書評 山田富士郎著『短歌と自由』を読む
              個別性と普遍性の間

 本書を読んで、私は著者の批評眼の確かさに正直いって驚いた。イデオロギーに安易にのる知識人を批判し、丁寧に自己の論理を押し進めていく思考には説得力がある。特に、歌会始めの選者を引き受けた師岡井隆について述べた「歌会始めと私」という文章がいい。天皇制という、それを論じるものの思想的色分けを無理強いするリトマス紙のような話題に振り回されず、問題の所在がどこにあるかをつきとめていく論理はなかなかのものである。特に、師に対して批判があればするが師への尊敬は隠さないといった師岡井隆への距離の取り方に感心した。こういう距離感を許す師弟関係もいいものである。
 だが、本書を読み終わったとき、私は、その鋭い批評精神は、著者の生き方にとってどういう意味を持つのだろうか、と考えてしまった。本書には、批評の文章ばかりではなく、個人的な芸術への嗜好を述べた文章も入っているということもある。が、本書を読んだ全体の印象として、著者の鋭い批評精神は必ずしも著者の現在の生き方と響きあうものではないようなのだ。
 著者は、単純明快には語ることのできない人間の精神や思想の現実というものの微妙さを、抽象的な論理で巧みに語る技術を持っている。その技術は、著者が世界と関わるためのかけがえのない方法であろう。が、そうなら、著者はその技術を駆使して積極的に世界に関わろうとしているのか。どうやら、そうではない。
 歌人小池純代について述べた文章で、小池の歌作廃絶を分析したところがおもしろい。個別性と普遍性との間の隘路を行く小池が、そのどちらへも転落することを拒否したからだというのだ。転落すれば表現者として「不死の呪い」「行きながらの死者」を覚悟しなければならないというのだ。実は、この文は、著者自身が、個別性(自分に閉じこもること)と普遍性(世界へ関わること)との間の隘路をどちらにも転落せずに最後まで行ききる決意を述べたものではないのか。つまり著者にとって、世界に関わることも世界から隔絶することもどちらもかけがえのないことなのだ。クラシックや蝶へのマニアックな嗜好と、湾岸戦争へをめぐる知識人への批判の文章を並べてもおかしくない本書の光景がそのことを物語っている
 だが、本当は、著者の批評精神がつながりを求めよりどころとするはずの「世界」そのものの根拠の見えないことが、著者にそのような姿勢をとらせているのではなかろうか。著者は、個人的なことと、普遍的なこととの境を意識しながら両者を行き交う。それを楽しんでいるようにも、耐えているようにも見えるのである。

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