書評 藤井貞和著『詩の分析と物語状分析』           


 藤井貞和は著名な日本古典文学の研究者であり同時に優れた詩人である。よく考えればこのふたつの存在の仕方は相容れないはずだ。が、不思議と、日本ではこのふたつの存在の仕方を併せ持つ文学者が多い。そういった文学者と藤井氏が違うとすれば、「詩をうたいつづければよかったものを、実際には言語の観察者である役目にもまわらされて、その二重の性格を活きる。つまり、うたいかつ言語の探求者でもある、という矛盾を刻印される」(本書四八ページ)と、そういう存在の仕方を、本の詩言語の宿命的な問題にまで下りたって「矛盾」として自覚している点であろう。あとがきで引用されている、日本語は「本質的に非叙事詩的な国語」であると述べる萩原朔太郎の言葉を正面から受け止めれば、この「矛盾」は必然的に負うしかないということのようだ。それなら、詩の言語に適さないように見える日本語によってうたわれ書かれてきた日本の詩歌の歴史は、どのような原理のもとにあったのか。本書は、藤井氏のこのような問の産物である。

 詩人であることと文学言語の研究者であることとの二重の性格は、本書では、頻発される「実証」という方法的な言葉の取り扱われ方によく出ている。冒頭の「詩とは何か」という章では、折口信夫の「国文学の発生」が実証をともなわないとして「折口の論文を読むものはとまどいをおしかくせない」と言う。この章と同内容を含んだ文が『短歌における批評とは』(岩波・一九九九)所収の「批評の根拠」に出ているが、そこでは、うたの発生を実証できていない「国文学の発生」は壮大な失敗作だとまで断言する。何故、こんなにも実証にこだわるのか、最初私はかなりとまどった。研究者であろうとすることのアイデンティティなのか。それとも、実証を軽んじるポストモダンを反動的と見る潮流に氏ものっかっているだけなのか。
 が、本書を読んで、私は、氏の言う実証が、結局は「詩の原理」を自在に語るための重要な戦略であると思うようになった。氏の言う実証とは、証拠を積み重ねてある解釈の枠組みを構築するというようなものではない。逆であって、既成の(それこそ実証という方法で構築された)解釈の枠組みの、根拠の希薄さ、不整合さ、非現実性、を徹底して突くことで、その既成の解釈の鎧を引き剥がす武器なのである。つまり、古典の詩歌を覆っている、様々な解釈の論理をいわば相対死させる武器としてどうも氏は実証にこだわる。とすれば、鎧を引き剥がされ裸にされた詩歌に何が残るのか。「同じ修辞を用いても一方がまるでだめ、一方が秀歌になる、という分かれめは微妙な”詩の生命力”にゆだねられる」(一六九ページ)というときの「詩の生命力」という、氏にしては不用意な言い方もそうだという気がするのだが、本当は「でも歌語りとは、まさにそういう一瞬の、あるいは数瞬の”芸”としてあるのではなかろうか」(一八一ページ)とある「芸」という言い方こそがそうだろう。つまり、鎧を引き剥がしたとき、そこには「芸」としての言語行為が見えてくる。それは実証という方法から自由になったときに見えるものだ。鎧を剥がしたのは研究者藤井貞和であったが、剥がした跡を語るのはまさに詩人藤井貞和である。

 結局こういうことだ。日本の詩歌はそれ自体で孤立する言語行為ではない。たぶんにその成立の当初から、その詩歌を語るという行為と不可分なものとしてあった。その語る行為が生み出す、日本の文学の言葉の典型的な光景こそが、本書の不思議なタイトル「詩の分析と物語状分析」の「物語状」なのだ。それを「芸」と呼ぶのは、高級な芸術として公の中に上昇するわけでもなく、生活世界の中で、おしゃべりとして楽しまれ、技術として洗練され、時には切実なコミュニケーションでもあったような「言語行為」の中で、営まれつづけてきたからなのだ。詩人藤井貞和は、古典の詩歌を以上のような視点から語り出す。そこには、日本の詩歌の原理を、それ自体抽象的で理論の産物でしかない言語論からではなく、生活世界の中で活きられている言語行為として見ようとする意図がある。この意図には賛意を表したい。
 本書の楽しさは、その語り口が「芸」であるように装われていることだ。「物語状」という独特の文学の表現の有り様を藤井氏はまさに「物語状」に語る。ところで、そうであるならば、折口信夫はまさに、詩人藤井貞和の理想ではなかったのか。古代文学研究を折口は「物語状」に語ったのではないか。しかも、実証によって実証から自由になるなどという面倒なことを行わずに。何故、藤井氏は折口を断罪するのだろう。結局、強い嫉妬ということなのか。

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