のその後の姿とも言われている。そういえば、顔の角度と視線が同じだ。カップルが立ち去って《嵐》の前に立つ。大きな作品ではない。しかし、謎に満ちている。後景の街並みと運河。中景の若い女性。前景の青年。そして嵐。ジョルジョーネは若くして亡くなったため、作品数が多くない。また、カトリックと距離を置いたヴェネツィアという風土を反映してキリスト教文化だけでは捉えきれない文化背景が盛り込まれている。それはイスラムであったり、フリーメーソンであったり、魔術(錬金術)であったりする。その絵が象徴するものはいったい何なのか、いまだに論争がつづいている。まだまだ勉強しないとダメだなあ、と痛感する。イコノグラフィ(図像学)は奥が深い。

ヴェネツィア派もまたよし

ティツィアーノ、ティントレット、ヴェロネーゼといったヴェネツィア派がつづく。正直いって私はあまりヴェネツィア派が好きではない。装飾的過ぎるのだ。12時の鐘が鳴った。ジョルジョーネを見たらあとは余禄のようなものなので、ゆっくり楽しむ。有名なヴェロネーゼの《レヴィ家の饗宴》はなるほど巨大だった。題材はキリストの「最後の晩餐」なのだが、「ふざけすぎ、不謹慎」の理由でタイトルを変えさせられたいわくつきの作品。ヴェロネーゼが絵を描き直すよりもタイトルを変えることを選んだことからわかるように、もはや「最後の晩餐」は華麗な宴会模様を描くための口実に過ぎず、実際、犬やら小人やら異国情緒にあふれた画面は享楽的だ。ちゃんとキリストもユダもいるんだけどね。ティントレットの聖マルコ連作やティエポロのだまし絵も面白い。あんまり感動しないが。これに対してティツィアーノの最後の作品とされる《ピエタ》には魂を揺さぶられた。モノトーンの中に光って浮かび上がるキリストの体。こういう出会いがあるから、旅はやめられない。アカデミアの売り物のひとつカルパッチョの《聖ウルスラ伝》連作は展示室が閉鎖されていて見ることができませんでした。残念だけど、こういうときはこう思う。「またヴェネツィアに行く理由ができた」。そう、ヴェネツィアがまた来なさいと私を呼んでいるのです。出口が見つからずに少し迷う。絵はがきを3枚買う。3,000リラ。寂しい売場で、もっとミュージアムグッズを揃えたらいいのにと思ってしまった。

20世紀へ

外に出たら晴れていた。12時45分。「GUGGENHEIM」の標識に誘われるようにふらふらと歩いてしまう。もしも短い時間で効率的にポイントを回ろうというのなら、ここでドゥカーレに行き、昼食を摂り、カナル・グランデをヴァポレット(水上バス)に乗り、それからでもグッゲンハイムは間に合う(ものすごく忙しいけど)。しかし、そうやって観光して回ってもどこかむなしいことがある。なんか、旅に振り回されている感じがしてしまうのだ。どうせ、たった1日なのだ。本能のままに行ってみよう。10分もせずにグッゲンハイム美術館に着いた。ところで、同じ美術館でもアカデミアはGallerie Academia、グッゲンハイムはCollezione Guggenheimという。他にもMuseoとかPinacotecaとかいろいろな呼び方がありますが、日本では全部「美術館」でひとくくりにしてしまいます。ギャラリー、コレクション、絵画館と訳し分けてもいいのではないのかなあ。それはともかく、チケット12,000リラ。入ってすぐのところは中庭で、ムーア、エルンスト、ジャコメッティ、アルプ、ヴィヨンなどの彫刻がずらり。右手がコレクションで、左手はミュージアムショップとカフェ。小さな庭だが、この密度はすごい。奥にペギー・グッゲンハイムの墓があった。愛猫といっしょに眠っている。20世紀前半、アメリカの富とヨーロッパの文化との幸福な出会いの結晶がここにある。

おお、ポロックだ!

