書評 
  古橋信孝著『平安京の都市生活と郊外』吉川弘文館

      現在としての郊外                           


 著者は、かつて、南島のフィールドから古層の歌謡を掘り起こすことによって、日本の古代文学研究に斬新な光を当てた。その試みは、見えないわれわれの言語文化の古層に、モデルを構築しながら大胆に踏み込もうとする野心に満ちたものだった。が、最近の氏の探求は、見えない言語文化の古層から、どちらかといえば見える都市の言語文化へとフィールドを移ししつつある。個人的には、残念な気もしているのだが、しかし、そのような視点の移動はとてもわかる気がする。見えない古層への踏み込みには普遍的なモデル(氏自身の日本古代に対する世界観)の構築が不可避だが、今、氏は、そのモデル自体の歴史的現実への妥当性を確かめたいと考え、それ以上に、モデルを介した世界への間接的把握に飽きたらず、手触りのごとき確かさで感じ取ることのできる古代のフィールドを切望しているのだとも思われる。 
 氏が、モデル化した古層の古代から、古代の近代ともいえる都市の文芸的世界へとフィールドを移し(『古代都市の文芸生活』)、さらに、郊外へと視点を移動させたのは、けだし必然だったのだ。この場合、郊外とは、古代の古層と、都市の近代性とが入り交じった、現在的空間ということである。何故なら、郊外とは、都市でもなく、異郷でもなく、それら両方を含み込んだ流動性そのものであるからだ。固定した空間ではないという意味で、未来や過去への幻想を持たない。そういう意味で郊外は常に現在的なのだ。氏は、古代というフィールドの中で、古層から近代へ、そして現在(現代)へと視点を移動してきたのである。手触りの実感は、まさに、古層のモデルにも都市の近代にもなく、郊外という現在的空間にある。現代においてもまた郊外論が盛んであるが、それは、現代社会もまた過去も未来も見えない流動的な世界であるとの認識が強いからだ。その意味では、氏の平安京の郊外論は、現代の不安定な社会の写し絵である郊外論と呼応するものである。

 郊外を、現在的なものと解するなら、郊外はまさに不安定で絶えず変容への予感を感じさせる空間ということになる。本書は、そのような不安定な郊外の手触りをよく伝えている。郊外を都市と異郷との境界空間であるというようにモデル化し、そのモデルを実証していくという歴史学的な方法をとらずに、現在としての郊外のその幻想性や表情への感触をできるだけ再現しようとする手法をとったことが、本書をおもしろくしている。たとえばそれは、「御霊を鎮める場所」「郊外の怪異」などの章によくあらわれている。これらの章を読むと、郊外とは、実体の空間である以上に、幻想の空間であることがよくわかる。
 都市論として、日本の都市が最初から郊外を含み込んで成立し、そこが城壁を持つ西洋の都市と違うところだと、氏は日本の郊外の特徴を述べるが、そのことは、最初から、郊外は幻想の空間として都市そのものを覆っていたということであり、都市の無意識として機能していたということである。とすれば、それは歴史学的に実証することは不可能な空間である。氏は、「郊外をより具体的に明らかにできるのは歴史学」だと述べているが、実は、本書の意義は、歴史学では明らかにできない郊外を掘り起こしたことにあるだろう。平安京の郊外は、現代の郊外がイギリスの「田園都市」という幻想によって開発されながら、いつのまにか無記名の得体の知れない人間の住む幻想空間であるイメージを先行させていることとやはり呼応するのだ。平安京もまた、都市の無意識が抱え込む不安を郊外という空間において現実化していたということだ。平安京の郊外もまたわれわれにとっての現在的な空間であるということを示した本書の意義は大きいといえるだろう。

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