書評 
  小林幸夫他編 『〈うた〉をよむ―三十一字の詩学―』


                                  
 まず本書が、三十一文字の詩形を短歌や和歌ではなく〈うた〉と呼ぶことについて支持したい。短歌や和歌のおもしろいところは、このような言い換えが可能であることである。この言い換えによって、この三十一文字の詩形は、アイヌのユーカラ、沖縄の神謡、無文字社会での精霊たちの歌にまで遡ることが可能になる。この言い換えにこだわるだけで、実は、もう一冊の〈うた〉の入門書が出来る。その入門書は、日本という地域的な限定や国家や伝統という呪縛を越えて、〈うた〉としての言葉と人間とのより原形的で濃密な関係をさぐるものになるだろう。その書かれざる入門書から見れば、本書は、〈うた〉における日本バージョンということになろうか。
 執筆者の一人品田悦一氏にがんばってもらって、〈うた〉の起源をどこまで遡り得るのか、追求してほしかったのだが、古代性を近代の作り上げた理念とする立場からはそれは無理なのだろう。ただ、品田氏も、万葉の恋愛歌を基層文化から遊離したものと言っておられるのだから、その基層文化の追求をしてほしかったというのが、その基層文化というものに最近こだわっている私の個人的な感想である。
 が、以上のようなことは、本書に対する私個人のないものねだりである。私は本書を読みながら、たくさんのないものねだりをしたくなった。それは、本書に不満を抱いたからではなく、いろいろと刺激されたからである。本書を読みながら、願わくば、この執筆者の一人として参加したいと本当に思った。そう思わせるほど、本書は読むものをある意味において幸福にさせる本である。

 何よりも、「〈うた〉とは何がおもしろいのか、という出発点に立ち戻っての問いかけ」という姿勢の貫かれたことが、読むものを幸福にさせた要因である。が、「おもしろさ」というものの追求は本当は難しい。「おもしろさ」を主観性という範囲でとらえるのか、客観的に把握可能な共感性という範囲でとらえるのか、あるいは、ある社会的構造の中で「おもしろがらされている」だけととらえるのか、「おもしろさ」に近づく方法だけでいろいろある。つまり、「おもしろい」と思うこと自体は、誰にも共通にあるエロス的感性なのだとしても、その近づき方は一人一人の理念や生き方の問題に返されるからそれぞれ違ってしまうのである。本書も、その意味において、一人一人「おもしろさ」への近づき方が微妙に違っていて興味深かったが、おそらく執筆者同士で「おもしろさ」への近づき方への討議は繰り返されたのであろう。本書を貫く「おもしろさ」への共通した接近の方法は十分に読みとる事が出来、その成果は、渡部泰明氏の文章によく出ていたように思われた。
 例えば渡部泰明氏は、縁語の説明において、スナップ写真と記念写真とを比較しながら、後で見ると気恥ずかしくなるスナップ写真ではなく、儀式張って堅い表情の記念写真を好むわれわれの心性と和歌の心性とのつながりを指摘し「縁語は今ここを生きる人の、心の記念碑を作り上げる媒体だといってよいのだろう」と述べる。このような説明の仕方に、「おもしろさ」への接近の共通の方法が見える。わかりやすいということなのではなく、どのような古典の〈うた〉であっても、それが〈うた〉である限りにおいて、現代の現実を生きる人間の様々な必然性と呼応するはずだ、というところから説明していこうとする姿勢である。このような説明の姿勢は、執筆者たちと同じように短大や大学で短歌を教えている身としてとても参考になった。

 今の学生にとって虚構の世界に遊ぶことは、現実からの切実な逃避という面を強くもつだろう。ゲームに夢中になる心性は、源氏物語に夢中になる平安時代の女性の心性と同じにはとらえられない。われわれは、平安時代の女性も現実からの逃避願望はもっていたと言うことは出来ても、その逃避願望のリアリティは再現できない。このリアリティだけは、今を生きる感覚という理解によってしか説明できないものである。そして、授業で一番問題になるのが、結局、今を生きることのこういうリアリティを理解しどうやって言葉で表現するかということである。そのリアリティに、教える側の言葉が分け入ったとき、学生たちは、自分たちとはたぶん違うであろう平安時代の切実さを、自分たちの切実さを手がかりにして理解しようという気になり、虚構の世界に分け入っていくのである。いきなり、平安文学の虚構世界のすばらしさや切実さを説いてものってはこない。
 本書を貫く「おもしろさ」への接近の方法は、現在を生きている学生のリアリティと〈うた〉とをかからわせることだ、と私はかなり好意的に理解した。好意的にというのは、全員の共通理解になっているかどうか少し疑わしいからだが、幾つかの文章はそのように読むことが出来るという点だけは指摘しておきたい。この評価には、少し、私のないものねだりが入っているかもしれないが。