ジャクソン・ポロック《Enchanted forest》

コレクションはさすがに充実していた。点数は多くないが、ひとつひとつの質の高さが図抜けている。現代美術の教科書のようだ。20世紀美術の作家名鑑といってもいい。私はブランクーシ《空間の鳥》にまた会えただけでもう夢心地だった。中央の階段を降りると、そこは運河に面した玄関だった。ヴェネツィアでは水上から入るのが正面玄関で、地上の入り口は裏口なのだ。ライオンの像にはさまれた立派なエントランス。ペギーが住んでいた頃にはどんなパーティが催されたのだろうか? ここで、高貴な人々が船から降り立ったのだろうか? 水面すれすれに立ってしばらくぼーっとしていた。コレクションはまだつづく。戦後アメリカ美術もある。なかでも、ポロックにはひとつの部屋がそっくりあてられていた。ネイティヴ・アメリカンの砂絵に触発された初期のものから、例のアクション・ペインティングの大作まで。ルネサンスの宗教絵画の世界からタイムトラベルしてきたような気がする。いや、けっこう根は同じなのかもしれない。絵の表面の筆の跡、絵の具のしたたりを細かに見ていくと、作家の息づかいを感じることがある。本物と出会ったときのオーラのようなものを、体にとどめておきたいと思う。

ランチは優雅に

中庭を渡ってショップで絵はがき3枚を買う。3,000リラ。そこでは大量にカレンダーやダイアリーを買っている日本人の中年夫婦がいた。おみやげなのであろう、個々に包装させている。たしかにおみやげとしてミュージアムグッズは気が利いていますが、ここのはかなり高かった。やっぱり日本人はお金持ちだなあ、と思いました。まあ、旅行土産を10人分とか20人分とか買うということ自体が奇異に見えるでしょう。もっとも私も職場全員に(まあ5、6人だったが)ルーヴルで買った小さなカレンダーをおみやげにしたことがあります。でも、ちゃんと全員に違う作家のものにしました。10年以上も前、19日という法外に長い休暇をとったので、さすがにチョコレートでは許してくれないだろうと考えたのでした。しかし、今は事情が違います。おみやげに頭を使うのはやめましょう。化粧品やブランドものなどの買い物を頼まれるなんてもってのほかです。そんなことをしていると旅行が苦痛になります。それはさておき、安易ながら、ここのミュージアム・カフェで食事にする。メニューを見る限り、パスタもサラダもあるようだ。やはり高いが、ヴェネツィアという街では仕方がないと決断する。時間があればシーフードの店を探してみるのだがなかなか見つからない(歩いてる途中でチェックしてたんですけど、ほとんど店がない。もう少し南西に行けば庶民が暮らすザッテレ地区には安い店があるそうだけど)。「manger?(食べられますか?)」と聞くとうなずくので、席についてメニューをもらう。マカロニのベーコンとエッグのソース18,000リラとグリルドヴェジタブル12,000リラ、1/4白ワイン6,000リラにする。英語でも書いてあるので楽勝。水は? と聞かれるがno thank you。さらにムニョムニョ言われるが「?」。「together?」ということは、料理を一緒に出すか? と聞いているらしいので、yes, pleaseとお願いする。パンとワイン、つづいて2皿が同時にサーヴされる。マカロニはペンネ級の太さで、なぜかトマトソース。私はカルボナーラみたいなソースを予想していたので、ちょっとびっくり。旅行中は意図的に野菜を食べるようにしているが、グリルドヴェジタブルはそのまま野菜の網焼きだった。ナス、ズッキーニ、プチトマト、キノコ(ポルチーニではない)、トレヴィーゾ。塩、コショウ、酢(ワインヴィネガー)、オリーブオイルが並べられたので、適当に振りかける。これは野菜自体の味がして面白かった。手抜き料理のような気もするが。2時5分、食べ終わる。ここで正式にドゥカーレをあきらめる。急げば間に合うが、ヴェネツィアは走り回ってあくせくする街ではない。どっちにしろ、ヴェネツィアを1日で堪能できるわけがない。そう決めると気分がゆったりする。エスプレッソ3,500リラを頼む。案の定デザートを勧められたのだが、きょうは断る。チップに2,500リラを足して42,000リラでお勘定をすます。日本円にして3,600円弱か。結論としては、あまり愛想のよいウェイターでもなく、とくにおいしくもなく、むしろ高いここはおすすめいたしません。もっともサンタ・ルチア駅近くのリストランテでは、日本人相手に無茶苦茶にぼるところも報告されていますので、お気をつけください。メニューの値段を確かめるのは最低限の自衛策。

束の間の晴れ間

2時半になっていた。雨は上がっている。東に向かうとサンタ・マリア・デル・サルーテ教会に出た。扉は閉まっている。ここまでくると、両側に運河が見える。さらに東に行くと先端は「海の税関」と呼ばれている。ここからは対岸のサン・マルコ広場やサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会、ジュデッカ島が望める。私の周り280度にわたって、運河、いや、海だ。アドリア海に浮かぶ宝石。人影は少なかった。海の音がする。海の匂いがする。いま思えば、この旅でいちばん贅沢な瞬間だったかもしれない。言葉でも写真でも伝えられない、一瞬の輝き。

フィルムがない!

ここからトラゲット(渡し船。乗り合いゴンドラに立ったまま乗って運河を渡る)を使うつもりだったが、船着き場はあるものも、人はいないし、船もない。しかたなく、アカデミア橋まで戻り、リアルトめざして北上する。ザッテレはどちらかといば生活する街で、地元向けの小さな食料品店や雑貨屋が目立ったが、いったんアカデミア橋をこえると、きれいなウィンドーの店が立ち並ぶ。

製本屋

製本屋(えー、個人で本の装丁をすることは珍しくないのです。フランスの本屋では今でも本の中身だけ売っているところがあって、買った人は自分で紙を切り揃え、製本屋に出して自分の気に入ったデザインに仕上げます。自分でやる人もいて、そのための製本機も売っています。こうすると、オリジナルデザインでいろいろな本の装丁を揃えることもできます。書斎に延々と同じ革の装丁で本が並んでいるのを映画で観たことはありませんか? あれは、その家の家紋なんかを入れて独自に装丁して揃えているんです)のウィンドーを写真に撮ったところで、フィルムが終わった。予備を取り出そうとしたら、ウェストポーチにフィルムがない! ポケットも探したがない。これはきのうバッグに入れていたのを、ポーチに移し忘れたのに違いない。ホテルに帰れば日本で仕入れた安いフィルムが山ほどあるのに、ここで高いのを我慢して買うしかない。KODAKの看板を見つけて(フィルムにも好みがあって、私はAGFAが好きなのですが、日本では手に入れにくいので、KODAKを常用しています)24枚ISO400を10,000リラで手に入れる。

緊急事態

リアルト橋は、突然、目の前に現れた。橋を渡ると、市場があるはずだが、時間がもう遅いせいか、野菜果物を商う小さな屋台が3、4軒あるだけだった。運河沿いの広い倉庫が海産物市場かもしれないと思ってみたが、何もないのでわからない。あとはサンタ・ルチア駅まで歩いてヴァポレットに乗ろう。日が暮れるのは早そうだ。暗くなってからヴァポレットに乗っても岸辺に並ぶ建築が味わえない。ヴェネツィアでは、運河に向かう方に正面玄関が開けている。地上からでは、建物の裏側しか見られないのだ。3時半。おや? おなかがおかしい。セーターを着ていないので、おなかが冷えたらしい。同じことを2年前のローマでやっているのに、反省しない馬鹿者であった。楽しくゆっくり散策するはずが、苦しいトイレ捜査行になってしまった。ヴェネツィアは公衆トイレが極端に少ないのだ。たとえばマクドナルドのようなセルフの店があれば客のふりして入れるのに、と考える。ここはサンタ・ルチア駅に向かおう。途中でカフェがあればラッキーなのだが。ヴェネツィアでは直線道路は短い。路地はくねくねと折り曲がる。普通ならわくわくして楽しいのだろうが、今は早く目的地にたどり着きたい一心なので、ひたすら先を急ぐ。人通りがなくなった。こんなところは観光客は歩かないのだろうか。ものすごく派手なおばさんが、やはりものすごく派手な犬を連れて散歩していた。生理的欲求が間欠的に襲う。20分経過。ようやくカフェを見つけた。客はゼロ。不景気な店だ。とりあえず席についてエスプレッソを頼む。温かい液体が胃に心地よい。本題のトイレを尋ねる。「Dove' la toilette?」こういうサバイバル会話を覚えていてよかった。無事にコトを済ませる。勘定は2,500リラ。ここを出たらもうそこはスカルツィ橋で、向こう側はサンタ・ルチア駅だった。