 このないものねだりをもっと徹底して述べておきたい。私は、この本を読みながらいい気持になった。授業でこういう風に教えたらいいのだな、と思ったり、ああ、こういう風に理解するのだと教えられたり(例えば塚本邦男の短歌論で小林幸夫氏が塚本の言葉と言葉とのつなげ方を異相接続と説明したことに、塚本邦男の評価に悩んでいた私は目からうろこの思いであった)、得することの多い本なのだが、ただ、読んでいくうちに不安になったことも確かなのである。
 私の幸福感とは、結局、私が教える側に身を置いているからではないのか、ということに気づいたのである。そのとき、私は、この本はいったい誰に向けられた本なのかということを改めて思いなおした。冒頭に「〈うた〉というものについて少し深く考えてみたいという学生に、まずこの本を読んだらどうか、と勧めるに足る本がなかなかない」と悩んでいたので、自分たちで作ることにした、とある。その方法がすでに述べたように「おもしろく」読みたい、という願いを発動させることであったということである。確かに、この本は、教えられる側、つまり学生に向けて書かれたことは確かだ。当たり前だと言えば当たり前なのだが、その学生が「〈うた〉というものについて少し深く考えて見たい学生」であるということが気になる。
 実際に短歌や和歌を教えている私の現実を言わせてもらうなら、〈うた〉というものについて少し深く考えてみたい学生などほとんどいない。教える側にとっての授業の実状は、学生にほんの少しでも〈うた〉に興味をもってもらおうと悪戦苦闘することにエネルギーが費やされ、それでけで一年が過ぎてしまうというようなものである。そうでなければ、単位をとるに必要な知識を、学生の私語に耐えて粛々と教えていくだけの授業をするしかない。〈うた〉に興味など持たない学生と「少し深く考えたい学生」との間にはかなりの落差がある。多くの教育の現場では、〈うた〉どころか文学そのものに興味をもたない学生が圧倒的多数であるはずだ。そういった学生にいかに文学に少しでも興味を抱かせるか、という努力だけで疲労困憊してしまうというのが、教える側の現実ではないのだろうか。
 その現実を認めるとき、本書が、そのような、最初から〈うた〉に興味を持たない学生に〈うた〉の「おもしろさ」を伝えることが出来るのかどうか、疑問を感じざるを得ないのだ。「自分達の好奇心を最大限に発動させることによって、読者の好奇心に揺さぶりをかけようとした」と述べるときのその読者が、〈うた〉に興味をもたない学生である場合、揺さぶられるとは思えないのだ。揺さぶられるのは、〈うた〉に知的興味を向けられる余裕のある学生かそれこそ教える側であろう。そういう意味において、本当は教える側に向けて書かれた本だというのならとてもわかりやすい。いや、やはり教えられる側に向けて書かれていると考えるべきなのだろう。この本の執筆者の教育の現場では、〈うた〉に好奇心を抱く余裕のある「〈うた〉について少し深く考えてみたい学生」が多いのかもしれない。もしそうなら本当にうらやましい。
 そこでないものねだりの提案であるが、〈うた〉に最初から興味を抱いていない学生の興味を揺さぶるような入門書を書いてほしいのだ。

 どのように書くかだが、まず、執筆者の一人一人が、何故、〈うた〉というものにかかわり今もかかわり続けているのか、そのことが執筆者の生き方にどれほどの影響を与えているのか、正直に吐露してほしいのだ。私語の多い私の授業でも、私が短歌との出逢いや何故かかわり続けるのかということを、私と妻との出逢いや関係について告白するように話し始めると私語が消えてみんな聞き耳をたてる。彼等が聞きたいのは、実は、文学のおもしろさといった知的興味を刺激する話ではなく、一人の他者のリアリティにかかわることであることがよくわかる。〈うた〉もまた一人の他者のリアリティを伝えるものであるはずである。それを伝えるためにも、教師という他者のリアリティを伝えることから始めるしかないだろう。そのリアリティとは、教師が「おもしろがる」好奇心の発動ではなく、むしろ、教師も文学を必要とする寂しい人間であることをそのまま見せるというようなものではないのだろうか。
 教える教えられるという関係の中で、文学を「おもしろがる」ことが出来るということは、実は、文学という安定した制度を前提にした教える側の心地よい特権であって、文学に興味を抱かないものにとって、それは別世界の出来事に過ぎないか、教えられる側を差別化していく物差しに見えているかもしれないことを考える必要があるだろう。それほど、文学をとりまく状況は甘くないのだ。現在の大学や短大の文学関係の学科が、文学に興味を抱かないものを抱え込むことによってかろうじて成り立っている現状を思うとき、むしろ、そこに属するわれわれは、文学という制度などすでに何の役にも立たないことを覚悟し、逆に、役に立たないからこそ、そういった学生たちを真剣にするほどの何かをつきつけられると考えるしかない。そういう状況の中で「おもしろさ」を発動させるなら、それは好奇心というよりは、教師のあられもない生き方にかえされるものだろう。学生は、〈うた〉を説く教師のそのあられもない生き方(他者のリアリティ)を見ようとしている。〈うた〉をできあがった知のレベルで楽しむのではなく、知というものがどうして必要なのかというところまで降りて、〈うた〉のリアリティ(うたを必要とする一人の他者のリアリティ)を問うような真面目なやり方の方が、むしろ学生には届く、と最近私などは思うのである。
 だから、「〈うた〉をよむ」のリアリティ版を今度は作ってほしいのだ。むろん、本書にもそういったリアリティがないわけではない。が、物足りない。そこで、今度は、執筆者同士が、自分と〈うた〉とのかかわりを告白し、それぞれの文学観の違いをそれぞれの文学観人生観の違いとして真剣にたたかわせ、そのプロセスを〈うた〉の入門書として作り上げられないものか。ただし、その研究会は、きっとつらいものになるだろう。途中でケンカになって空中分解するか何人かは辞めるかもしれない。でも、それを乗り越えて何とか作ってほしい。ただ、そういう研究会には私は参加したくない。
 
『〈うた〉を読む 三十一字の詩学』小林幸夫他編著 三省堂 一九九七.十一.十
 
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