運河下り

ゴンドラ

橋を渡って対岸のヴァポレットの停留所に向かう。片道で4,500リラ。1番の船を待つ。4時15分。早くも薄闇が近づいている。船が着き、人波にしたがって乗船。しかし、この船は逆方向だった。次のローマ広場で降りて乗り換える。慎重を期して「Per San Marco?(サン・マルコに行きますか)」と聞く。あっさりうなづいてくれるかと思いきや、意外にも、何やら言葉が返ってくる。わからないのでキョトンとしていると、まあいい、乗れと手を振った。どうやら、サン・マルコなら途中の停留所をカットした急行があるよと言いたかったらしい。いえいえ、私の目的はカナル・グランデ(大運河)に面した建築群を見ることにあるので、各駅停車がいいんです。船がやってきた。1番、リド行き。最後尾に座る。吹きっさらしなので寒い。船室の中なら暖かいが、それでは視界が遮られる。もはや、相当暗い。ここから、両岸の建築を忙しく眺める。スカルツィ教会が左手(後ろ向きに座っている私には右側)に見える。スカルツィ橋をくぐった。これから、トルコ商館、カ・ペーサロ、カ・ドーロ、ドイツ商館などを過ぎてリアルト橋に至る。しかし、船のスピードが思ったより速いのと後ろ向きなので、どの建物がどれなのか、判別できない。ただ、それぞれが美しいファサードを競っている。典雅な柱列。やがてアカデミア橋の下に。グッゲンハイムの玄関も見える。そして、サン・マルコ広場。運河から見たサン・マルコ広場とドゥカーレを写真に撮りたかったので、サン・マルコでは降りず、次のザッカリアで下船した。夕闇に沈むヴェネツィアの街並み。運河に面して艶美を競うかのような均整のとれた建築の数々。やっぱり、寒いけど水上から見るのが本当のヴェネツィアだろう。ゴンドラも水上タクシーもトラゲットもいた。乗ってみたかったな。トラゲットは満員で、立ったままなのでスリル満点、乗客はキャーキャーいってました。

散歩

まだ5時過ぎだった。夕食に行くための集合時間は6時15分。まず、さっきゆっくり見られなかったサン・マルコ寺院へ向かう。ガーゴイルもいる。私はこの怪獣の格好をした雨の排水口を偏愛しているのです。コンスタンティノープルから略奪した4頭のブロンズの馬(複製。オリジナルは宝物館に展示)も見える。さあ、目的のモザイクだ。内部は金色に輝いている、と言いたいところだが、実はすごく暗くてクーポラ(丸天井)までは高すぎてよく見えない。ここは、とにかく金色のモザイクと大理石に覆われている。建築プランはギリシア十字なのに天井は異様に高く、窓などの開口部は小さいために内部はつねに暗い。やはり、ビザンチン、アフリカ、東方との交易で富を築いたヴェネツィアらしい混淆した様式というべきか。ここには至宝「パラ・ドーロ」がある。金銀宝石細工の祭壇画で、これもコンスタンティノープルから略奪したものにさらに細工を施したものだが、見るのは有料である。どうも、私にとって、ヴェネツィアの宝物はあまり魅力がない。私はもともと、城とか王宮とか宝石には関心がなく、ヴェルサイユにもウィーンの王宮にも行かなかった。ただ、ビザンチン系のモザイクは大好きなので、期待していたのだけれど、これではライトと双眼鏡が必要だ。それでも粘っていたが、入って10分で追い出された。悔しいので、ファサードのモザイクを写真に撮る。あと50分。時計塔から北へ歩いてみることにする。小雨。歩き出してすぐ、後ろから声をかけられた。「金山さん、またあとで〜」。添乗員のHさんと大阪グループ添乗員のIさんだった。どうやら、夕食を摂る予定のリストランテの下見らしかった。返事をする間もなく手を振るのがやっとだった。う〜ん、ヴェネツィアは狭い。サン・マルコの北側は華やかなショッピング街になっていた。ブランドものもガラスもレースもとんと買う気のない私には豚に真珠だ。あっという間にリアルトに。橋を渡らずにさらに北上。20分たったところで予定通りに引き返す。珍しく「WC」の標識を見つけたので、矢印にしたがって行ってみる。この矢印がくせもので、なかなか遠い。やっと見つけたトイレはきれいだった。500リラで改札のようなバーを抜ける。中でゆっくりしていると突然、電気が消えた。慌てず、スイッチを探す。すると、また点いた。どうやら、動きを感知する方式で、しばらく動かないと節電で電気が切れるらしい。トイレにもいろいろありますね。今までで一番あせったのは、真っ暗なのに、どこにも電気のスイッチが見当たらず、手探りを覚悟してドアを閉めた途端に電気がついた、というパリのトイレでした。また通りに戻る。街には早くもNatale(クリスマス)の飾りが。道草を食った分、早足にしたら6時5分に着いてしまった。またサン・マルコ寺院のファサードをぼーっと眺める。集合場所は隣のドゥカーレ前。まだ、誰もいない。

ウサギはおいしい?

広場の向かい側のカフェからピアノが聞こえる。そこで暇つぶししようかと思ったら、嬌声がした。わがツアーはそこにたむろしていたのだった。添乗員のHさんが3分の遅刻。大阪グループとも合流してぞろぞろと歩き始める。第2回目のモニターイベントだ。夜のヴェネツィアの曲がりくねった路地を60人以上で移動するのはちょっとしたスリルだったが、迷子もなく到着。<mondo novo>というリストランテ。向かいが小さなスーパーで、みんな買い物をしたがったが、さすがに行く人はなく、席に着く。今回のメニューはプリモにボンゴレ・ロッソ。セコンドがウサギのグリルとサラダ。ドルチェはアーモンドのタルト。「ウサギ」と聞いて一波乱。みんなウサギを食べたことがないんだろうか? ウサギは立派な食材だと思うが、話題はイナゴを食べたことがあるかとか、変な方向にそれていく。ウサギはゲテモノじゃないぞ、と思いつつ、一般的にはペットなんだな、ということらしい。しかもどうもこのウサギがアンケートの対象になっており、このへんで新開発商品のセンスが疑われてきた。私は例によってmezzo di vino rosso(赤ワインのハーフボトル)12,000リラを頼む。テーブルのみなさんはミネラルウォーターのフルボトルをシェアしたり。これは賢い選択でしょう。

謎の東洋人

同じテーブルの大学生がスパゲティ・ボンゴレ・ロッソの「大盛り」を希望した。「tanto」と言い、Hさんにも通訳してもらったのに、出てきた皿は普通盛りの1.1倍ぐらいだった。可哀想に思った同席の女性陣(推定平均年齢48歳)が分けてあげた。彼は筑波大学の理系で、はじめての海外旅行なのだった。すれていないところが母性本能を刺激するのか、マスコットのようになっていた。旅慣れたおばさんたちは何かと世話を焼いてくれるらしい。対して、私は長髪をポニーテールにし、グループから少し離れてひたすらメモをとっている謎の30代だった。どうやら私の職業当てと年齢当てが話題になっているらしかった。げげっ、ほっといてくれ。それよりも私を驚かせたのは、やはり買い物への執念だった。みなさん大きな袋をいくつも持っていて本日の収穫を報告(自慢)しあっていたのだが、なんと食事の途中で「やっぱり買いに行く」と2人の女性が抜け出していった。ヴェネツィアン・グラスの店を見比べていて、どうしようか迷っていたけど、やっぱり欲しい、ということとか。さすがに「私なら行かないわ」と別のおばさんもあきれていた。結局、この2人は手ぶらで帰ってきた。もう、店が閉まっていたそうだ。とにかく無事に戻れただけでも幸運というべきだろう。店では日本語が通じる、日本ではいくらいくらなのにここではこんなに安い、というおなじみの会話がつづく。こうして、札束を振り回す日本人のイメージが定着していくのだろう。しかし、このぐらいの団体行動の掟破りはいい方だったらしく、大阪組は大変なことになっていたのだった。6人ほどが「ホテルに戻らない」と反乱を起こして添乗員を困らせたと。これは次の日のミラノでの夕食の場で知った。それにしてもおばさんたちの情報網は恐ろしい。

さようなら、ヴェネツィア

店を出ると、向かいのスーパーはもう閉まっていた。メニューへの感想はみんな辛辣だった。まずくもないけど、また食べたいとは思わない。まあ、招待してくれた会社にもっと協力したいのはやまやまだが、ここは正直に。8時。短いヴェネツィア滞在が終わろうとしていた。街の匂いもまだよくわからない。ほんのちょっと撫でただけ。サン・マルコ広場に戻り、船とバスを乗り継いでホテルに帰り着いた。明日はミラノ。同室のM氏と、自由時間に《最後の晩餐》を見に行こうと決めた。その時は、さらにスフォルツェスコ城でミケランジェロの《ロンダニーニのピエタ》を見てブレラ美術館に回ろうと無謀なことを考えていた。問題は自由時間が本当に11時に始まるか、昼食をどうするか。もうひとつ気がかりはM氏のことだった。彼は今日もオプショナルツアーだったので、1人で行動して食事をしたことがまだないのだ。「日本人のいないところには怖くて行けない」人を放り出すわけにはいかないだろうなあ。それにあからさまに「連れていってあげる」なんて言えませんよ、年上の人に。第一、私だってミラノは初めてなんだから。ここは、成り行きに任せよう。ところでM氏も「あの買い物はなんなんだ?! それになんてお金持ちなんだ!?」と驚きあきれていた。彼女たちの「旅」は「買い物」とイコールらしい。ミラノはショッピングの本場だけに、明日はどうなることやら。そして、この予感は、恐ろしいまでに的中するのだった。

哀愁のヨーロッパ ミラノ・ヴェネツィア篇 第3話 【カナル・グランデの夜は更けて】 完

text & photography by Takashi Kaneyama 1998

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